第参章 TALK ABOUT
「はっ!?」
あれ?
急に目が覚める。
またか?
ちょっと前に味わったような感覚を覚える。
ということは夢か?
焦点の合わない視線。まだ視界がぼやけているように見えるのはまだ夢ということなのか?
どこからが夢だったのか。どこまでが夢だったのか。あるいはまだ夢なのか。
夜叉の願望も入れつつ、活動を徐々にだが再開し始めた脳で考え始める。
「起きたか?」
「なっ!?」
ガバッと頭を上げる。後頭部に何か柔らかく温かい感触が残っている。
「な、な、な、何してるんだよ!?」
上半身を上げた状態で後ろを見ると、そこには正座をしたレフィカルがいた。
「ここまで連れてきたんだぞ」
よくよく周囲を見てみると、そこは見慣れた景色。というか自分の家であった。リビングの炬燵の、今朝レフィカルが朝食を食べていた、ところに二人は腰を下ろしていた。
「あ、あぁ、そうか、悪いな……って!」
危うく今のことをなかったことにされるところであった。
「違うわ! 何でこんなことをしてるんだよ!」
レフィカルの柔らかそうな太ももを少し視線を外しながら指差す。
「……あぁ、そういうことか」
一瞬、何の事だかわからなかったらしく、考え込むが、夜叉の必死の説明で何を言いたいのか理解したようだ。
「膝枕、というのか?」
膝枕!? ばんなそかな!?
「なぜに、んなことやっとるんけ!?」
あまりの事態に言動がごちゃ混ぜになりにけり。
「こうされると男は嬉しいのではないのか?」
素で聞いてくる。そして、それを普通に実行する。男としてはこの理解力(?)は素晴らしいものだ、と誉め讃えたいが、相手が相手なだけに夜叉はあまり嬉しくはならなかった。いや、そのモノ自体はよかったのは認めるが。そう特定のその部分の感触だけは、だ! うん。
「んなことは……」
「少し顔が赤いが大丈夫か?」
「五月蠅い!」
もういいわ、と言うと、苛立ちに身を任せながらリビングを出た。
顔でも洗ってくるか。
気持ちを晴らすにはそれが一番だ。
「風…場に…行…なよ」
リビングからの出際、途切れ途切れにレフィカルから何かを言われたが無視する。
あんの奴、調子に乗りやがって。
廊下に出ると、すぐに階段から誰かが降りてくる音がした。
誰だ?
夜叉とレフィカル。それ以外に誰もこの家にいるはずがない。時折、永遠や養父母、流吹までもが意味もなく尋ねてくるが、基本追い返しているのでこの家の敷居を跨いだことのある者は少ない。と言ってもその誰もが人の制止を振り切って「何か隠しているんじゃないか!」と無理矢理に入り込んでくるのだが。
少し身構えながら恐る恐る視線を上に向けた。
「わさちゃん! 起きたの!?」
ドタドタと階段を速足で下りてくる。
そういうオチですか。
「はいはい」
蓋を開けてみればそこには永遠。
「よかった」
冷たい対応もなんのその。いつも通りの感じに心配が吹っ飛んだらしく、大きな胸を撫で下ろす。
何か気に障るな。
見通されているように感じたのは自意識過剰か。
「ていうか何でここにいるんだよ」
不満を漏らす前に根本的な問題を尋ねてみる。というかさっきの異形な人形とのバトルは現実なのかもわからなくなってきた。
「あの怪物が出てからレフィカルさんと例の彼女と私で戦って、レフィカルさんが最後の一撃を出した瞬間にわさちゃんが倒れちゃったからここまで連れてきたんだよ」
今にも、えっへん、と胸を張りそうな勢いで御高説してくれた。感謝の意でも伝えた方が良いか?
「そりゃ、あり……」
いやいや違いますから。論点、完ズレだよ。
危うく永遠の話に丸め込まれるところであった。
「んなこといいから」
シッシッと手で払うような仕草をすると、大変だったのに、と不満を漏らす。口を噤み、頬を膨らます仕草は可愛らしいと言えば可愛らしいが、一応家族として見ているので何を馬鹿なことをしているんだという冷たい反応になってしまう。
「何でここにいるかを聞いてるんだよ」
少し荒っぽい言い方になってしまったかもしれない。まるでこんなところに来るんじゃない、と言わんばかりになってしまった。まぁ、でも勝手知ったる義理の兄弟(姉妹か? いや兄妹? 姉弟?)なのだから大丈夫、大丈夫。
「んっ……」
先程よりもさらにムスッと顔を顰める。
あれ?
それに対して首を傾げる夜叉。
「もういいよ。わさちゃん」
黙ったままでいると、永遠はふくれっ面のままでレフィカルのいるリビングへと入っていってしまった。その足取りが荒いのはなぜだろうか?
