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LIGHT A.R.M.  作者: 日向 日
2/6

第壱章 UNREAL CUT TN REAL



「はっ!」


 (ひだり)夜叉(よわさ)はいきなり奇声を上げると、ベッドから上半身を勢いよく起こした。


 ここは!?


 青ざめた表情でここがどこなのかを確認するかのようにキョロキョロと周囲を見渡す。その瞳には一瞬、朱い焔の尾がチラついているかのように見えた。


「はぁ……」

 すぐにそこが見慣れた自分の部屋だと認識したようで、夜叉は深く溜め息をつく。それと共に珠のような汗が頬を伝い、震える手の甲へと落ちた。


 今日もか。


 目覚めたばかりだというのに疲労感が漂う。


 夢だ。全てが夢だ。


 無理に断定する。そこに隠された現実ですらそうしたいかのように。


 大丈夫だ……大丈夫。


 そう言い聞かせながら額に残る汗を無造作に袖で拭う。しかし、それでもどうしようもなくじんわりと肌は湿ってくる。


 さらに酷くなってきているな。


 何か思い詰めたような表情を浮かべながら右手で空いた左の二の腕を握った。その姿はどこか外的なモノに怯えているように見えるが、夜叉からはまるでそこにある内的なモノをどうにか抑え込もうとしているかのようであった。


「はぁ、はぁ……」

 どうにか冷静になろうとするが、未だ身体は落ち着いてくれない。動いてもいないはずなのに夜叉の心臓は激しく慟哭し、吐く息が荒い。温かい陽気に反して、身体まで震えている始末だ。


 大丈夫、大丈夫、大丈夫……


 再度の暗示。同時に短い間隔で吸う・吐くを繰り返し、呼吸を整えようとする。


「どうした?」

 そんな姿を見てか、まだ光の射さない部屋の四隅の暗がりから気遣う言葉がかけられる。そこにはよくは見えないが、体育座りをしている人の姿があった。今の今まで息を殺していたらしく、声を出さなければ気付かなかったかもしれない。


 夜叉はその心配する声を聞くや否や、今まで憔悴した表情であったのが一変、急に怪訝な、それもかなりの怒気も含まれた表情となった。


「五月蠅い!」

 そう怒鳴りながら枕の片隅に置かれていた目覚まし時計を掴むと、思いっきり声のした方へと投げた。勢いよく飛んでいく時計は当たり所が悪ければ無傷ではいられないほどの威力で、人に向けて投げる力ではなかった。


 しかし、そんな心配もすぐに霧散する。

 ぶつかる瞬間、鋭い空気を切り裂く音がしたかと思うと、真っ直ぐ放り投げられた目覚まし時計は瞬きの間に真っ二つとなり、盛大な音を立てながらフローリングの床へと叩きつけられた。転がる時計の切断面は綺麗に縦一閃、何のブレもなく斬られており、見事と言うべきモノであった。


「悪い」

 声をかけたことに対してか、あるいは目覚まし時計を壊してしまったことに対してか、申し訳なさそうに振り上げた左腕を引っ込め、再び細い両腕ですらりと長い脚を抱えた。一瞬ではあるが、赤く染まった爪が伸びたように見えたが、錯覚だろうか。


「五月蠅い……五月蠅い!」

 その一連の流れを見て、まだ腹の虫が収まり切れず、今度は得物を枕に代え、追撃を加える。よく考えてみると、凶器のレベルが一段と下がった気がしないではないが、手元にあるモノがそれしかなかった。


「……」


 暗がりの住人は無言で首を横に動かし、難なく避ける。投げた本人ですら当たるはずがないと思っていた。しかし、それでも投げることを止めることはできず、無駄でも投げるという行為で今の気持ちを示したかったのであろう。


「……むぐっ」


 と思ったら、何を思ったのか、急に首を動かすのをやめ、元の位置に戻すと、顔のど真ん中でまともに枕を受け止めた。その際にどこか可愛らしい声と共に反動で後方に下がった頭の周囲で長い髪が四方に舞い散った。


「痛い、な」


 何かを確認するかのように膝に落ちた枕を抱えながら顰めっ面でそう呟く。だが、すぐに失敗した、と思ったらしく口を噤む。


「くそっ」


 一部始終を見た夜叉は不満を吐き出す。その瞳は激しい怒りを湛えており、口元はギュッと力強く真一文字に結んでいた。

 あいつが声を発するだけで頭に来る。あいつの態度が頭に来る。あいつがいるだけで頭に来る。あいつの存在が頭に来る。

 ベッドからゆっくりと起き上がり、勢いよくカーテンを開く。差し込む光が暗く澱んだ部屋の中を明るく照らし出す。


「んっ……」


 後ろの方からそんなうめき声が聞こえてくる。


「ちっ!」

 大きく舌打ち。一挙手一投足に投げかけられる怒り。そのまま苛立ち気に他人が部屋にいるというのに夜叉は無造作にTシャツを脱いだ。


「……」


 急に裸体を晒されて驚くかと思いきや、いつものことらしく、光が差し込み暗がりから引きずり出された少女は無表情でその姿、とりわけ今まさに晒している左腕を見つめていた。

 その姿ははっとするほど可憐で、細面の中に大きな瞳と小振りな鼻、少し厚みのある唇といったまさに整った顔で、光に映える輝くブロンドの髪はこの世のものではないように見えた。体育座りの恰好ではよくわからないが、スタイルは普通の少女よりは高いようで、それなのに細いという羨ましい限りのシルエットで、簡単に言えばモデルのようだ、と安易に言ってしまうほどであった。

 そんな美人が異性の着替えを見て、驚かないということは十歩譲って、納得、本当はできないが泣く泣くできよう。しかし、差し込む光の空間に映し出されるその腕を見て、驚かない者はどうかしているのではないかと疑いたくなる。


〈悪魔の左腕〉


 その左腕は異様で、格好良いとも不細工とも言えない中途半端な夜叉の全体像からは想像できないほどの禍々しいと言っていい何かを放っていた。まさにそう形容するしかない。そこだけその少年とは異なる存在であるようにしか見えない。先程、夜叉がきつく握りしめていた気持ちがわかる。対して、右腕は他の人から見れば、白んでおり、どこか弱弱しいが、それでも左腕よりは人間的で、比較しなくとも全てにおいて対照的であった。

 色は黒。いや、厳密に言えば、ほとんどの部分が黒に染められていると言うべきか。そこには説明し難い幾何学的な文様と共に得体の知れない文字のようなものがびっしりと、肩口から始まって中指の先にまで描かれており、間々に微かではあるが白い地肌が覗いているという具合であった。


 チラッと少年はその左腕を見るが、すぐに視線を戻し、さっさと壁に掛けてある長袖のワイシャツを着てしまった。その視線は忌々しげで、さらに机の上にある黒い皮手袋を手の平にまで広がる文様を隠すように左手にだけ嵌めた。


「……」


 手の平をギュッと引き締める。


 よし。


 一通り着替えを終えると、夜叉は椅子の背もたれに放ってあった鞄を掴み、少女の横を何も言わずに通り過ぎて足早に部屋を出た。すると、その後を追うように少女も腰を上げ、静かに出ていった。


 少年と少女、階段を下りる二人の足音だけが響く家の中。交わりそうで、交わらず、微妙な不協和音を奏でながら二人はリビングへと入っていった。


 入ってすぐに真っ直ぐTVのある方へと足を向け、スイッチに手を伸ばす。毎度のことなのだが、二人だけの空間に下りるのは重たい沈黙だけで、何かBGMがなければ息が詰まってしまう。

