一章 帽子屋の肉 2P
昼になると約束を覚えていたホーカーが肉屋を訪れた。
「こんにちは! 肉の口になった?」
「ああ。旦那は?」
振り返るとそこに父の姿はなく、代わりに母が迎えた。
「らっしゃい! あんたがホーカーだね。客はあんた一人だよ。たっぷり食っていきな!」
普段なら招いた者と招いてもいない者が席を取り合うのだが、昼食会に一人しかいないというのはどういうことだろう。
「いつもはどのくらいいるんだ?」
なぜそんなことを気にするのだろうと思いつつ、ハットはホーカーの質問に答える。
「毎日ではないけど、五人も十人も来ることがあるよ。たまに、本当にたまに三十人も集まったりもする。この前は二十八人も来たんだ」
「そんなに? 赤字にならなかったとしても、儲からないだろ」
「うーん、最近はお金に困ってるようなことは聞かないし、大丈夫じゃないかな」
不思議な肉屋は奇妙なシステムで成り立っている。それは人を昼食会に招待することから始まるが、元から全てが上手くいっていたわけではない。
人を呼んでタダで商品を振る舞うのはまさに、自分の身を切り売りするようなもの。
身を売れば寒くなり、過ぎれば死に至る。二・三人が四・五人になる頃は赤貧に打ち震え、もう少し増えたらどうなるか。誰でも想像がつくだろう。
「今は困ってないのか?」
「よう! 持ってきたぞ!」
ホーカーがそのシステムの核心を聞き出す直前、父と母が肉料理を運んできた。
両手と腕、頭に皿を乗せて運ぶのは母の得意技。
「さあ、今日はたっぷり食っていきな! 残すんじゃないよ!」
「来たのは俺だけじゃないのか?」
この家ならではの冗談をホーカーは真に受けた。
「あっはっは! そう、これから来る人もいない。全部食ってもいいよってことさ!」
ハットの母は料理を作るのが好きで、しかも人がその料理を平らげるのも好きだ。
だが運ばれた皿はあまりにも多く、残さず食えと本気で強要するなら暴力の一種と言っても過言ではない。
「なるほど。それじゃあ、いただきます」
大きな水瓶にコップ一杯程度の水を入れれば、水瓶に水を飲み干されたと錯覚する。水瓶が満たされることはそうそうなく、底に穴が開いてないかつい疑うのだ。
つまりホーカーの食事風景はまさに、穴の開いた水瓶に水を垂らすようなものだった。
まずホーカーは砂豚のベーコンを手でつかんで口に放り込む。この店自慢の肉だが、高価だからあまり売れないもの。
次に緑牛の足の揚げ物をあっという間に骨にした。この牛は砂漠に住んでいる生き物で、群れは砂漠を草原のように彩る。足の肉は硬く、噛むほど味が出る酒飲みが好む肉だ。
次に岩羊のスープ。高級料理では独特の臭いを消すために下茹でして、香草を使うことが多い。母はその臭いこそうまみだと、ざっくばらんに切って香辛料で簡単に味つけしてミルクと煮込む。
もりもりと目についたものから貪る姿に、しばらく目を奪われる三人。
料理が無くなると慌ててハットが手を伸ばし、我に返った父も少し遅れて手を伸ばす。
肉屋唯一の料理人は二人の慌てざまを見て吹き出し、一通り笑ってからようやく手をつけた。
三人が満腹になってもホーカーは手を休めず、ついには全て平らげる。
「ごちそうさま」
角豚の角にまで手をつけると思って見守っていたハットは、両手を合わせるホーカーに安堵と感嘆のこもったため息をついた。
「見事な食いっぷりだねぇ。驚いたよ」
母親は空になった皿を見回し、ぱんぱんと機嫌よく手を叩く。
「さすが、帽子屋の肉! この町一番の味だぜ!」
ホーカーは楽しげに奇妙な言葉で料理を褒めた。
「なんでそんなこと、知ってるんだ?」
なぜか顔を引きつらせた父に向けられる笑み。その紫の目にはどこか凄みがある。
「俺たち散歩屋は色んなことを知ってる。立ち話や噂話すら耳に入るんだ。店の通り名くらいなら何度でも聞こえてくる」
この肉屋の名はミートホーム、肉の家だ。表の看板と別の名で呼ぶのは単に間違えたか、そうでなければ歓迎できる者ではない。
ホーカーは水をうまそうに飲んで、よく俺を入れる気になったなと言う。
父は彼を怪しむべきでも、警戒するべきでもなかった。
そう言い切ることができる者がいなかったのが、何よりの不幸だ。
ホーカーが去った後も三人は何も話さなかった。
父は動揺し、母は落ち着いていた。
二人が真逆の様子を見せる理由をハットは考え、肝の大きさが違うからだとすぐに気がつく。
ハットにはなぜ帽子屋と呼ばれたのか分からない。
意味をずっと考え続けたハットはついに寝つけず、夜が明ける頃には大胆にも直接ホーカーに聞こうと決める。
朝になればホーカーは当たり前のように肉屋の前を通った。
「おはよう、ホーカー」
ホーカーはフードを脱いですまなそうに笑う。
「よう、ハット。どうした、目の下が黒いぞ?」
自分の目元を人差し指で示す。
ハットはつい商人のものではない笑みを浮かべた。ホーカーも眠れなかったのか、くまがひどい。
一流のブラックユーモアを聞いたときのように、ハットはそれに相応しい科白を選ぶ。
「気になることがあってね」
ホーカーは満足げに一笑した後、口許だけ笑みを残して刺すように一言。
「それは解決したか?」
ハットは少し考え、答える代わりに自分の目元をちょんちょんと指差す。
解決していたらくまなど作らなかった。と言わなかった口許は笑み、目はホーカーに向けられたものと同じ、刺すようなもの。
ホーカーは額に手をやり、まいったなと言って大笑した。
「場所を変えよう。これ以上ないくらいしっかりつかまりな」
背を向けて屈むホーカーのその背を、敵意ある者なら刺すこともできる。
しかしハットは頷いて乗れと言った人物の首に腕を回し、これ以上ないほど力を込めた。
「ぐへぇ。そうじゃねぇ」
「ご、ごめん!」
抗議の声に慌てて離したハットの手をホーカーは右手でつかみ、自分の肩を握らせる。
「落ちたら拾ってやるけど、なるべく落ちるなよ」
仕返しのように悪戯っぽく笑うホーカーに向かい、ハットは素直に返事をした。
次の瞬間、ハットは地上を見失った。常の人とは思えない足が地を蹴ったからだ。
どこかの屋根の上だと気づいた直後には再びそれが遠のき、別の屋根の上にいる。
これは意地悪ではなく、どちらかというと親切だった。ハットが手に力を入れ直すのを待たなければ、本当に落としていたに違いない。
ホーカーは肩に食い込む指の感触を確認し、密かに笑んで速度を上げた。
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