「何なんだ、ありゃ?」
横柄な態度の永遠に苛立たしげに呟く。
ふん……まぁ、いいさ。
さっさと顔洗えばさっぱりとするさ、と足早に洗面所に向かう。
ここらで気付くべきであった。
いや、その後でも扉の前に立った瞬間に何かおかしいと気付くべきだったのだ。
だが、このとき俺は気持ちをさっぱりしたいという衝動に駆られており、完全な無防備状態であったのだ。
しかし、頭の片隅で先程の工事現場にいた人物を思い出していればこんなことは起きなかった。いや、ある意味、よかっ――いやいや、その分の代償が大き過ぎてそんなこと思ってもいられない。なぜならその瞬間の記憶はその時に吹っ飛んでしまったのだから。おそらくその瞬間の俺が一番の幸せだったのではないだろうか……
ガチャ。
廊下からは押す形となる洗面所の扉。木目調のプリントがしてあるシックな感じだ。シックがどういう感じなのかわからないが。開けると、人がギリギリ二人立てるくらいの幅で奥に長く伸びるスペースが見える。左手には棚が、右手には洗濯機が置いてあり、その奥の左手に目的とする洗面台が鎮座ましましている。だが、今回の重要な情報というか主役はその向かい側にあるモノ。
BATHROOMならぬ風呂場である。
「……!?」
前屈みの状態で扉を開けながら入り、足を一歩踏み入れると同時に視線を上に向ける夜叉。しかし、その状態のまま身体が固まる。驚きのあまり思わず鼻から空気が一気に吐き出される。
「!?」
相手もそのようである。ワシャワシャとその綺麗なブルネットの髪をタオルで拭いているところだったようで、その格好のまま顔だけこちらに向けて夜叉と同じく固まっている。彼女の特徴であるポニーテールだが今は下ろされ、無造作に垂れ下がっている。
意外とスタイルいいな。
最初の感想がそれだった。タオルは頭の上でそれを支えているのは両手。当然のように全裸姿が見えている。とは言ってもサイドからの眺めなのでウィークポイントは絶妙に隠されているのだが。それでも横から見る桜花の姿は所々筋肉質だが、細く、軽やかな雰囲気を醸し出していた。無駄のないお腹、しなやかな手足、そして適度な胸の膨らみ。宣言通り形の良い美乳であった。
見惚れる。
そんな言葉がしっくり来る。それら全てのパーツがうまく夜叉の脳内にグッと来た。
それは数秒の間だったようである。気分的には数分、あるいは十分近く見つめ合っていた気がする。と言ってもそれはそんなに素晴らしい響きのあるものではなく、最初は驚愕だったが、徐々に怨嗟変わっていったような気がする。それがすぐには出なかったのはこの現実を受け入れるのにその秒数分必要だったみたいだ。
そして、その均衡の崩れは簡単に始まった。
ダッ!
桜花は裸体を晒していることなどお構いなしに頭の上にあったタオルをその場に残し、夜叉との距離を一気に詰めてきた。
「へっ!?」
そんな驚きの声が出きる前。
シュッ!
目の前には桜花。裸体が本当に眩しい。だからと言って気をとられていたわけではない。ただ無理だった。次の瞬間に訪れることを避けるのは。
瞬時、目の前の桜花の顔が消える。おそらく腰を落としたのだろう、と思う。
ズゴン。
へっ!? と全部言い終わった時には夜叉の身体は前方へ『く』の字に折れ曲がっていた。完璧な九十度と言って過言ではないと思う。
「ごっ……」
へっ!? と吐いた後に空気を吸う暇もなく、肺腑に残る少ない空気と共にそんな鈍い音を吐き出した。
と同時に母なる地球の発する重力というモノを身に感じながらそのまま前のめりに倒れていく。隣で耳まで真っ赤にして顔を上気させた桜花が両手に腰を当てて誇らしげに立っていた……気がする。もう少しで重要なポイントを眺められた……気がする。
無念……
最後にそんな時代劇風な言葉を脳内に思い描きながら再びの夢の世界へと旅立ってしまった。
♢
「はっ!?」
二度あることは三度ある。
そんな金言が浮かび上がってくる。ガバッと飛び起きたところは炬燵の方にあるソファの上であった。どうやら誰かがここまで運んできてくれたようだ。足下には掛け布団まで置いてある。
な、何があったんだ。
頭を押さえながらも同時に妙にズキズキする腹を押さえる。ちょっと前までの記憶がない。永遠に廊下で出会ったところまで覚えている。しかし、その後にどうしたのかわからない。
確か……洗面所に……
「大丈夫!?」
永遠が慌てて傍に寄ってくる。手にはお盆に乗った二人分の茶碗と急須があったが、その慌てっぷりにガタガタ揺れて、今にも床に落としそうだった。
「何が?」
永遠が心配する理由がわからない夜叉はそう尋ねる。
「だってわさちゃん――」
「じ、自業自得よ!」
テーブル席に座ってお茶を啜る桜花が二人の会話に割って入る。こちらもこちらで凄い慌てようであった。
自業自得?
「どういうことだよ?」
「知らない!」
完全に断ち切られる。疑問な視線を永遠に向けると、永遠自身も首を傾げる。どうやらわからないようである。
「飛んだか」
座布団に腰を下ろしながらこちらもお茶を啜るレフィカルが意味深な言葉を呟く。
飛んだ?
ソファに座り直して、永遠が持ってきたお茶を啜る。レフィカルの隣に座った永遠がなぜかジッと見てくる。
ジッと。
ジッと…
ジッと……
「うまいな」
「そう!?」
視線の三段活用を駆使され、言うしかなかった夜叉。それに対し、嬉しそうな永遠。お茶の入れ方に旨いも糞もない気がするが、嬉しいなら勝手に喜んでくれ、といった感じだ。テーブルに肘をつきながら桜花が「馬鹿らしい」と呟くのが聞こえた。
ずずずずずっ……
男女四人。静かな部屋の中にお茶をすする音だけが響き渡る。
「って、おい!」
安いツッコミをしたものだ。やったものの自分でも恥ずかしく思う。急激に立ち上がったせいで少しふくらはぎを攣ってしまった。運動不足がたたっている。
「ど、どうしたの、わさちゃん!?」
驚く永遠。
「…………」
啜るレフィカル。
「安っ!」
呟く桜花。
やっぱりそうだよな。
客観的意見を聞くと、夜叉でも萎える。
「というかどうゆうことだよ!」
ビシッと未だに茶を啜るレフィカルを指差す。
お茶なんか啜って和んでいる場合ではなかった。危うくそのまま今日は解散状態になるところであった。
「そこは飛ばなかったか」
少し残念そうなレフィカル。
だから飛んだ飛ばないってどういうこと――
またまた話を反らされそうになるが、踏み止まる。今はそこが問題ではない。
「わかった」
揺らがない夜叉の視線に根負けしたらしいレフィカルは溜め息交じりに承諾する。
「何から話すか」
そんなにあるのか?
