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8「首切りジャック」

    8


「ってことは殺人事件じゃないのかな……。〈針と糸のトリック〉が駄目なら、獅子谷氏を被害者にする理由はないんだし……。ん、違う違う、犯人が別にいるってのは師匠が云ってたんだ。でもなぁ……」

 すっかり意気消沈した琴乃ちゃんは、帰りのエレベーター内でひたすら独り言を洩らしていた。あの後も獅子谷氏の部屋の中を歩き回って考え続けた彼女だが、結局妙案は浮かばなかったのだ。実はこの扉は横にスライドするのでは、なんて突飛なアイデアならあったけれど、間違っていた。

「そう気を落とさないでよ」

「あんたは気楽ねー。そこそこ名の知れた推理小説の書き手なら、何か考えてみなさいよ」

 琴乃ちゃんはすぐに、探偵を志す者がそんな発言をする情けなさに気付いたらしく「今のなし!」と僕の肩を叩いた。結構痛い。

 遊戯室に戻ると、枷部さんと杭原さんは正面のカウンター前に並んだ円形の椅子に腰掛け、こちらに背中を向けていた。

「あのう……師匠……」

 謎を解けなかった琴乃ちゃんは恐る恐るといった感じでその報告をしようとしたが、

「分からなかったんでしょ」

 云うまでもなく看破されてしまった。琴乃ちゃんは「はい……」と項垂うなだれる。喋れば賑やかな彼女だが、師には強気な態度に出られないようだ。

「まぁ貴女にはちょっと難易度が高めよ。無理もないわ。座りなさい。……壮太くんもこの子に付き合ってくれてありがとうね。お酒、飲む?」

 そう云ってグラスを傾ける杭原さんの声音は、いつにもまして湿り気を帯びている。僕はまたドキドキしながらも誘いに応じ、杭原さんとの間に琴乃ちゃんを挟んで座った。枷部さんが最も遠くに腰掛けている位置取りとなる。

「やぁ先生、先に始めていてすまなかったね。帰りが遅かったものだから。それで、謎を解くまでいかなくても、何か収穫はあったかい?」

「いえ、全然ですよ。僕には何が何だか……」

 当初は難解ながらも構造はシンプルだと思っていた。しかし杭原さんは犯人が別にいて獅子谷氏は被害者なのだと考えているらしい。そういう可能性もあるのだと気付かされて、僕はこの〈密室からの消失〉が一筋縄ではいかないと認識を改めたのだった。

 しかし杭原さんの考えが正しいなら、殺人犯が潜んでいるということになる。呑気に酒を飲んでいる場合ではないと思うのだが……ただ、最低限の用心として、杭原さんは僕を琴乃ちゃんに同伴させたのかも知れないとも思った。単独行動にならないようにするためだ。二人でいれば襲われないという理屈である。

「塚場さんと樫月さんは、何をお飲みになりますか」

 カウンターの向こう側には出雲さんがいた。この簡単なバーを利用するにあたって、枷部さん達が呼んだらしい。いわばマスターにあたるが、それがエプロンドレスを着た童顔の女性というのは奇妙な光景だ。

「えーっと、ジントニックで」

「うちはモスコミュール」

 出雲さんは「承りました」と可愛らしく笑った。

「ねぇ琴乃」

「はい、師匠」

「もう喋ったら駄目よ」

 琴乃ちゃんは「ううううう……」とうめき声をあげ、それきり黙った。酷い仕打ちに思えたが、部外者の僕が口を挟むのもおかしい。それに、僕にも杭原さんが恐い人だと分かってきていた。

「出雲さん、獅子谷氏というのはどういう人物なんだい。おおよその人となりは僕も知るところだが、実際にお世話している君からの印象を是非聞いてみたいものだ」

 枷部さんが持つワイングラスの中で揺れているのは赤ワインだ。獅子谷氏が持つものともなれば、さぞかし上等な一品と思われる。

 僕にジントニックの入ったグラスを差し出した出雲さんは、枷部さんの質問を受けて困った顔をした。

「ごめんなさい、私は今回雇われただけの身なので何とも云えません」

「そうだったんですか」

 若いながらも、それなりに長く獅子谷氏に仕えているものとばかり思っていた。

「はい。初めて此処に来たのは昨日ですよ」

 しかもまだ丸二日と経っていなかった。僕らとあまり変わらない。これは枷部さんにとっても予想外だったらしく「なんと!」と声をあげていた。それはそれで過剰演技だけれど。

