怒り
サクちゃんとダイゴが戦っているのをヒヤヒヤしながら見守っていると、突然部屋の扉が開いた。突然のことに驚きながら振り向くと、ハイリがいた。
「ハ…」
ハイリ、と呼びかけようとしてハッとする。
ハイリは片手にキユウさんを引きずっていた。疲れたようにそのキユウさんを部屋に投げ入れる。
「キユウさん!」
床に叩きつけられたキユウさんを抱き起こすと、私の手に血が付いた。見ると、首筋から血が流れている。
「………吸ったの?」
「吸ったけど殺してないよ。」
焦っている私をハイリが呆れたように見下ろしてくる。悪い?とでも言いた気な目に腹が立った。必死に怒りを抑えながら、声を出す。
「…殺さないからって、倒れるまで吸わなくても…」
「……だってうるさいから。イオン、イオンって。」
その言葉に、私は固まった。これまでも驚いて固まることはあったが、今は本当に動けなかった。キユウさんに向けていた顔を、上げることが出来ない。
「………イオンって……呼ばれたんですか…?」
「うん。一回噛んだ時は手加減したんだけどイオンイオンうるさいから不意打ちして思いっきり吸っちゃった。イオンって誰?」
イオンって誰。
頭が揺さぶられるような目眩と痛みがした。ハイリの、イオンの、口からそのセリフが出てきたことの衝撃が強すぎた。
倒れかけた私の体を支えたのは、傷だらけでも焦って私に駆け寄ってきてくれたサクちゃんだった。
「リカコ、大丈夫か。」
「大丈夫…」
全然大丈夫ではない。
変に刺激したら壊れかねないと、そうダイゴに言われてイオンと呼ぶことを避けてきた。でもそれには、逆にイオンと呼べば思い出してくれるのではという気持ちも入っていた。
なのに、イオンと呼んでも、思い出してくれないのか。
キユウさんがどんな気持ちで、ハイリをイオンと呼んだのか。私がどんな気持ちで、イオンの記憶がないハイリを見ていたのか。
「……うるさいって、そういう言い方ないんじゃない?…あんたの名前じゃない。」
気づくと、そう呟いていた。ハイリが「え?」と一瞬戸惑う。
「私やサクちゃんやキユウさんが三年間どれだけイオンって名前を発するのを耐えてたと思ってるのよ!キユウさんがどんな気持ちでイオンって呼んだと思ってるの!そりゃ記憶ないんだから分からないかもしれないけど、うるさいって言い方はないでしょう!」
私が感情的に捲したてるのをハイリは唖然として聞いていた。
顔と頭の中が熱い。強く、堅く目を閉じる。
少し落ち着くのを待って、目を開けて見えたハイリの顔を見て我に帰る。
傷ついた顔だった。イオンの時ですらこんな顔は見たことない。
思えば私、イオンに強く当たったことも、喧嘩したこともない。
「……リカコ、あんまり傷つけないでやって。繊細だから。」
それまで少し遠くから様子を見ていたダイゴが言う。
こんなに感情的になってしまったことに、自分でも驚いていた。あれだけどう接しようか迷いながら慎重に話していたのに、今になって思いきり感情をぶちまけてしまった。
「……ごめん…ハイリ。ハイリにこんなに強く当たっても仕方ないのに…。」
「…平気。俺もごめん、何も知らなくて。」
ハイリはショックを隠すように弱々しく笑った。その笑顔に、胸が痛くなる。
何か言わなくては、もっと謝らなくては、と思うのに頭が働かない。私が戸惑っている間にハイリはパーカーのポケットを探り、何かを取り出した。黙ってそれを私の手に握らせる。
「これリカコに渡すの忘れてて、渡さないと、と思って来たんだ。」
私が手を開こうとしている間に、ハイリはもう扉の方に戻っていた。
「ダイゴ、一人で大丈夫でしょ?俺ミズキの様子見てくる。」
そう言うとハイリはさっさと部屋を出て行ってしまう。
呆然としながら手を開くと、金色の鍵が手の平に転がっていた。
「鍵?」
サクちゃんに手の平を覗き込まれる。何の鍵だろう、と一瞬悩んだが自分の手首についている腕輪が視界に入ってハッとする。
これを外さないと屋敷から出られないと言われていた。でもどうしてハイリが鍵を持ってるんだ。こういうのはレオナが管理するべきなのでは。
そこまで考えてから、昨日のことを思い出す。レオナの部屋に散々出入りしているハイリ。鍵のある場所くらい把握していてもおかしくない。
「どうして…」
レオナに怒られちゃうよ?
また関係を持てば平気、とでも言うハイリの顔が浮かぶ。
最初から、私のことをちゃんと帰らせる気だったのか。
「…リカコ。」
「サクちゃん…」
振り向くと、サクちゃんが微笑んでいた。潤んでいる私の目を指で撫でる。
改めてサクちゃんの姿を見ると、かなりの量の傷が身体中についていた。これでも治った方なのだろうが、心配になるほど血が出ている。
「サクちゃん、怪我…」
「すぐ治る。」
「ごめんねサクちゃん…何も説明しないまま私だけ勝手に怒って…」
サクちゃんだって急にイオンが出てきて戸惑っていたかもしれないのに。
「平気だ。大体把握した。」
サクちゃんは軽く私の頭を撫でると、ダイゴの方に向き直った。
すると、ダイゴは呆れたような疲れたような笑いを見せた。
「まだ戦うの?もうだいぶボロボロじゃない。」
「勝たないと、帰らせてくれないだろ。」
「…真面目だね。」
ダイゴは座っていたテーブルから降りると、こちらに歩み寄った。
「帰らせてあげてもいいよ。」
「え?」
「その代わり、一つ頼みたいことがある。」
私達が目を丸くすると、ダイゴは笑って人差し指を立てた。