永遠は少し寂しそうに、桜花も興味なさそうにしながらも聞き耳を立てている。
「何でもいいから早く話せよ」
面倒なので煽る。
「わかった」
すぐには切り出さない。
「あぁ」
「それはな」
「あぁ」
「実はな」
「あぁ」
「あのな」
「あぁ……」
「魔法の使い過ぎだな」
「あぁ……はっ?」
待った。実に待った。苛つきながらも根気強く待った。夜叉にしては珍しく本当に待った。その答えがこれである。
「だから魔法の使い過ぎだ」
意味がわからない。意味を理解しようとも思わない。永遠は怪訝そうに、桜花はまた馬鹿らしいといった感じの呆れ顔、そして夜叉は。
馬鹿にされてるのか。
苛立ちが発散されそうだ。
「夜叉との契約後、初めて魔法を使ったせいで、久しぶり過ぎて力の加減を間違ったようだ。魔法は契約者の体力を使用するのだ」
説明し始める。何の疑いもなしに普通に説明するレフィカル。まだ周囲の困惑やら怒気には気付かない。
「小さな球のときはまだ良かったのだが、それでも何発も出している間に徐々に夜叉の体力は削られていったのだな。それで最後の一発が最終的な後押しになってしまったようだ」
一口、茶を啜る。
「あの……レフィカルさん?」
プルプルと震え始める夜叉を見てか、永遠がレフィカルに声をかける。しかし、その声は小さく、隣にいるというのに気付いてもらえなかった。
「今回は気絶だけだったが、際限なしに使い過ぎると契約者の命も奪いかねない。こうなると私も一緒に……私の不注意だな」
悲しく眉根を顰める。
「すまなかった」
夜叉の方を向いて、すぐに頭を下げる。
ぐっ……
そんな殊勝な態度をとられても許すわけが――
「おい、永遠」
「何?」
「なぜ俺を押さえる」
「ど、どうしてかな? あはははっ……」
知らないうちに俺は後ろから永遠にガシッと両手を押さえられていた。どうやらレフィカルを叱責または暴力に及ぶのではないか、という考えのもと、そう動いたようだ。
「やらないから離せ」
「……本当に?」
「あぁ、本当だ」
安心したのか、はぁ、と小さな溜め息をつくと永遠はやっとのことで離れてくれた。背中に良い感触があったのだが、それが離れてしまうことはちょっと、ほんのちょっと残念な気がしたが、このままでは話が続かないので諦めることにした。
「?」
そんなやり取りを不思議そうに眺めるレフィカル。
素なのか?
まさかな、と思いながら冷静にその話ではないことを伝える。逆に桜花の方がイライラしてきたようで「あんたわざとでしょ」と横やりを入れてくる。
「お前、黙ってろよ」
それを夜叉が制する。
「つーか、まだいるのかよ」
根本的な疑問をふと口に出してしまった。流れを本筋に戻そうとしたのに自分から再び脱線させてしまい、すぐに後悔した。
「私だって聞く権利はあるはずよ!」
堰を切ったかのように話し始める。
「あの例の事件で犠牲になったのは村人たちだけじゃないのよ! あそこには協会――いえ、ある組織から派遣されてきた私の姉さんがいたの! 悪魔があの村に現れたという報告を聞いて村人たちを助けるために駆けつけた姉さんは住民だけではなくあんたや悪魔のあんたも助けようとしたのに! それを、それを、あなたは、言えあなたたちは無情にも殺したのよ! だから悪魔なんて助けたってしょうがないって言ってたのに! ずっと心配してきたけど本当にそうなっちゃうなんて……!」
おそらく今思いつく限りの言葉は発したのだろう。ドン、と最後に堪え切れない暴力をテーブルに拳を叩きつけることで発散させた桜花は顔を上気させ、瞳から大量の涙を溢しながら「ふん!」と鼻を鳴らすと椅子に勢い良く座り、そっぽを向いたまま何も言わなくなってしまった。
「あ……あぁ」
いろいろ重要な言葉が織り交ぜられているような気がしたが、桜花の急な態度の変化について行けず、夜叉は呆然とするしかなかった。永遠は何かを知っているかのように俯き加減に黙っている。
「すまない」
唯一、反応を示したのはレフィカルで、ずっと桜花に対して背を向けたままだったが、このときだけは身体ごと桜花に向け、それだけではなく立ち上がると、深々と頭を下げた。
「す、すまないですまないわよ!」
何かの冗談かと思ったが、素でそんなことを言ってしまったようだ。本音を漏らしたせいで赤くなっていた耳の先がさらに真っ赤になっていた。
「そ、それよりも話しなさいよ! さっきの悪魔が言っていたことについて本当のことを!」
誤魔化した。話をなかったことにしようとしている。
「あぁ」
しかし、それで話は再び本筋へと戻ってきてくれた。
良くわからんが、良く出来た方だ桜花!