 徐々に映り出す画面。じんわりと出る感じは機械が人をおちょくっているのではないかと、ふと思ってしまう。馬鹿らしいと思いながらその間に庭へと通ずる硝子ドアも開ける。気持ち良いほどの陽気が視界に広がる。


『週の口腔、月曜日! 高校中退! やんちゃばかり! 親孝行なんて誰がするもんか! 口先MAX! 上辺でぇす!!』


 出鼻を挫かれるというのはこのことであろう。少年の気持ちは異なる方向へと沈殿していく。


 朝からこいつかよ。


 失敗したと思いつつもチャンネルを変えようとはしない。沈黙を崩すにはこのぐらいがちょうど良いのかもしれない。

 TVの画面には大人気のキャスターが安い笑顔を振りまいていた。


『何だか最近、猟奇的な殺人が多いよ! 別に彼女じゃないんだからね! 俺今いないからね! ある意味、募集中! 人攫って、見つかったと思ったら外傷も病気や薬なども見つからないっていう摩訶不思議アドベンチャー!』


 中指で神経質そうに殺人のことについてさまざまな観点から書かれたフリップをトントン叩く。他のコメンテーターはそれを見て、苦笑い。


 これでよく視聴者から苦情が来ないものだ、と思う。確か巷ではこの番組を劇場型情報番組なんて言っていた気がする。どんな事柄でもこんな調子で適当に言うのだからその事件の被害者から見たらこいつこそ殺して欲しいと思うのではないか。だが、そう思わない者もいるらしい。チラッと見ると、当の本人はその無責任男の話に熱心に耳を傾けていた。あまりにも行き過ぎたものは逆にいいのかもしれない。大袈裟すぎるから引き寄せられるというものか。おそらくそういう視聴者の方が多いからこの番組は続けてられているのかもしれない。


 馬鹿か、こいつは。


 心の底から罵倒しながら夜叉はキッチンで朝食の準備を始める。


 壁に掛けてある雪平鍋でお湯を沸かし、それから冷蔵庫から取り出した大根と葱、油揚げを切って、鍋に突っ込む。そして、それが沸くまでその隣でフライパンを火にかけ、油をひくと適当な大きさに切った野菜とウィンナーを中華調味料で炒める。それだけでは物足りないので味を整えるために塩コショウを少々振りかける。その間に沸騰した鍋の中にお玉でパックから拾い上げた味噌を溶かし、軽く混ぜた。


 その間、十数分。一人暮らしが板についてきたのか、手慣れたモノで簡単に作り上げてしまう。


「まぁ、いいか……」

 味噌汁と中華風野菜炒めの味を確かめ、うまくいったらしく何度か頷くと、夜叉はそれぞれを二人分に分け、昨夜に予約して焚いておいたご飯を炊飯器から二つの茶碗に盛る。主食、副菜、汁ものと冷蔵庫から取り出した漬物、そんな何ちゃって和食たちと共に黒と赤の箸をお盆に乗せると、一揃いはキッチンの前にあるダイニングテーブルに自分用として置き、もう一揃いはTVの前、少し離れたところにある炬燵にもなる低いテーブルにもう一人分用を置いた。


「ん」


 並べた食事を指し示すかのように夜叉は軽く顎で示すと、正座したままTVを凝視していた少女はそれに反応して視線をテーブルの上へと向けると「ありがとう」と感謝の言葉を紡いだ。しかし、少年は聞こえていない振りをして、何の反応も示さないまま、自分の分の朝食の前へと戻っていった。


「頂きます」

 席に着くなり夜叉がそう言うと、少女も釣られるように手を合わせながら

「頂きます」と発し、赤い箸を手に取り、それぞれ食事を始めた。


「おいしい」


 夜叉の作った中華風野菜炒めを口にした少女は素直に食事の感想を呟くのだが、その言葉が聞こえているのかいないのか、夜叉はTV画面を横目にボソボソと機械的に箸を進める。


『次は、まーたやっちゃったよ、尾澤さん! ジャンボじゃないよ、元幹事長! 俺のことをとやかく言う前に国のことを考えろ、とゴールデンなお言葉を頂けた逆ギレ必死な頬袋二段構えの引退老師!』


 姦しいTVの音と静かに響く二つの箸の音。どこか対照的な両世界。その間を瞬間的に窓から入り込んだ強い冷たい風が吹き抜けていく。


 さむっ。


 少しの身震い。春真っ盛り。もう既に温かい空気であるはずなのだが、それでもその風に含まれているのはどこからか生まれ出てきた冷気が混じっているような気がした。


 行くか。


 食事も終わり、自分のだけではなく、渋々少女の持ってきた分の食器も洗い、洗面所で一通りセットもし終えると、あとはもう家を出るだけ。リビングの扉の片隅に放っておいた鞄を掴み、廊下に出る。やはりその後を少女は無言でついていく。まるで両者には見えない糸か鎖でもあるかのようにぴったりと。


「戻っとけよ」


 玄関口で靴を履いているときであった。トントン、と爪先で床を叩きながら不意に夜叉は後ろに立つ少女に向かって、冷たく言い放つ。


「わかった」


 その有無を言わせぬ言動に不満も漏らさず、静かに同意を示す少女。スッと、家の隙間から漏れ出る光で作り出される夜叉の影の上へと移動したかと思うと、少女の存在が儚げにゆらりと揺れた。


「早くしろ」

 靴を履き終わった少年はドアノブに手を伸ばし、木製の扉を開く。すると、どうだろうか、朝日に照らされたそこには既に少女の姿はなく、先程より一層濃くなった夜叉の影だけが後を追うように家を出ただけであった。


 既に街は目を覚まし、忙しない様相が世界を満たしていた。通りをさまざまな目的を持った人々があっちへ、こっちへと行き交っていた。少年はその流れに乗るように自らの通う家元(いえもと)高校へと足を進める。


 よくやるわ。


 定番的な嘲り。精神的に表情を歪めるホワイト・カラー。肉体的に表情を歪めるブルー・カラー。それぞれを見ては、そうはなりたくない、そうなりはしないと決意するのは青春時代のほろ苦い妄想であろう。

 程なく駅に向かうサラリーマンやOLたちの流れに逆らうように郊外の高校へと動く学生の流れが生まれる。少年は当然のようにそちらの方へと歩みを移行させる。


「うわぁ」

「なになに?」

「ほら」


 そこに入るや否や、ざわつく流れ。急に先程までなかった冷たい視線が周囲から少年へと突き刺さってくる。


「おい、また来たぞ」

「えっ……左君」

「十年前の生き残りでしょ」

「あいつだけ生き残ったって」

「死神よ」

「悪魔だろ、アイツは」


 次々に冷たい言葉が同年代の学生たちから口々に囁きかけられ、皆一様に夜叉から離れていった。


 死神に悪魔ね……


 かけられた言葉を反芻する。まさにその言葉は正解だ。あんなことがあったのだから。そこには何の感情も見えない。


(夜叉……)


 夜叉の脳内だけに響く気遣いの声。


「五月蠅い。喋るな」


 苛立たしげに小さな声で独白する。


「お前だけには気遣われたくない!」


 太陽が創り出す自らの影を睨みつける。


(すまない)


 申し訳なさそうな声。しかし、再び「五月蠅い!」と怒鳴られると、その響きも沈黙せざるおえなかったようで静かになった。


 生き残りたくて生き残った訳じゃない。

 夜叉は十年前、この街、家元市より北に行った山奥にあった郷神(さとがみ)村という集落に住んでいた。

 そこは、過疎化が進んではいたが、少しは若い人たちがおり、お年寄りたちと助け合いながら生活をしていた。『平和』という言葉がしっくりとくる、そんな村であった。そして、夜叉はここに両親と共に仲睦まじくとは言わないが、普通に日々を過ごしていた。