「皆様をお招きするにあたって能登さんだけでは仕事が間に合わなくなるので、急遽雇われたんです」

「じゃあ獅子谷氏には普段、能登さんだけがついているんですね」

「いえ。能登さんも一週間前からだと聞きました。此処は別荘なので、獅子谷様も年に一度来るか来ないかといった具合だそうです。その滞在のたびに新しく使用人を都合していらっしゃるようで。能登さんは一週間前に獅子谷様と一緒にやって来て、ひとりで塔の掃除をしたのだとか。私も昨日、簡単に掃除して回りましたが」

 なるほど。獅子谷氏は常にこの塔にいるイメージだったが、こんな不便な場所に暮らしているはずもない。此処はあくまで別荘なのだ。どうも僕は勝手な先入観から事態を誤解してしまうきらいがある。桜野にも散々指摘されている点だ。

「それに私、獅子谷様とはサロンのモニター越しでお話しただけで、実際に会ってはいないんです。今日の夕飯からは能登さんと交代で私がお部屋に食事をお持ちする段取りになっていたので、本当ならあのときに初めて、実際にお会いするはずだったんですが……」

「それはそれは。獅子谷氏は基本的に人間嫌いの気があると聞いているが、そうまで徹底していると病気の域だね。ひょっとして姿を消したのもシャイがこうじてなのかな。はっはっは」

 枷部さんが快活に笑う。獅子谷氏と実際に対面しているのが能登さんだけとはおかしな話だけれど、そもそもこの白生塔自体が多分に珍妙な場所なので、此処においてはおかしい話こそが正常なのかも知れない。

「ところで誠一さん、無花果ちゃんから聞いたんだけど、」

 杭原さんが小悪魔めいた表情を浮かべ、枷部さんに身を寄せた。

「前に彼女と対峙たいじしたとき、負けたんですってね」

「とんでもない!」

 枷部さんの大声に、出雲さんがびくっと跳び上がった。

「極めて不名誉だが、あの事件は未解決で幕を下ろしたのだよ。終始収録されていたが、おかげでオンエアはされなかったね。三年前だ……忘れもしないさ。あれは首切りジャックの事件だった」

 首切りジャックとは、未だ逮捕に至っていないある殺人鬼の通称だ。

 惨劇の始まりは六年前。都内で通り魔事件が起きた。たった一週間で被害者は六人にも及び、その全員が首を切断されていた。切り離された首と胴体は、どちらも同じ場所に放置されていたらしい。その切断はあまりにも綺麗に為されており、すべて同一犯によるものと断定された。首切りジャックという呼称は、このときにマスコミが付けて浸透した。

 結局、犯人は分からないまま事件は有耶無耶うやむやになっていったが、しかしそれから一年後、今度は別の地方都市で同様の事件が起きた。警察はこれを首切りジャックと断定。そして、これで終わりではなかった。

 それからも一年に一度、首切りジャックは国内のどこかで一週間に渡る凶行を繰り返しているのだ。今年も夏に東北の都市部に現れ、やはり逮捕はされなかった。いまでは世界中に名の知れ渡った凶悪犯のひとりで、模倣犯も多く現れる始末である。

「まさかそれって、貴方が首切りジャックと顔を合わせたっていう……」

 杭原さんのその言葉に、枷部さんは片眉を上げた。

「おや、知っているかい。闇探偵の情報網は恐ろしいな」

「首切りジャックの顔を見たんですか!」

 僕は思わず身を乗り出してしまった。驚いた琴乃ちゃんが小さく叫んだが、発言を禁じられているためにすぐにその口を手で塞いだ。

「いや、彼は顔を隠していた。男であるのは確かだったが、その素性は分からないよ。僕はただ、当時の彼が潜伏している場所を突き止めて向かっただけさ。取り逃がしてしまったがね」

 枷部さんは悔しそうに歯噛みした。それは彼が初めて見せた、飾り気のない本心の発露だった。

「甘施さんは彼の犯行を未然に防いだのだよ。首切りジャックは実はある規則性を以て標的と犯行場所、犯行時刻を厳格に定めていたのだ。彼女はそれを推理してみせた。たしかに見事と云えたな、あれは。もっとも、次の年からはその規則も変えられてしまい、抑止力として確立はされなかったが」

「無花果ちゃんは自分の働きの方がその事件においては大きかったと思って、ああいう物云いをしたのかしらね。貴方に負けなかったと云っただけで、事件を解決したとは云ってなかったから」

「はっはっは。未解決である以上、僕らはどちらも敗北したというのが僕の探偵美学だが、そういった見方をするならばこのボナパルトの勝利に違いないね!」

 そこはお互い譲らなそうだ。僕からすれば、首切りジャックと相見あいまみえるところまでいった枷部さんの勝利に思えるけれど、無花果ちゃんに云わせればまた変わってくるのだろう。

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