心の中でビシッと親指を立てたグッジョブのポーズを献上しませう。
「位階やら《唯一反逆魔》やら諸々の事がどういう意味か」
念押しに夜叉は話の行く筋を示す。
「そうだな」
再び座布団に腰を下ろしたレフィカルは一息入れるかのように冷めたお茶を啜る。慌てて永遠が立ち上がろうとしたが、レフィカルはそれを止めて、座っているように促した。
「どこから話すか……」
急に遠い目をする。望郷の念がレフィカルの周囲に漂い始めたような感じがした。
「私が人間たちの言うような『地獄』から来たのは知っているな」
前置きとしてそんな基本情報を言う。だが、やはり自らは認めていないらしく「本当は『地獄』なんて言う世界ではないのだが」という断りは入れる。
「そこは力が絶対的な地位を示す実力至上主義と言っていいほどの力の世界だった。そうなるとやはり順位というモノが自然と生まれる。力を示し合えばおのずとそうなるな。それが位階というものだ。その頂点に立てばその世界の王となれる。戦い、戦い、戦い、そして私はその頂点というモノに立った。なぜそれを求めたのかと言われると、私は人を食い物にする契約という縛りがあまり好きではなかったのだ。なぜかと言われると……何とも言えないが、な」
悲しそうな瞳をする。それは今まで見たこともないような深淵を潜めた覗くことのできない眼であった。
「考えてみれば契約というモノの説明もしないとか」
今気付いたとばかりに苦笑いを浮かべる。
「契約というのは今、夜叉としているような関係のことだ。とは言っても本来、人の魂の力を吸い、自らの力を強くするための方法なので何年も同じ人間と契約し続けるなどないがな」
大体、一か月もしないうちにその人間の身体が持たない、とさらりと言う。ブルッと一瞬、寒気が走ったのはしょうのないことだろう。
「大丈夫だ。私が無理にでも吸おうとしない限り、夜叉の命は普通に寿命まで生きられる、と思う」
夜叉の気持ちを察してか、レフィカルは補足を付けてくれた。
「そうか」
無理に気を張って答えるが、考えてみればレフィカルとは一心同体、気持ちなどダダ漏れであろう。ただ、それでも見栄は張るモノであるから張らなければならないのである。
「ふふふっ」
面白そうに微苦笑。なぜかこのとき、一瞬だけだが、レフィカルのことが普通の少女のように見えた。グシャグシャと瞳を擦って見たときにはもうそこにいたのはいつものレフィカルだったが。
「私は頂点に立ってその契約という存在をなくそうとしたのだ」
契約などなくても生きていけるのだからな、と呟く。
「そして、頂点に立ち、私は最初にこの事を皆に伝えた」
フッと、再び悲しみを瞳に映す。
「表面上は皆、何とも言えないような雰囲気であった。だが、それでもやっていこうとしたのだ。私の考えに賛同してくれた他の悪魔たちや人間、桜花の姉である香華・ヤングシュートの力添えも得たことで出来ると思ったのだ」
香華・ヤングシュート。
それが桜花の姉、そして、先程の話に出てきた事件で唯一、村の部外の犠牲者となった人の名だろう。ピクン、と桜花の身体が反応を見せる。
「どうやって姉と……知り合ったの?」
逸る気持ちを押さえたような声で早口で桜花がレフィカルに尋ねる。
「前々から人間界で悪魔に対抗する組織があると知っていた。そして、その中に二つの派閥があることもちらほらと耳にしたことがあって、新約派という勢力が悪魔を保護しようとする動きをしている事を知り、それならば互いに協力し合おうとしたのだ。その後は独力で探しだしたのだ。体力が万全な時ならばどうにか数分はこの地に身一つでも来ることが出来るからな」
「でも、あなたは姉さんを殺した!」
ふん、と鼻を鳴らし、再びそっぽを向く。レフィカルは「すまない」と平謝りだけを繰り返すだけ。
「それでその後は?」
このままでは埒が明かないので話を促す。
「あぁ、やはりこの考えを受け入れることが出来ない輩はいた。お前は頂点に立ったからそうやって自分の地位を狙う者が力を付けないようにしたいんだろう、と言われた。私はそういうことではないと否定したのだが、その連中はそうとしか思えなかったのだろう。だからそれをどうにか説得しようとして、皆を集めて会議を開いたのだ。だが……」
はぁ、と溜め息。その時の情景でも思い出したのだろうか。お茶で咽喉を潤す。他の皆もそれにつられて茶碗に口を付ける。
「私はその場所に辿り着くことはできなかった」
残り少なくなった緑の水面を見つめながら呟くように言い放つ。
「私の考えに賛同できない連中が徒党を組み、実力行使に出たのだ。だが、実力行使と言っても実際に戦うのではなかった。実力では皆が束になったとしても私に勝てないことが判り切っていたからな」
やはりこいつは自信過剰だ。
以前、思ったことが当たっていた。しかし、自身は何とも思っていないらしく、自慢げでも何でもなく、それが当たり前だと言わんばかりに少しも感情を変化させずに話を続ける。
「私が大勢を相手にしている間に連中はこの地上界の扉を開けて、そこから私を堕としたのだ」
その光景がどういうものか想像はできない。しかし、傍目から見ればそれは集団リンチのような図なのであろう。悪魔、悪魔といってもやはり命ある存在。意見はいろいろあり、そしてやることまで一緒なのであろう。
「契約なしに人間界に堕ちるということは死に等しい。私たちは人間界ではここに存在せざるもの、端的に言えば異物であるから世界は私たちをこの世界から排除しようとする。先程言ったが、十分な体力があればその見えざる力に少しは対抗することはできる。だが、このときは力の差があるとしても相手の方が人数的には数十倍の数だった。それらに対応するべく、力を使い続けた私は堕ちたときには対抗すべき力が十分ではなく、その力に侵食され、その存在を消そうとしていた」
このとき、ちらりと夜叉の方を見たのは申し訳なさからか。夜叉自身はそれには気付く気配はなかったが。
「私は堕ちた。堕ちている間、私は死というモノを感じた。私は死ぬのか、私は消えるのか、私は今のように考えられなくなるのか……さまざまな考えが浮かんでは消えていったが、そのうちいろいろと考える力もなくなったようで最終的には『生きたい』という短い単語しか思いつかなくってしまっていた。それが一番の過ちだということに気付かずに。そして、私はある集落に辿り着いた」
「郷神村……」
夜叉は思わずその言葉をもらしていた。
「そう、郷神村、夜叉の今は、無き、故郷だ」
尻つぼみに声の調子が低くなっていった。
「で?」
このまま話を終わらせられては困る。
「私はある一軒の家に堕ちた」
絞り出すかのようであった。
「そこには小さな人間の子供がいた」
レフィカルの存在が申し訳なさに押し潰されそうに見えた。
「私は私が苦しみながら倒れている隣ですやすやと気持ち良さそうに寝ている子供を見たとき、脳内で何かが囁く声を聞いた」
そうか……
「もう既に本能のみが活動する私の脳内は生きたい、という単語しか彷徨っておらず、その私にその声は言う」
〈生きたいのか?〉
「私は生きたいと言った」
『本当か?』
(あぁ、本当だ)
『ならやることは一つしかない』
(何のことだ?)