 あの日までは。


 ある日の黄昏時。急に建売住宅の一軒からどす黒い光が放たれると、全てが一変した。左腕から黒い光を放ち、全身を黒く燃え上がらせた者が、家々を焼き払い、逃げ惑う村人たちを惨殺した。

 巷で言う『郷神村大量殺人事件』であった。

 報道では、細かい情報を得られず、ただ村人全員が惨殺された猟奇殺人と報道されていたが、実は唯一、生存者がおり、それが夜叉であった。夜叉が生き残りであるという事実は隠ぺいされていたのだが、今の情報化社会ではそう簡単に隠しきれず、その事実はじわりじわりと漏れ出てしまい、事件の異様さから生き残りの夜叉に関わると良からぬことが起こるのではという安易な憶測で死神扱いされているのだ。


 そして、そこで出会ったのが、先程の少女、レフィカルであった。


 彼女がどういった存在であるか詳しくは夜叉にもよくわからないのだが、話を聞いたところによると、この世界とは異なる世界からやってきた者で、そこは人間の言う『地獄』らしく、彼女はこれまた人の言う『悪魔』であるらしい。

 とは言っても、本人的には「本当は違うのだが、そう言った方がわかりやすいであろう」とのことである。そして、夜叉はその時、レフィカルと〈契約〉というものをしてしまったらしく、それからずっと付かず離れず、外など人の目があるところでは夜叉の影に潜むという今の状態となった。


 事件後、両親のいなくなってしまった夜叉はこの街よりもっと南にある谷隅市の家へと引き取られ、中学までは世話になり、十六となった今は家元高校に入学し、家から遠いということで、それを狙ってこの高校を選んだのだが、一人暮らしをすることとなった。夜叉としては安いアパートでよかったのだが、心配性の養父母が「それじゃあ駄目!」「アカン!」などと言いまくるので、前から所有しているというこの一軒家に住むことと相成った。


 実際にやったんだろうからそれが真実だ。


 投げかけられる全てのモノを何もせずにただ受け止めるだけで、夜叉は黙々と足を動かす。夜叉のことを知っている者たちは、その度に道を開いていく。それはまるでモーセが杖で海を割るかのような現実離れした光景であった。


 異様だな。


 夜叉に取り憑いた『負』のオーラは、発端場所から離れたとしてもどこまでも纏わりついてくる。それは視認できるものではないのだが、目に見えない世界を通り、癌細胞のように全ての人に伝播していく。


 それがこの結果か。


 左右に並ぶ縦長の者たち。徐々に夜叉はモーセのような偉人ではなく、ただ単に今から処刑台に行く罪人のような気持ちになる。


 マリー・アントワネットやルイ十六世もこんな気持ちだったのかもしれないな。


 どうにか考えを偉人の域にはとどめておきたいのか、飛躍しすぎた想像は脳内で魅惑的に踊り狂い、夜叉の気持ちを暗くさせる。


 一人だ……


 既に割り切っていることなのだが、こういった状況に直面すると自然とそう思ってしまう。いや、思わざるおえなかった。どうやらその言葉尻からすると、影に隠れた悪魔は最初から数に入れてはいないようである。


 俺はひと――


「ようよう夜叉!」


 腰を曲げ、俯き加減に歩く夜叉の背中を思いっきり叩く少年。その言葉はどこかラップ調を奏でていた。


「ウザい。消えろ。失せろ。無くなれ。去ね。灰となれ。塵となれ。原子分解しろ。存在抹消しろ」


 あまりの勢いで、前のめりに倒れそうになった夜叉は怒りの赴くまま思い付く限りの言葉を高速に羅列していく。


「おいおい、それが唯一無二の親友にかける言葉なのか!? 俺は悲しくて悲しくてやりきらないよ」

 フォークルか!? と自分でツッコミを入れながら肩までかかる長髪を掻き上げ、ほぼ二枚目の顔で気障ったらしい感じに指パッチンをする。誰もツッコミを入れてくれないのがわかっているらしくセルフツッコミを覚えたらしい。

 第二の上辺だわ。

 この口先ではなく、ウザさMAXな少年の名は、五月(さつき)流吹(りゅうすい)と言い、夜叉の同級生で、同じクラス、そして、今のところ唯一、家族以外で普通に話しかけてくる奴でもあった。ほぼ二枚目の顔に遊び過ぎの髪形、長身で細身のスタイルは女子生徒から好奇の的であるが、こんな調子なのであまりのモノ好きでないと合わないらしく、未だ浮いた話はない。というかそのような説明をした次の瞬間には、そんなこと知らん、と叫びたくなるほどの興味関心なし男だ。


「それよりそれより、彼女は?」

 そして、最初の言葉を繰り返す口調がさらにウザさを倍加させるということを本人は全然気付いていないというのは余計な情報である。一応、追加情報として浮いた話がないというのは他人の流吹への理解度以上に本人が今はある人物に一目惚れで、他の女子の姿は視線にも入っていないことが一番の要因であろう。


 その目的の子を探すべく、会ったばかりなのに夜叉との話を早々に切り上げ、流吹はキョロキョロと周囲を何か探すように首を動かす。


「知らないよ」

 吐き捨てるように言うと、相手を見ずにシッシッと流吹を追い払うような仕草をする。


「来る来るだろ。いつ来る! どこ来る! どのよう来る! なぜ来る! なに来る! だれ来る!」


 下手な5W1Hでほざいてくる。


 もう最後らへんは意味がわからんわ。こいつの対象人物が誰かもわからなくなってくる。


「日本語話せ」

 精一杯の返しであった。こちらが下手に何かを言おうとすると、おそらくこちらの方が大怪我する羽目になる。


 うざっ。


 眉根を中央に寄せ、怪訝な顔を浮かべる。


「あっ」


 左右、二つに割れた壁のどこからか、そんな声が聞こえてきた。それははぐれた子供を見つけた母親が無意識に出した安堵の声のようで、妙に優しい感じが漂ってきた。


 チッ。


 それに対して、夜叉は心中で舌打ちをした。


 来なくていいっていうのに。


「わさちゃん、わさちゃん」


 人壁を掻き分けて、現れたのは垂れ目で童顔ながら大きな胸を有する眼球破壊な少女であった。「やめなよ」などと他の女子が言っているのを「大丈夫」と自信満々で言いながら小走りにかけてくる姿はちょこまかと小リスのようであるが、誰もがそんなところなど見ずに、ただ一点、エクスプロージョンな双丘を凝視している。


「おはよう」


 わさちゃんこと夜叉の傍まで来ると、何の躊躇いもなく、肩までかかる黒髪の間から満面の笑みを湛えながら挨拶をしてきた。


「永遠様、おはようございます」

 夜叉が言葉を返す前に流吹が、ご丁寧に腰まで折って礼儀正しく挨拶を返した。その姿は堂に入っていたが、どこか安っぽい感じがして、商売男のようで本人は真剣なのだろうが夜叉が見た限りでは軽薄としか言いようがなかった。


「えっ? えっ??」


 永遠様と呼ばれ、どう反応したらよいのかわからないようで、困ったように視線が夜叉に助けを求めている。


 保科(ほしな)永遠(とわ)。この穏和で、ちぐはぐボディの持ち主もまた同じクラスで、普通に夜叉に声をかけてくる奴の一人であった。ここに来て、話が違うと言われかねない気がするが、先程学校で声をかけてくるのは流吹だけと言ったように、他人では流吹だけで、永遠はその例外、家族の分類に当てはまる。左と保科というように、永遠はあの事件以降、世話になっている養父母の娘であった。どうやら同い年の子供がいるということで引き取られたようである。