『わかっているだろう?』
(知らない)
『目の前にいるぞ』
(聞こえない)
『そこにいるぞ』
(見えない)
『お前は苦しんでいるというのに目の前の人間は安らかな寝息を立てて、気
持ち良さそうに寝ているぞ』
(駄目だ)
『死ぬぞ?』
(い、や、だ)
『生きたいだろ?』
(い、き、た、い)
『じゃあやることは一つだ』
(だ、め、だ)
『契約しろ』
(む、り、だ)
『契約しろ』
(そ、れ、だ、け、は)
『契約しろ』
(だ、め、だ)
『契約しろ。契約しろ。契約しろ。契約しろ……』
(ぐっ……!?)
『さぁ、契約の始まりだ』
(うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!)
「そして、私は誘惑に負けてしまい、夜叉と無理な契約をしてしまい、そのせいでおそらく私の力は暴走し、その後は皆の想像通りだ」
まるでそこに今もいたかのような雰囲気がリビング内にたちこめていた。
「すぅーーーー……はぁーーーー……」
息を吸う暇も吐く暇もなかった。どうやら他の二人もそうだったようで、同じような息遣いが聞こえてきた。
「何か他に聞きたい事やあるいは話し忘れたことはあるか?」
そう言われても、という感じである。元の話が今聞いたばかりで許容量の少ない夜叉の脳内ではそれら全ての話をうまく処理できていない。いや、時間をかけたとしても処理できないだろう。こんな突拍子もないことを信じろという話もどだい無理な話なのだから。一応、レフィカルが『悪魔』に近い存在であるというのはどうにか受け入れているのだが。
「おそらくってどういうこと?」
しかし、桜花には引っ掛かるモノがあったらしい。少し怪訝な表情を浮かべながら疑問をぶつけてくる。
「あんた今、こいつと契約した後はおそらく力が暴走して私たちの知るような結果になったような風に言ったけど覚えてないの?」
こいつとは俺のことらしい。不躾に人差し指で指してきやがった。
「あぁ、残念ながら覚えていない。ただ目が覚めたときにはあの惨劇はもう既に行われた後だっただけだ」
語感だけを聞くと、突き離したような雰囲気が漂うが、レフィカルの表情は沈痛で本当に心の底から申し訳ないことが良くわかる。
「ふ、ふん、それでも私に姉を殺したことは言い逃れのできない事実だわ!」
ドンとテーブルを叩く桜花。
「あんたを探し続けて、この数年間どんな想いでやってきたと思っているの!」
「すまな――」
「だから謝られたって姉さんは帰ってこないのよ!」
仲の良い姉妹だったのだな、とふと思ってしまう。
「レフィカルさんだって同じようにツラかったんです!!」
そこに今まで黙っていた永遠が逆ギレ気味に乱入。
「お前は関係ないだろ!」
「いいえ! 私だって関係あります!」
「ただ偶然、流れに割り込んできただけでしょ!」
「いいえ、違います! 偶然じゃなく必然です!」
「何が必然だっていうの!?」
「わさ、いえ、二人と出会うことが必然だったのです! そうなるべくしてそうなったのです!」
「馬鹿じゃないの!」
「馬鹿と言った方が馬鹿です!」
「あんたよ!」
「あなたです!」
ああ言えば、こう言う。
典型的な水かけ論の状態である。徐々にその論争が低レベルに成り下がっていくのはしょうもないことだ。どんな議論もそのうちこうなっていくものだ。
あれ? 俺、置いてかれてる??