 性格はそのまま穏和で、気配り上手の聞き上手と何とも素晴らしいスキルをお持ちで、クラスだけではなく、学校全体から愛されている。現に周囲から「大丈夫?」「悪魔に喰われちゃうよ」「助けなきゃ」と心配そうな声が上がっており、中には「保科永遠様親衛隊の名にかけて今日こそはあの悪魔から姫を助け出さなければ!」などと数人の男子が囁いているのも見ることが出来る。言いたくはないが一応言っておくと、流吹の一目惚れした女性でもあった。興味がない。


「今日もまたお綺麗で何より……」

「はいはい、おはよう」


 流吹が並べる気持ちの悪い言葉たちを断ち切るように夜叉がしょうがないといった感じで挨拶を返す。ただそこには何の感情も含まれてはいなかったが、それでも嬉しいのか永遠は「うん、おはよう」と自分から言っておいたのににこやかに返してきた。


「くくっ……お前は何てずるいんだ」

 隣からギリギリとリアルな歯軋り音が響いてきた。


「だがだが、近くでこんな御尊顔を見れるのは夜叉以外では今のところ俺だけか!」


 次の瞬間には両手を広げ、天を仰ぎ見ながらガハハッと近年稀にみる横スクロールゲームの大作の某『大魔王』笑いを見せてくれた。


「はぁ……」

 思わず出てしまう溜め息。夜叉は無意識のうちに頭を抱えてしまう。夜叉越しにその姿を見る永遠もまた困惑気で、とりあえず苦笑いを浮かべることにしたようである。ツッコミ役不在のこの状況では流吹はただただ身を削ることだけ。


「げ、元気ないけど何かあったの?」

 流吹のことはひとまず置いておくことにしたらしい永遠。遠慮気味に上目遣いで聞いてくる。


「いつも通りだよ」

 素っ気なく答える。


「う~ん……そうかなぁ?」

 無意識なのか、唇を突き出しながら不安げに唸る永遠。


「早くやめろ、それ」

「うん? 何? どうしたの?」


 夜叉の方から言ってくるのが珍しいので永遠は嬉しそうに尋ねてくるが、夜叉は怪訝な表情をさらに深めるだけであった。


「隣がウザいから」

「うひょーい! ざっつぐっとでしょ!? 頂きたい……その突き出た唇をいっそのこと、俺のぐじょはっ!?」


 異様なテンションに見舞われた自称友人の顔へと何の躊躇いもなしに拳を見舞う。


「痛いよ!? 厳しいよ!? そして、無駄に狙いが的確だよ!?」

 ノールックで繰り出された拳に涙ながら訴えかけてくる。両手で押さえた左頬は軽く腫れ上がっていた。


「だ、大丈夫、五月君!?」

 永遠はそんな姿を見て、素直に心配する。それが男共を助長させているとは知らずに。現にそこの流吹(アホ)は「うんうんうんうん、だいじょうブ

イ!」などと満面の笑みでピースサインを送っている。


 足りないか。


 そんなことをしているためにガラ空きとなった頬に寸分違わず追撃のノールック。


「うごひでぶ!? まだなぐっだね! こんなこんな仕打ちを……」

「だいじょ……」

「安心・安全・真心いっぱい過ぎて、全然大丈夫だよ、保科様」


 ビッと親指を立てる姿が必死過ぎて、通り過ぎる生徒たちが悲しい視線を送っていたのを本人は気付いているだろうか。


「あ、うん、よかった」

 永遠も引いていた。


「この調子が三枚目なんだよな」

 心中で本音を呟く。


「いやいや!? 今まさに世界へと発信していたよ! 本音もろだしだよ!」

 流吹の悲痛な声が街中に響く。


「……」


 無言で歩く速度を速める。


「ちょ、ちょっとわさちゃん」

 慌てて永遠が追ってくる。


「あぁあぁ、そういうオチ」

 一気にテンションの下がった流吹も永遠の方を追うようについてくる。


 だからわさちゃんって呼ぶなよ!


 というのは夜叉の心中の悲痛な叫びであった。ふと、脳内で忍び笑いが聞こえた気がしたが、今の夜叉では意識がそちらまで回らなかったようで、レフィカルは気付かれる前に再び沈黙モードへと移行していた。


 そんなこんな(?)で奇妙な三人組(トリオ)は、大量の生徒たちを飲み込むかのように開いた校門をくぐり抜け、ざわめく教室、一年B組の中へと入った。


「五月蠅いな」


 つい本音が漏れる。最近、とみに漏れ出てしまう気がするが、何かが緩いのかもしれない。


 腹の具合はいつも緩いけどね。


 一人寂しく自虐ネタ。言ってから悲しくなる。


「何か何かあったのかい?」

 流吹が近くに溜まっている女子たちに聞く。


「どんな子かな?」

「男の子か女の子か」

「気になるよね~、そこ」


 完全無視。些細な反応さえ見せない女子たちよ。君たちは何とも良い仕事……いや、何とも悲しいことをするものだ。


「何かあったのかな?」

 永遠も喧騒のクラスを見て、小首を傾げる。


「何か転校生が来るみたいよ!」

「海外から来たっていう噂!」

「どんな子かな?」


 ふいについた言葉なのに先程は何の反応を示さなかった女子たちが一斉に永遠に対して話し始めた。この扱いの違いように夜叉でも図らずも同情したくなってしまった。


「ふふふふふっ……しょうがない、しょうがないんだ。保科様は全校生徒に好かれているという学園のマスコット的な存在。それに対して俺はしがない親衛隊第一号。でも、保科様の地位が上がれば上がるほど我々は誇らしくもあり、嬉しくもあるのだ。だからこれはいいんだ。これこそ本望であるのだ。そう我々は保科様の身辺のガードと主に地位向上もまた目的なのだ! そう、そうなんだ」


 ぶつぶつと開き直っている様子の流吹。


 同情して損したわ。


 メラメラと何かの炎を瞳に宿し始めた様子を見て、数瞬前に感じた情けが跡形もなく吹き飛んでしまった。


「そうなの? 女の子なら嬉しいな。留学してきたってことかな? お友達になっていろいろお話聞きたいな」


 永遠は嬉しそうに語る。完全に転校生は海外から来た女の子に決定してしまったようである。転校生よ、君が男だったら自己紹介などせずに一度帰りたまえ。もう君の出番はなくなっているだろうから。南無三。


「ねぇ、わさちゃんもそう思うでしょ?」


 ここで無茶振り。楽しそうに永遠に話しかけていた女子たちの表情が一瞬曇るが、永遠の目の前だということを考慮してか、あからさまには嫌な顔をせずに、すぐに表情を戻した。


「知らんわ。というかどうでもいいわ」

 ちょいちょいと『そこを除け』という風に永遠に示すと、少し不満そうに道を空けた永遠の脇を抜け、自分の席である窓側の後ろから二番目の机の方へと足を向けた。


 まさかな……


 席に座る前、自分の後ろの、入学してから誰も座ることはないのだが、なぜか片付けもせずに置いてある机を視界の隅で見る。それは学校の七不思議にも出る有名な『なぜかある机』というモノであった。夜叉としては常に後ろを取られる感覚は何とも居心地の悪いようなものを感じてしまう。


 嫌だな。


 転校生という単語を聞いてから心の片隅で、そいつはこの席に座るのではないか、という危惧がずっと見え隠れしていた。

 まぁ、俺の後ろの席に座ろうとする奴なんかいないだろうからどっか違うところに机を持っていくだろう。

 自虐的な風に自らを励ましながら席に座った。


「もうわさちゃんったら」

 冷たい反応に永遠は少しぷりぷりしながら夜叉の隣の席につく。扉の方からは「何あいつ」「ふざけるなって感じ」「永遠ちゃんもなんであいつのことなんか」と口々に文句を言う声がした。


 俺の方が聞きたいよ。


 心中で同意する。その理由を君たちからちょっと聞いてみてくれ。おそら

くはぐらかされると思うから。前に一度聞くと、頬を赤らめながら「そ、んな、こと、キ、聞いてくるの!?」などと意味不明な反応をしてきたので、面倒になってそれ以上は聞こうとはしなかった。


 本当、意味わからん。


「女の子が良いな……いやいやいやいや、そんなことを考えては駄目だ。これは完全な浮気になってしまう。落ち着け流吹。お前は保科様一筋。親衛隊№1の五月流吹だろ」

 バシンバシンと、自らを戒めるように両手で両頬を強く叩きながら流吹は夜叉の目の前の席に座った。当然のようにすぐに「あごはっ!?」と意味不明な奇声を上げて、右頬を押さえたのは言うまでもない。


 馬鹿だ、こいつ。前々から思っていたが。


「真性馬鹿だな」

「病気になってる!? 馬鹿という名の新種の病気となっているよ! というかまた心中の呟きが開けっ広げだよ……」

 さらに腫れあがった頬の痛みを飛ばそうと擦りながら涙目で言う。

「アァ、ワルイナ」

 窓の外、晴れやかな空を眺めながら一応、謝っておく。

「棒読み加減が激し過ぎるけど、返答してくれたことにありがとう!」

 変なところに感謝されてしまった。真性馬鹿は止まることを知らないようだ。妙に気持ちの悪い爽やかスマイルをかまされると、スピーカーから朝の会の始まりを告げる鐘の音が校内に響いた。


「皆 !? さん、おはようございます」


 字面では普通に聞こえるであろうが、実際の声は蠅の羽音よりも小さく、ただのノイズにしか聞こえない朝の挨拶をしながら余りある一八五cmもの背の高さを有した女性が教室の中に入ってきた。途中、扉の上の壁に顔をぶつけたのはいつものことなので、優しいこのクラスの生徒たちは特にそこを指摘せずに「おはようございます」と答えてあげている。


「あ、ありがとう」

 赤く染まった鼻と押さえながらこのクラスの担任、小山内三津葉(みつば)、二九歳独身、彼氏なし歴・年齢である。小山内という割に顔立ちは彫が深く、背の高さもあってか誰もが羨むようなモデル体形だが、わかる通り緊張症で、異性の前に立つと何を言っていいのかわからないそうである。それ以前になぜ人前に立たなければならないこの職を選び、そして得られたのか不思議でならない。


「では、早速朝の会を……」

 出欠を取るために小脇に抱えた出欠簿を教卓の上に乗せようとする。


「先生。その前に何かないですか?」

 教卓の前に座る男子生徒が気遣うように言う。その隣に座る女子生徒もチラチラと視線を廊下側に流しながら「何か重要な連絡がある気がするんじゃない?」と子供に言うように優しく問い掛ける。


「何か? 重要な連絡?」

 可愛げに首を左右に頻りに傾げる小山内教諭。彫の深さがその時ほど残念だと思う。可愛げあるその仕草は天然であろうが、整った顔立ちでは演技にしか見えず、同年代以上の女性から見たら媚びているとしか見られないのだが、そこは高校生「今日もやっぱり可愛い、みっちゃん先生」「今日も今日とて御馳走さまです」という黄色い声しか上がらない。ある意味、天職なのかもしれないと思わず思ってしまった。


「ほら、外に何か影が」

「誰か待ってるんじゃないの?」

 他の生徒たちもフォローに入る。だが、それでも三津葉は気付かない。『どういうこと?』といった風に眉根を顰める。

「ほら入ってくるとか入ってこなかったりとか」

「どこからかやってきたっていう感じで」

 それでも優しいクラスメイト達は遠まわしにヒントを与える。直接言ってしまった日には、三津葉の担当する現代文の授業が全て潰れてしまい、その時間全てを費やして三津葉の愚痴を聞かなくてはならなくなってしまう。やっぱりこの職に向いていないよ、この人は。それだけは避けなくてはならないというのが、全員一致の見解である。


「先生先生、転校生まだ?」


 そんな気遣いも空しく、空気を読めない真性馬鹿はストレートな物言いを発揮してしまう。誰もが心中で「この馬鹿野郎!」と叫んだであろう。なぜなら恥ずかしながら夜叉もまたその一翼を担ってしまったのだから。


「あっ! うううっ……」

 耳の先まで真っ赤にして、三津葉は唸る。


「頑張って!」

「みっちゃん先生!」

「明日があるさ!」


 もう既に今日は捨てたらしい。その励ましに三津葉は顔を赤らめながら小さく頷く。あれでも少しは勇気を得たらしい。


「そ、そうでした。その前にお伝えしなければならないことがあります」

 もじもじと手遊びをする仕草は奥手な少女のようだが、その姿はその真反対。そのちぐはぐ感は大きな人たちが喜びそうな雰囲気であった。


『うおぉぉぉぉ!!』


 大人の階段に片足をかけた男共は周囲の女子たちからの冷たい視線も構わず、鼻息荒く興奮していた。


『もっ……』


 と、という前に『何ですか、先生』と女子たちの大合唱。言葉は教師でも視線ならぬ死線は男子たちの方へと向いている。


「皆ももう知っているみたいだけど……」

 その光景に怯える三津葉。視線が泳いでいる。


 か、かわいい。


 夜叉もとうとう我慢しきれず、思わず心中で呟いてしまった。


 くそっ、素直に可愛いじゃないか。


 頭を抱えるようにして、叫ぶ。


 落ち着け自分。


 抱える手に力を入れる。それを見て、隣の席に座る永遠が訝しげな視線を送ってくるが、見えない振り。


「転校生が来ることとなりました」


『わぁぁぁぁぁ!!』


 クラス中で爆発的に感情が高ぶる。定期的にやってくるイベントは異なり、転校生イベントは来るか否かは神のみぞ知る、発生率0.2%(自社比較)のレアモノである。それだけのモノを体験できるとなればこうなるのもしょうがないこと。


『あぁぁぁぁぁぁ!!』


 興奮冷めず、未だに意味不明な奇声が続く。所々で息が続かず、顔色の悪くなってくる者も出てきた。そんなになるまでやるなら止めろよ、と言いたいが、その選択肢はないらしい。どうやら主役の登場まで続けるようだ。否応なく興奮は高まってきてしまう。


 御愁傷様。


 この状況での登場。下手な転校生だったならば御帰り願いたいところである。今、皆が持つ期待値を超えられる逸材でなければこの空気は次の瞬間には身も凍るほどの落胆で染められてしまうだろう。


 こいつらある意味、非情だよ。


 後ろの席から見る光景は英雄を待つ圧政に苦しむ庶民のようで、恐ろしく見えた。


「で、ではお願いします」


 何かおかしいリングコールであったが、クラス合唱の中では完全に掻き消されてしまう三津葉の声。しかし、そんな声でも期待のニューフェイスは耳に入ったらしく、ゆっくりと教室の扉が開かれていった。


 御手並み拝見といきましょうか。


 片肘で顎を乗せながら少し上から目線でそんなことを思ったが、すぐに自分がどれだけ馬鹿だったかを思い知らされることとなった。


 んな馬鹿な……


 思わず顎を乗せた左腕をずらしてしまった。自然、ガクンと顔が下に落ちるが、そんなことなどお構いなしに、夜叉は周囲の視線など気にせず、口を開けたまま呆然としてしまった。それ以前に周囲もまた同様の反応を見せており、夜叉の貴重な驚き顔を見ている者などいなかったことは本人としては幸いであった。