「少し楽になった気がする」
桜花と永遠の言い合いの外にいる夜叉が何とはなしに空しい気持ちでいると、ボソッとレフィカルが呟くのが聞こえた。
「それなら何で早くに言わなかったんだよ」
「すまない。言ったとしてもしょうがないことだと思ったのだ」
「しょうがない?」
「あぁ、何を言っても何をしようとも全ての元凶となってしまったのは私なのだからな」
フッと、レフィカルの表情に翳りが差す。
「ふん、どうとでも言ってろ」
軽く鼻を鳴らすと、レフィカルに向けていた視線を外す。次に向けた先に映るは未だに言い合う二人。
馬鹿らしい。
誰も彼も馬鹿だ。
「馬鹿と言った方が馬鹿だと言った方が馬鹿だ!」
「馬鹿と言った方が馬鹿だと言った方が馬鹿と言った方が馬鹿です!」
「馬鹿と言った方が……」
「馬鹿と言った方が……」
エンドレス馬鹿発言は終始、飽きるまで続けられた。
♢
エンドレス馬鹿発言の後、新たな展開に見舞われ、二人の言い合いは深夜にまで及んだらしい。らしいというのは、夜叉は睡魔に襲われ、相手をしてられなくなってきたので途中退席を願い、自室のベッドに潜り込んだのであの後、どう展開され、思うにあそこからどう展開できるのか疑問だが、どういったところへと終着していったのかわからない。ただ一つ言えることは夜叉自身があの二人の傍若無人振りを良く理解していなかったということだけだ。
「で、どういうことだ?」
昨夜、あまりの疲労感で風呂に入らなかったせいで少し体臭がキツい気がするが、鼻をつくほどのモノでもないのでシャワーだけ浴びて学校でも行こうかと考えながらリビングに下りてきたところであった。
「俺はお前らに話が済んだら帰れっていったよな?」
そこには昨日と同じくテーブルの椅子に腰かけ、優雅に紅茶を飲む桜花の姿。その紅茶は一時の安らぎタイム用にとっておいた少し高めの葉っぱだった。
「ズズズッ……おいしいわ」
ふぅ、と一息。ぴきん、と頭の中で何かが弾ける寸前。
(私が――)
「狙っていたのに……」
急に顕現したレフィカルが物欲しそうに呟いた。勝手に出てくるな、などと言う気力も湧かない。
「あっ!? わさちゃん、おはよう!」
キッチンの方から永遠の元気な声。えへへ、とはにかみながらこちらにやってくる。
「レフィカルさんもおはようございます」
礼儀正しくレフィカルには腰を折る。
「んなことより何してるんだよ」
「朝ご飯作っているの」
語尾に♪でも付きそうな勢いである。完全に浮かれている。何に浮かれているのか判らない。どこから引っ張り出してきたのか、膝まで届くエプロンを付け、もじもじとしている。
その前に人ん家のキッチン勝手に荒らすなよ!
台所は主婦の聖域というが、普段料理をしている夜叉から見ると、断りもなしに利用されている感覚はどこか人の領域を侵犯されているような気分に陥る。
「あ、あのね……」
下を向いたままたどたどしい感じ。どこか顔色がおかしい気がした。普段より、それほど良くは見ていないが、顔全体が赤いような感じがする。
熱でもあるのか?
昨日の今日で知恵熱的な感じで、戦闘熱みたいなものでもあるのだろうか。
「何だよ」
変に気にしてもしょうがないので、ぶっきらぼうに返事する。
「何だかこの感じって、その、新婚、いやぁぁぁぁ!」
何かを言う前に耳の先まで真っ赤にしたかと思うと、永遠は頭を両手で抱えて、こちらまで風が来るような高速の首振りを披露した。その速さは永遠の細い首がポロリと落ちるのではないかと思うほどで尋常ではない光景だった。
なにやっとるんだ、こいつは。
この状況についていけない夜叉は呆然とその高速首振りを眺めるしかできなかった。
「何やってるの? 早く朝食を作ってくれない?」
少し苛立った感じで桜花が横やりを入れてきた。
「お前はお前でなに人ん家で優雅にくつろいでるんだよ」
トントントン。言いながら桜花の座るテーブルの端を叩く。ここから今すぐにでも出ていけ、と主張するかのよう。
「細かいこと気にするなよ」
そんな思いも一蹴。それよりも朝食を出せ、との催促。あなたなんかに出すために作っているんじゃないの! と永遠は反論。それに桜花は黙って作れ、とVIP発言で返す。
んなアホな。
この光景を見ると、呆れて物も言えなくなってくる。話が済んだら帰れと言ったが、これを見る限り全然終わっている気配がないことは明白だ。
「はぁ……」
やっていられない。一つ屋根の下に美少女たちと寝食を共にするというのは響きだけ聞くと素晴らしく、羨ましく、そしてその状況を享受している者をぶち殺したくなってくるだろうが、実際は知らないうちにその状況に陥り、ろくに得る物もなく、一応永遠の手料理が食べられるが、それも実家住まいのときによく食べたのであまり特異性は見ることが出来ないのでここでは除外するので、結局はこの両者の言い合いの被害を精神的・身体的に受けるだけだ。
まぁ、うまいけど。
ずずずっ、と豆腐とわかめの味噌汁を啜る。テーブル席、夜叉はいつも通りTVの見える扉側の左端。その隣には向かいには永遠が座り、その隣には桜花。そして、反対側、夜叉の隣にはレフィカルが座っていた。
こいつの隣か。
初めてかもしれない。いつもならばレフィカルは炬燵の方に座り、今回も自ら歩み寄ろうとしたらそれを永遠が止めた。
「食べるなら一緒に食べましょ!」
そうしてこう相成った。
何か気まずいわ。
いつも通りTVは付けてある。そして、これまたいつも通り番組は例のあれである。
『週の食道、火曜日! 食堂ではいつも生卵定食! 懐寒い! 同情する前に誰か金くれ! 口先MAX! 上辺でぇす!!』
奴登場。見ているとイライラするが、何となく見てしまう。そんな奴だが、先日のように空気だけはうまく変えてくれる。
しかし、今回は意味をなさない。こいつの力でも打ち破ることはできないようだ。
「わさちゃん、わさちゃん。おいしい?」
前の席から顔を覗き込んでくるように聞いてくる。すると、すかさず右斜め前から「気持ち悪い」との割り込みコメント。
「あなたは食べなくていいです」
こちらに笑顔を向けながら冷たい声。こちらに向けられたわけではないのに自然と背筋が凍る。
「鮭勝手に焼いてごめんね」
また何かが始まりそうな雰囲気に無言で夜叉が主菜をつつくと、申し訳なさそうに言ってくる。
「あぁ、まぁ、いいよ」
《袋に詰めるだけ詰めろ! うまく言ったら100円で!》というスーパーのセールで手に入れたモノである。だからだろうか。うまく焼いてくれたのだが、油がのっておらずパサついた感じが気になるが、あえて言う必要もないだろう、と黙っておくことにする。