『あぁ……』


 興奮の渦は尻すぼみに消し去っていき、息を飲む音だけが教室中を満たした。


 カッカッカッ。


 上履きであるのに、なぜかそんな高い音が耳に聞こえてくる。皆もそんな幻想に無言で耳を傾けている。


 カッカッカッ。


 彼の者が足を踏み出す度に腰まで伸びた栗毛色(ブリュネット)のポニーテールが規則正しく揺れ動く。皆、その姿をじっと見ている。


 綺麗だな……


 夜叉もまたその一員となって、呆然とその美しい姿を眺めていた。

 まるで西洋の絵画からそのまま飛び出してきたような雰囲気であった。

 切れ長の割に意外と大きい瞳に小振りな鼻、薄いのだが魅惑的な唇。それらが本当に収まり切っているのか、と疑問に思うほど小さな顔。背は夜叉よりは少し小さいが、それでも一六五センチはあるだろう。しかし、その線の細さが実際よりも高く見えてしまう。よくよく見てみると、所々シャープな筋肉を有しており、何かスポーツをやっている雰囲気であった。


 ただあれだけは現実的だな。


 夜叉もまた男である。スー、と視線の行く方向は目の前で同じく呆然としている流吹と同様であることは認めたくないが、しょうがないことだった。


 普通だな、胸は。


 突き付ける現実。一瞬、彼女からの鋭い視線がこちらを向いた。読心術でも持っているのか、と錯覚するほどの的確さに瞬時に夜叉は視線をずらすも、気になるのでゆっくりとだが再び視線は教壇の方へと向けた。


「えっと……彼女が転校生の……」

 三津葉もまたこの転校生の空気に飲まれてしまった一人であった。事前に見ているのに教師がそんなんじゃダメだろ、とお叱りの言葉も聞こえてきそうだが、正直この状況は同情に値すると思う。それほどまで完全にこの転校生は何かを『持っていた』。一般ピーポーの三津葉、見た感じはそうではないが、では対処しきれない相手だ。当然のように俺なんか足下に及ばない、と自覚する。


「…………」


 彼女はちらりと三津葉の方を見るが、何も言わないので頼りにならないと判断されたのか、紹介を待たずに、無言でチョークを持つと流麗な筆記体で黒板に何かを掻き始めた。


 カッカッカッ……


 先程の足音とは違う現実的な音が鳴る。強く書くので、白い粉がふわふわと周囲に飛び散るが、それを気にせず書き終わると、スッとチョークを元の位置に戻した。


〈Ouka・Youngshoot〉


 黒板に描かれた字はそう書かれていたが、このクラスの中でどれだけがしっかりと読めたか。


 おーか・やーぐしょっと?


 筆記体というものを見慣れていない上に、勉強はとんと出来ない夜叉。それが今現在行使できる精一杯の理解力であった。


(ヤングシュート……)


 同居人はその響きに何か引っ掛かるものを感じているらしく(うーん)と何やら唸っている。耳障りならぬ脳内障りだな。


桜花(おうか)・ヤングシュート。オウカは漢字で桜の花と書きます。お願いします」


 教室に入ってきてから初めて言葉を発した。英語は英語、日本語は日本語の発音で流暢にどちらも喋り、凛としたその声は教室内を隅々まで満たした。


 さいですか。


 そして、まるで手本のような礼をすると、再びキッとこちらを睨んできた。心中で名前の読み方をミスったのを勘付かれたか?


「オ、桜花さんです。日本に、慣れてない……と思うから皆いろいろ教えてあげて、ね……」

 慌てて取って付けたような事を言うが、その三津葉の言葉は『わぁぁぁぁ!』『きゃあぁぁ!』男女それぞれの反応にまた掻き消されてしまった。つくづく不運な星の下に生まれたようだ。


 ガクン。


 あからさまに三津葉の首が項垂れる。小声で「もういいです。もういいです」と呟いているように見えた。席が遠くてよくわからないが。


「桜花さん、桜花さんでいいよね、桜花さんはどこから来たの!?」

「桜花さん背高い!」

「桜花さん普乳だ!」

「桜花さん髪綺麗!」

「桜花さんどうして日本に来たの!?」


『名前を知ったら皆友達』


 そんな金言が思い付いてしまうほど、クラスの連中の馴れ馴れしさときたら何とも言えぬモノがある。

 一応、触れておくと、一つ真性馬鹿の発言があったが、他の生徒たちの言葉でもみくちゃにされてしまい、どうやら相手には聞こえなかったようである。いや、そんなことお構いなしに俺から鉄拳仲裁。馬鹿顔でいる流水の後頭部に掌底を喰らわす。「ばベぶっ!?」という妙な奇声を上げ、机に突っ伏す真性馬鹿。御愁傷さまだ。


「普乳ではない! 美乳よ!」


 ババン! といった感じで宣言する。腰に手を添え、自称『美乳』を反らすその姿は自信しかなかった。


 おいおい……


 さまざまな質問があった。

 What、Where、Why、When、Who、How。俗に言う『5W1H』。それらを織り交ぜたいくつもの質問の中で桜花嬢が選んだのは、今目の前で夢の中へと旅立った真性馬鹿の馬鹿発言であった。


 チョイスミス……


 下手なツッコミも入れたくなってしまう。見た目とは逆にお茶目な部分があるらしい。転校初日にそれを全開で見せるのはどうかと思うが。実際、教室の皆も一瞬の唖然を演出してしまっていた。ポカンと口を開けている者も少なくはない。

 だが、それも数瞬のこと。この状況をうまく飲み込んだクラスの連中はげっぷと共にフォローに走る。


「うん、美乳だ」

「そうね、美乳よ」

「美乳だね」


『美乳ですね!』


 某平日昼間の定番番組の返しのようにクラスの皆が大合唱。このときだけはこのクラスの連中の優しさが良く見えてしまった。


 俺、やっぱり疲れているな。


 意味もなく、自らの眼を擦る。


「えっと……朝の会、始めたいので……」

 ここぞ、とばかりに今までこの嵐の中でもじもじとしていた三津葉がやっとのことで言った。


「桜花さんの席は……」

 どうしましょう、と言い出すタイミングは失した。せっかく割って入ったのにその努力は無に帰すこととなる。

「ここです!」「いえ、ここです!」「いや!? ここは俺の席だぞ!」「お前は退け!」「お前こそ消え去れ!」「あんたがいなくなれ!」

 醜い争い勃発。マシンガンのように吐き出されるさまざまな主張(主に罵詈雑言)。誰もが彼女と友達あるいは隙あらば彼女になってくれるかも、という空しい願望から隣の席に座らせようと躍起であった。


 結局これか。


 先程の感動を返して欲しい。


 一致団結していたクラスは嘘のようにバラバラとなっている。何だか悲しくなってきた。


 ……カッカッカッ。


 そんな雰囲気を断ち切るように再びあの足音が響き渡り始める。しかし、いい争いに夢中のその他大勢はそれに気付く気配はない。ただ一人、夜叉を除いては。


 こいつは……


 カッカッカッ。


 徐々にその姿が大きくなってくる。


 まさか……


 カッカッ。


 視線はずっとこちらを向いている。凄く不機嫌そうな視線が。思わず顔を下に向ける。


 やっぱり……


 カッ。


 そして、目の前で足音が止まる。


「小山内教諭」


「はい!?」


 事態を意味もわからず、凝視していた三津葉。急に呼ばれたせいで今まで出したことのない大きさの驚きの叫びを上げた。その声に教室中が事態に気付く。


 遅すぎるわ。


 主役を無視して、自分の欲に走った連中は今の状況をうまく飲み込めていないようだ。小さくだが、ざわついている。


「私はここがいいです」


 ここでいいです、ではなく、ここがいいです、と来た。御指名入りました! といった感じ。そんなんいらんわ! と叫びたくなるのを堪え、恐る恐る顔を上げる。


「う……」

 夜叉の口元から苦い声が漏れ出る。


 そういうことになりますよね。


 桜花はビシッと細長い指先を夜叉の後ろの席、窓側最後列に向けていた。再び教室がしんとなる。


「はいっ!?」

 有無を言わせぬ物言いに三津葉は裏返った声で肯定とも否定とも取れぬ返事をした。だが、桜花はそれを肯定という意図で汲み取ったようというか、否定という言葉が辞書にないらしく当然のように席に座ろうとした。


「そんな!? 死神の後ろなんかより私の隣の方が安全だよ!」

「悪魔に取り憑かれる前に俺の隣へカム・ヒア!」

「一生、悪夢にうなされちゃうよ!」

 堰を切ったように大胆な発言をかまし始めるクラスの皆。隣の席で永遠が「そんなことない!」と反論しているが、相手の方が数の上では多いので、完全に競り負けている。


 はいはい、そうですね。


 慣れたもので、夜叉は聞かないようにする。


「わかってるわ」

 何を今更といった感じにそう言うと、桜花は夜叉のことを睨みつけながら周囲の反対など意に介さず、後ろの席に腰を落とした。


 わかってるって、海外まで伝わっていることなのか?


 意外とグローバルなことを知って、少し感心してしまったが、すぐに後悔する。

 そりゃ、今の時代、海外の猟奇殺人とかもTVでやるくらいなんだからあれが海外で放送されない訳がないか。

 何とはなしに世界まで敵に回した気分に陥ってしまう。


 俺はそこまでの大罪人なのか。


 それを裏付けるかのように未だに桜花は夜叉のことを睨み続けている。良く考えてみると、その視線には遺恨のようなものが混じっていることに気付く。何か夜叉関連のことで被害を被ったのだろうか。いや、でもグローバルな被害はもたらしていないはずだ。


 まぁ、いいさ。


 いつもの気配を感じて、興味を失くし、少しだけ向けていた後方への意識もすぐに空へと移す。


「やっと会えましたね」


 意識を移す瞬間、後ろから何か聞こえてきたが、意識の大半を既に蒼穹へと向けていた夜叉には何も聞こえなかったようだ。


 気のせいか。


 青空のキャンバスの中を鳥たちが自由に飛び回っていた。


「そ、それでは朝の会を、始め、ます」

 最後まで桜花の勢いに押されっぱなしであった三津葉。精一杯振り絞った声なのだろうが、平静と変わらぬいつものシャドーヴォイス。

 しかし、聞き慣れた生徒たちは先程の騒ぎはなどなかったように鳴りをひそめ、真っ直ぐ教卓へと視線を向けた。


「あ、麻上さん」

「のほほーい」

 一瞬、皆の視線に耐えきれず「うっ」という短い悲鳴を上げたが、そこは教師。どうにか努めて平静を保ち、出欠簿を読み上げ始めた。


               ♢


 少しの休憩を挟んで一限目が始まる。数分でもクラスの連中には十分で、桜花の席に全ての生徒が集まり、間髪入れずのマシンガンクエスチョンで根掘り葉掘り聞こうとしていたが、相手も然る事で「そうね」「うん」などとうまい具合に流していた。


 何なんだよ。


 それよりも夜叉が気になるのは、朝の会からずっと送られ続ける後ろから夜叉の背中への嫌な視線のことであった。一時的なことだろう、と無視を決め込んだのだが、一限目の授業が始まってもまだ突き刺してくる。


 痛すぎるわ。


 元から授業など真剣にやることのない夜叉でも、少しは黒板の文字をノートに写したり、話を聞いたりとしているのだが、今はそれすらやる気力が出ないというか、させてくれる状況ではなかった。


 俺、そんなまでに直接的なこと何かしたか?


 今日初めて会ったばかりの相手に何かするほど手広い交友関係や外出の記憶はない。というより、既に自分の中に人を飼っているのだ。他の連中を相手にするほど暇ではない。それに例の事件以来、外に出れば嫌な気分になるので必要に迫られなければ家から一歩も出ない。


 怖いのだ。


 街角で井戸端会議をするおばさんたち。隣を通り過ぎる忙しないサラリーマンたち。遠くまで声をかけている店先の店員たち。楽しそうに喋り合う学生たち。その全てが自分のことを言っているのではないか、という考えは常に夜叉の脳内につき纏っていた。


 被害妄想。


 そう言われてしまえば何てことはないと思われてしまうだろう。しかし、それはその者が現実しか見ておらず、多くの者が生涯体験することのない『非』現実を見たことがないから言えることだ。その悲惨な『非』現実を体験するだけならば時が過ぎれば忘れ去られていくのかもしれないが、夜叉はその『非』現実の当事者である。忘れる忘れない以前にその記憶はその身に、その脳に刻み込まれてしまっている。そう、既に夜叉自体が『非』現実なのだ。


 説明するまでもないか。


 中に他人を宿した身体。それを『非』現実と言わずに何と言うのだ。

 当時、子供心でも理解していた。全ての元凶はこいつなのだろう、と。その時は夜叉の年齢と比例してレフィカルもまた小さな女の子だった。普段は夜叉を気遣うように脳内で声をかけてきてきた。時たま、姿を現しては何かと手を焼こうとしていたが、その全てを夜叉は否定してきた。

 数年前のある日、夜叉は家出をした。とは言っても少し遠くの公園まで足を伸ばしただけで疲れ果て、そこにあったブランコをずっと漕いでいた。黄昏時。その街に住む子供たちは家路につき、閑散とした公園内で夜叉は無言で漕ぎ続けた。ずっと空へと向かって自らを揺らし続ければどこか遠い空の彼方へと飛び立って行けるのではないか、というそんな想いがあった。そんな時、ふと目の前に彼女は現象した。


「帰らないのか?」


 見た目はあどけない幼女であったが、その声はしっかりとしたものがあった。


「…………」


 しかし、そんな言葉に耳を傾けようとはしない夜叉はただただ無心にブランコを漕ぎ続ける。


「…………」


 レフィカルはかたくなな態度の夜叉を見て、少し顔を俯けると、トコトコと夜叉の隣に来ると、ブランコに乗り、一緒に漕ぎ始めた。夜叉は一瞬顔を顰めるが、特に何も言わずに漕ぐ速度を上げた。それに追随するようにレフィカルも速度を上げる。ならば、という感じに夜叉も。


 ブン、ブンと風を切る音、二つ。


 そんなイタチごっこはずっと続いた。それはレフィカルの優しさだったのかもしれないし、夜叉もまたそこに楽しみを見出していたのかもしれない。その時は否定をすることを忘れていたかもしれない。

 その後、保科一家総出で捜索してきて、夜叉は一人でいるところを見つけられた。夜叉は生涯体験することもないほど怒られた。そして、なぜか泣いてしまった。あれが最初で最後の涙だったかもしれない。

 その後もやはり夜叉はレフィカルを否定し続けた。あの時は例外、異常中の異常だったのだ。そして、成長した今も否定し続けている。いや、下手に知恵のついた夜叉は以前にも増してレフィカルの存在を否定している。

 そんな『非』現実の俺だからこそ敵愾心を自然と燃やされてしまうのか。

 どうにも理屈が通らない。

 まぁ、そのうち飽きるだろう。

 一時的に終わらなくとも一日すればそう睨み続けるのも疲れてきて、馬鹿らしくもなってくるかもしれない。あるいは、そのうち夜叉の方が慣れてくるかもしれない。そんな淡い期待で一日その異次元の槍術を受け続けた。


               ♢


 いや、終わらないし!?