ご飯、味噌汁、鮭、漬物。
和風の一般的な献立であろう。
「あまりおいしくないわ」
久々で箸ってうまく使えないわ、と言いつつも綺麗に鮭の身をほぐし、そのぷっくらした唇へと運んだ途端、文句を言う。
「だから食べなくてよいです」
夜叉に向けていた時とは異なる視線を桜花にぶつける永遠。
「これしかないのだからしょうがないじゃないの」
平然とその視線に自らの視線をぶつける桜花。
うん、ヤバいね。
両者の間には飛び散る火花が見えるかのようであった。というか見えている。夜叉の視界の中で幻視してしまった。
「コンビニにでも行って何か買ってくればいいと思います」
「お金なんてないわ」
「道端で何かパフォーマンスでもして無心すればいいのでは?」
「あんたって見かけによらず破廉恥ね」
「破廉恥とは何ですか!」
「そのままの言葉ですこと。おほほっ」
「あなたっていう人は!」
「あんたこそ!」
むぅ……と睨み合う二人。昨夜のを繰り返し見ているかのようであった。
「おいしいぞ、永遠」
後らばせながらレフィカルが感想を述べるが、当然のように聞こえていない。
「やってられん」
その後も続く言い合いをBGMとして朝食を食べ終わると、さっさと準備をする。
「ま、待ってわさちゃん!」
さっさと行こうとする夜叉を引き止めながら永遠は慌てて食器を片づける。
「もう行くぞ」
それを横目に桜花は出ていこうとする。なぜか先導しようとしている。
「お前に言われたくないわ」
「あんたにも言われたくないわ」
こちらに飛び火しそうな勢いを感じ、しまったと思ったがそこに旨い具合に永遠が「お待たせしました」と来てくれたので助かった。今日ほど永遠に対して感謝したことはない。
「戻っておけよ」
いつも通りの指示をして逃げるように家を出た。その後を桜花と永遠が未だに睨みあいながらついてきた。
嫌だな。
桜花と永遠。二人と並んで歩く姿を思うと嫌な気分になる。
「何?」
「何で永遠さんが?」
「転校生の桜花さんもいるわよ」
「二人ものさばらせてあの悪魔、何か魔術でも使ったのか?」
「魔の手に堕ちた」
こういうことになるから。
いつもながらのモーセ状態がどこかの安いプレイボーイ状態へミラクル変化。いや、皆の言葉から察すると黒魔術を会得した得体の知れない悪徳魔術師という方があっているかもしれない。
「何を言っているのよ、あいつら」
小声で桜花が愚痴る。
「さぁ、わからないです」
特に気にしていない永遠。
どうにかしてくれ。
頭を抱えたい気分の夜叉。
と、三者三様の感じ方であった。
「ようよう夜……サッー!?」
卓球で点でも取ったのかというくらいの叫び声が後方から聞こえてきた。
「Are You YOWASA?」
片言の英語で尋ねてくる流吹。余程、今の状況が信じられないのであろう。こちらを指す指もプルプルと震え、顔は忙しなく両側に向けられていた。
「ウザい。以下略」
毎度のことながら言うのも面倒になってくる上にこの状況をとやかく詮索されることはさらに面倒だ。
「い、以下略ってどういうことぉ!」
涙目で叫ぶ。
「こいつ馬鹿?」
「いい人なんですけど……」
流水の反応を見ての女性たちの評価。
よかったな、真性馬鹿も捨てたもんじゃないぞ。
ポン、と肩を叩いてやる。
「ラッキースケベなフルボッコハーレムって、なんつーことだよ!」
意味のわからん言語を組み合わせてほざく流吹は放っておいてさっさと行く。
「妄想か? 妄想なのか? もうそういうことでいいわ!」
壊れたラジオが後方でノイズを走らせるが無視。無理な三段活用をしまくる。
そう望みたいわ。でも、これで終わるわけないよな。
夜叉にはこれから起こることが目に見えてわかる気がした。それがただの被害妄想であればどんなに良いことか、そればかりを考えていた。
「あっ!?」
「来たよ!」
教室に入ると、更なる受難が夜叉を待ち受けていた。
「桜花さん! どういうことですか?」
「何でこの……悪魔と一緒に?」
「永遠ちゃん、まだ呪われているの?」
「保科様、何か弱みでも握られているのでしょうか?」
二人に浴びせられる質問、質問、また質問。その全てが全て夜叉は悪者扱いという特典付き。一番の中心人物であることは間違いのないことであるが、それでもやはりというか怖いらしく夜叉の方には誰も質問はしてこない。
「おいおい説明しろよ」
いや、唯一無二の真性馬鹿がいた。
「知らんわ、んなこと」
真実は時に人を困らせると言うが、それを鑑みての発言ではなく、こいつに行ってもしょうがないという方が真実である。
「知らないではすまない!」
くぅっー! とハンカチの端でも噛みそうな勢いである。
「知っていても知らせない」
夜叉の素っ気ない態度がさらに流吹の気持ちを囃し立てるのか、更なる質問をしようと口を開けかけたが、それはチャイムと共に入ってきた三津葉の登場によって遮られた。同様にのらりくらりと質問をかわし続けていた両者も助けられていた。
さっさと帰りたい。
来て早々だがそれが今、夜叉の切望する願いであった。
♢
やっとの放課後であった。休み時間の間中、ずっと桜花と永遠は質問し続けられ、夜叉は夜叉で流吹からの単一的質問「どういうことだ!」を聞かされ続けた。
地獄だった……
(お疲れだな)
帰りの会が終わった瞬間に荷物を持って、一目散に教室を出た夜叉に一部始終を内から見聞きしていたレフィカルが労わりの言葉をかける。遠くから「待ってよ!」「待ちなさい!」と二つの黄色い声援が聞こえた気がしたような気がしない訳でもない訳ではなかった。
「やっ、て、ら、れ、ん、わ」
ほっほっほっ、と勢いよく階段を駆け降りる。
(どうも言えないな)
苦笑するのが聞こえてくる。
「ふん」
そのレフィカルの態度が他人事のように聞こえ、少し苛立った。
(すまない。元はと言えば――)
「お前が悪いっていうのは調子に乗ってると思われかねない」
先んじて夜叉が言う。
(あぁ、すまないな)
悲しそうに呟くレフィカル。
調子狂うな。
いつもならレフィカルとはこんなに話すことはなかった。一言だけ返して終わり、というのが常であったが、最近はキャッチボールが多くなってきたような気がする。
許している。
と思った矢先に首を振る。
そんな訳がない。
否定する。
そんなことがあってたまるか。
それを断定する。
(すまない)
静かにレフィカルの言葉が響く。
「ん?」
下駄箱。自分の靴の入れてある小さな扉を開けるとひらひらと白いモノが床に落ちる。
「まさか!?」
不覚にも声を出してしまった。
これは俗に言う『ラブレター』というラッキーアイテムでは!?