 朝から晩まで、とは言い過ぎだろうが、朝の会から帰りの会までその殺人光線は止むことはなかった。


 いや、慣れないし!?


 そして、その攻撃力は半端なく、一日ずっと受け続けていても慣れることは皆無であった。その証拠に根暗を体現する夜叉も思わずテンションの高い自演ツッコミを演じてしまっていた。

 クラスの皆が三々五々、部活やら家路につこうとしている中、脱力した夜叉は席で項垂れていた。


(大丈夫か?)


 そんな状態だからだろう。発言を禁止されていたレフィカルもまた思わず声をかけてしまっていた。


「あぁ、大丈夫……」


 極度のストレスで普通に返事をしてしまった。途中、気付いたが、そこであからさまに否定しても道化のようで、恥ずかしかったのでしょうがなく応対することにした。


「何なんだあの視線は」


 というより誰かに意見を言いたかっただけなのだろう。他に聞こえないように左腕に話し掛ける。


(あぁ……そうだな……)


 どこか引っ掛かるような物言い。


「何か知ってるのか?」


 普段のようにキツめの質問口調になる。


(ヤングシュートという名に覚えがあるが……たぶん違うと思う)


 うーん、という唸りと共に否定をする。否定の領分は夜叉の特許のはずが、レフィカルの方から言われるとどこか気持ちの悪い感じがしてしまう。


「そうかい。誰なんだ?」


 名に覚えのある奴は、との質問には少し考えてからレフィカルは(昔の友人さ)と答えた。そこにある敬慕の情に相当信頼していた親友なのであろうと推測できる。


 だが、何なんだろうか?


 その合間に見え隠れする悲哀感は? 昔というのだから最近は会っていないのか、あるいは死別したのか。こんな夜叉でもそこまで問い詰めることはしない。


 野暮っていうもんだ。


 フッと格好良く決めるも、実際はただこれ以上、話を聞くのが面倒というのが、本音であろう。


「まぁ、いいさ。帰って飯食って風呂入って寝りゃ忘れるだろうに」

 どこのおっさんか、と見紛うばかりの発言に(はははっ)と苦笑い。嫌っていてもうまく話はできるものである。


「久々にカレーにでもするかな」


 はぁ、と溜め息一つ。勢いつけて席を立つ。


(おおっ!?)


 その言葉に期待に満ちた声を漏らすレフィカル。じゅるっ、と涎を啜る音すら聞こえてきそうな勢いであった。


(しかし、時間は大丈夫なのか?)


「早く帰れば、な」


 鞄を掴み、ちょいとスーパーに寄らないとだから少し遅れるかもしれないが、と言っても、それでも食えるならいいというレフィカル。そこまで言うということは相当気にいっているのだろう。


 そんな期待されるほどでもない気がするがな。


 そんなレフィカルの態度に満更でもない様子の夜叉。嫌よ嫌よも好きのうち、という言葉を夜叉は知っているのだろうか?


「夜叉、夜叉! 一緒にテニス部揺れ胸鑑賞会していこうぜ!!」


 ビシッと親指立てて、廊下に聞こえるほどの大声で宣言してくる真性馬鹿。「今日も嬉し恥ずかし保科様の3D揺れを拝もうではないか」とほざく。もう奴の名は呼ばない。奴の真名は真性馬鹿である。

 周囲の、特に女子からの滅殺光線も気にせず、バタバタと夜叉の傍まで寄ってくる。


「おいおいシームー決め込むなよ」

 無視を業界用語チックに言うんじゃない! それに寄ってくるな!

「真性馬鹿がうつる」

「俺を感染症か何かの宿主のように言うな! というか皆も出来るだけ離れようとするなよ!」

 スー、と流水の周りから人が引いていく光景は壮観だった。

「壮観言うな!?」

 真性馬鹿の特殊能力か。何かを透視したように叫ぶ。


「わさちゃん、わさちゃん帰っちゃうの?」

 ドンドン、と教室の床を叩きながら自らの扱いに嘆く流水を捨て置いて、さっさと教室を出ようとすると、今度は永遠が寄ってきた。


「あぁ、帰るよ。というかさっさと部活行ったら? もう練習始まってるだろ」

 永遠は先程、真性馬鹿の発言にもあったようにテニス部に入っている。一年生ながらも強豪校である我が校の三年生を完膚なきまでに叩き潰してしまい、既にエースと化しているようだ。ゆったりとした性格に似合わず運動神経は抜群で何でもこなし、この前の身体テストでは全学年の女子だけではなく、男子までも抜き、校内でトップを取ってしまっていた。本人談では「抑えたつもりなのに」だそうだ。ははっ、男子たち、特に運動部連中はもう形無しである。


「テニス部に、その、あの……鑑賞しに来ないの?」


 来て欲しいんかい!?


「行くわきゃないだろ」


 阿呆らしい、といった感じに手の平をフラフラさせて否定する。

 それにカレーの材料買いに行かないとだからな。

 下手な約束をしたせいで、作らなければならない。一度約束したことは破ることはしないという格好の良いことではなく、ただ言われてしまうとそうしないと気が済まないだけである。


「それとも見て欲しいんかい?」

 目に見えて落ち込んだ様子の永遠にちょっとした意地悪感覚で言ってみる。


 どうだ、永遠。


 穏和な性格である。こんなことを言われれば必死に否定するだろう。それで結果オーライ。さっさと家路につける。


「う、うん……」

「そうだろ。じゃあ……ん!?」


 予想通り。そんな風に思いながらおさらばするつもりが、予想に反した答えが聞こえてきた気がした。


「聞こえなかったわ。ホント何も聞こえなかったわ」


 耳の先まで真っ赤にした永遠を置いて、夜叉はぶつくさ何かを言いながら教室を出た。


「わさちゃんにならそれ以上でも……」


 聞こえない、聞こえない。


 夜叉の耳は今まさにこのときだけは難聴の領域へと達した。「だってわさちゃんだもん。私は……」未だに何かを言い続ける永遠の言葉は一切遮断した。


 感じない。感じない。


 それに未だに引っ掛かってくる桜花の視線。何やかんやと教室の入り口付近でしている時でもそれは感じていた。

 さっさと帰る。さすれば道は開かれん。

 全ての束縛から逃れるには多くの世界の入り混じる学校ではなく、自らの世界、領域である自宅に帰ることが一番の得策だ。

 家だけが無条件で俺を優しく内包してくれる。

 口元が自然と緩んでしまう。

 だが、その前にスーパーか。

 制服のポケットに突っ込んだ財布の感触を握り締めながら昇降口へと向かう。


               ♢


 夜叉が教室を出てすぐ。


「あれ、桜花さんも行っちゃうの?」

「部活見ていかないの?」

「ええ。今日はまだいいわ」

「そんなぁ~」

「部活巡り一緒にしようかと思ってたのに」

「ごめんなさい、用事があるの。まだこの街に来たばかりだから」

「そう……何か手伝おうか?」

「うん、荷物の整理とかならやるよ」

「大丈夫。あらかた全部片付いているの。ただ他にもっと重要なことがあるの」

「わかったよ」

「じゃあまた明日ね」

「明日こそは部活巡りね」

「ええ、お願い」


 当たり障りのない微笑をクラスに残し、桜花は足早に教室を出た。そのポニーテールは待ちに待ったという感じに元気に揺れていた。



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