春が来たと思った。こんな暗闇に飲まれた冬真っ盛りの自分に春が囁きかけていると思った。裏返すとそこには赤い蝋で封緘してあった。文様は良くわからないが、何だか高貴な感じがして首を捻る。
そんな奴いたか?
ここは普通の県立の高校である。特に高名な子女の来るような場所ではない。
そういうオタク系の奴かもな。中世ヨーロッパマニアみたいな。
自分で言って何だか悲しくなった。
(これは……)
ボソッとレフィカルが何か呟いたような気もしたが、今はそれよりも手紙のことに集中していたために今回は完全に聞いていなかった。
いや、でも女の子は女の子……なのか?
考えてみればただの果たし状かもしれない。
いや、そんな訳ない。そんなものだったら封蝋なんかしないだろ。そんな奴がこんな高等技術を見せるわけがない。
都合のよい解釈をして自ら期待度を上げまくる夜叉。見苦しいが、本人は何も感じてはいない。
「よしっ」
小声で気合を入れる。初めてのことである。それぐらいは許して欲しい。
スッと口が開く。中からは綺麗に折りたたまれた白い紙。抜き出してゆっくりと開く。
「…………」
無言で読み進める夜叉。その顔はだんだんと険しくなっていく。
「どうしたのわさちゃん?」
真剣に手紙の文字を読み進めていた夜叉の視界にひょいと永遠の童顔が入ってきた。
「な、何でもないさ」
慌てて夜叉は顔を上げる。同時に読んでいた手紙を袋ごと制服のポケットに突っ込み、空いていた手でバタバタとその視界を遮る。
「怪しい」
ジト目で見てくる永遠。その後ろからも「何か隠したな」と桜花が言ってくる。
「何でもない……っていうか何でお前がいるんだよ」
逃れるためにも違う話に意識を向けさせようと無理矢理話を変えようとする。
「それは関係ないでしょ」
「うん、関係ない」
あえなくその目論見を二人がかりで潰される。こんな状況では協力し合う何て卑怯である。
(どうする?)
レフィカルがこの状況を見かねてか、尋ねてくる。
どうしようもないだろ……
この二人を相手にして言葉で逃げることはおそらく無理だろう。それに加え、だんだんと運動部や帰宅部の奴らが集まり出してきた。今朝の集団登校事件の煙は放課後の今でも未だに燻ったままなのでこの状況は再びそれに火をつけかねない。
(このまま一緒にはいけないだろ)
わかっとるわ。
そうしているうちにも文化部の奴らまでちらほら見え始めてきた。手芸部など手に毛糸を持ったまま見ている者までいる始末だ。
なら残っているのは一つだ。
「何?」
「そのポケットの中身を見せて」
問い詰めてくる両者。
「あっ!?」
急に声を上げる夜叉。その指はどこか校内の中空を指差している。
「えっ?」
「何?」
近くにいた桜花と永遠がその方へと視線を向ける。
「何だ?」
「ん?」
それにつられて他の野次馬たちが視線を向ける。
ダッ!
その間、数秒。クルリと身体を皆の視線とは逆、昇降口の方へと向けると一気にトップギアに入れた。
『敬則曰、檀公三十六策、走是上計』
どっかの王敬則さんがのたまいなさったお言葉である。勿体を付けたように言ったが、簡単に言えば『三十六計逃げるに如かず』逃げの一手ということで誰もが考え付く単純明快な方法であった。
「あっ!?」
「逃げた!」
「足、意外と速っ!?」
皆が気付いた時には夜叉の姿は消え、残っていたのは上履きだけだった。
「わさちゃん!?」
「夜叉!」
二人も皆の後に「何があったの?」「何もないじゃないか!」と永遠は疑問気に、桜花は反ギレ気味に振り向いたときにやっと気付いて、声を上げる。
あんなのに引っ掛かるって漫画かよ。
自分でやっておいて何だか悲しくなってしまったが、うまくいったので一応は喜んでおいた方が良いのかもしれない。
(いるんだな)
どうやらレフィカルもこんなことがうまくいくとは思っていなかったらしく、感嘆の声と共に呆れた雰囲気が混じっていた。
「それよりも行かないとな」
(あぁ、呼ばれたものはしょうがない)
呆れた表情も早々に険しい顔つきに切り替わり、駆けていたのも止め、ゆっくりと地に足を付けるような足の運びとなっていった。両者の声は何か決意したかのような重苦しいモノであった。