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7「探偵見習いの推理」

    7


 夕食の時間は終わり、各自解散となった。義治くんと香奈美ちゃん、無花果ちゃんと新倉さんの二組はすぐに自分達の階へ戻って行った。枷部さんと杭原さんは意気投合したらしく席に座ったまま歓談していて、それをかたわらから樫月さんが無言で眺めていた。

 桜野が「塚場くん、図書室に行こうよぉ」と云ったので、僕は彼女と二人で四階に来ていた。獅子谷氏が密室から消失した謎を解かなくていいのかと思ったが、彼女はいつもこんな調子なので指摘はしない。

「嗚呼、書物の匂いに満たされてるぅ」

 扉を開けた桜野は至福の表情だった。

 図書室は背の高い木製の本棚が所狭しと並んでいて圧倒される景観であった。ただ天井が高いので、見上げると案外余裕があるのは奇妙に映る。それよりも奇天烈きてれつなのは、本棚の並び方が乱雑とは云わないまでも不規則で、通路がまるで迷路のように入り組んでいる点だ。無駄を排した簡素なデザインで統一された白生塔なのに不自然だなと思い、桜野にそう云ってみたが、

「獅子谷さんにとって図書室は特別なんだと思うよ。本棚が木製なのもそれが所以ゆえんだね。私はこのランダムな並びに共感できるなぁ」

 本の虫にとってはこれが良いらしい。僕は小説家だけれど、読書量においては桜野に到底及ばないし、一般的な読書家の方達にも幾分か後れを取るくらいだ。そもそも推理小説を読み始めたのは、桜野からの影響だった。小学校低学年のころ、エラリィ・クイーンの国名シリーズを読み漁る桜野の横で、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズに懸命に挑んでいた自分を思い出す。

「本は整理されないで置かれてる方が好きだなぁ。本との出逢いが運命的に感じられるもん。その段階から一種の宝探しみたいな趣なんだね」

 桜野は本の背を目で追いながら、実に生き生きと喋る。見ているこちらが幸せな気分になる。桜野は今まさにこの図書室を読み解いているのだ。その楽しみの片鱗くらいは僕も理解できる。

 僕も本棚に視線を這わせてみた。ミステリに限らず、SF、純文学、戯曲から専門書まで何でもある。獅子谷氏が濫読家であるのは僕も知るところだ。彼の書く小説には様々な分野からの知識が豊富に詰め込まれていて、この人はなんて教養に富んでいるのだ、と驚かされたものである。類稀たぐいまれなる生産量や生産速度も、博識がゆえなのだろう。

 桜野は頻繁に本を棚から引き出しては、表紙を眺めて恍惚としている。まるで子供みたいだ。成人しているとはとても思えない。しかしその無邪気さこそが、きっと彼女の才能だ。彼女は幼いころは大人びて見えたが、周りが成長していっても彼女自身に変化はなかった。桜野美海子という存在をはじめから確立し、揺るがされなかったのだ。

「桜野、ありがとな」

 自然とそんな言葉が口から出た。

「ん、何が?」

「さっき無花果ちゃんに反論してくれただろ。あれ、結構嬉しかったから」

 桜野が相手だと素直になることが少しも難しくない。それは彼女の物腰柔らかな人間性が、邪気の類を抱かせない力を持っているからだ。……無神経な発言で人の神経を逆撫でする場合もある桜野だけれど、それだって本人に攻撃的な意思はない。

「ああ、そんなの気にしてたの? 当然じゃん。友達でしょ」

 桜野は照れたふうでもなくそう云って、手に取った本をぺらぺら立ち読みし始めた。僕は図書室内を徘徊したり、玩具を与えられた子供みたいに本を読んでいる桜野を眺めたりしながら過ごした。

 しばらくして、図書室に這入ってくる人達がいた。

「やぁ、桜野さんに先生。此処にいたのだね!」

 枷部さんの後ろには杭原さんと樫月さんもいる。

「この向かいに遊戯室なるものがあるのだが、良かったらひとつ、共にビリヤードにでも興じないかと思ってね」

「ダーツもあるわよ」

 桜野は手元の本に視線を落としたまま「私は遠慮するよぉ」と述べた。それなら僕も桜野に合わせようと思ったが、彼女はそれを察してか「塚場くんは行ってくると良いんじゃない? その方が小説のネタにもなるよ」と続けた。

「なら僕はご一緒したいと思いますが、いいですか?」

「もちろんさ、先生! 桜野さんとは次の機会を楽しみにするよ」

 しかしひとつ問題があって、僕はビリヤードなんて昔に一度やった経験があるだけだった。

「僕はビリヤードができないので、見ているだけにしますね」

 盛り上がりに水を差してしまっては申し訳ない。

「おっと、それなら僕が教えてあげるが?」

「いえ、どんな競技でも観戦する側の方が好きなんです」

「ふむ、了解したよ。安心したまえ、先生。退屈はさせないよ。僕は常に観客を楽しませるプレイスタイルさ。ビリヤードでも、謎解きでもね」

「それは楽しみです」

 図書室を出ると杭原さんに「白生塔での出来事も小説にするの? これであたしも全国デビューかしらね」と訊かれた。

「まだ分かりませんね。今回は事件ではないですけれど、獅子谷氏が謎を提供してくれて探偵の皆さんが知恵を戦わせるというのは面白いし、書いてみたいなとは思います」

「そうなったらあたしも読んでみたいから止めないけど、あたしが闇探偵だってことには配慮して頂戴ね」

「あ、それはもちろんです。関係者の名前、場合によっては性格まで変えることもありますよ。だから小説なのであって」

 僕が小説にする桜野のエピソードは多くが殺人事件だ。それを売り物にするのが不謹慎であるとはわきまえている。遺族の方達に小説化を禁じられたケースだって何度もあった。

「僕のことはそのまま用いて構わないよ。このボナパルトが登場するとなったら多大にセンセーショナルだろうな。お願いするとしたら、桜野さんの敵役だからと云って三下な扱いをされては困るという点だが……しかしそれでは僕が主人公となってしまうな! なにせ獅子谷氏の謎を解くのは僕なのだから!」

 枷部さんの声は白生塔全体に響き渡るんじゃないかと思うほどに大きい。各部屋は防音がしっかりしているようだが、螺旋階段は一階から十階まで繋がっているので、全フロアくらいには響いているだろう。

「それと壮太くん、もうひとつ注意があるわ」

 杭原さんは口を僕の耳元まで近づけてきた。甘い香水の香り。生暖かい吐息がかかり、にわかに緊張してしまう。

「これが事件にならないとは、まだ確定してないわよ。と云うより、あたしの考えではこれから殺人事件が起きる」

「えっ?」

 杭原さんの表情には、余裕な中にも真剣さが混じっていた。

「えらく確信的だね、杭原さん」

 枷部さんが遊戯室の扉を開ける。

「ええ、あたしにはいま起きていることも、これから起きることも、すべてが見えているわ」

「ははは、まるでラプラスの悪魔だ。探偵の領域を超えているよ。もっとも、血の匂いを予感しているのは君だけではないがね」

 探偵同士の会話。軽やかで自然で、ともすれば世間話でも交わしているみたいな調子。だがそこには、僕ら凡人には測り知れない計算が内在しているのかも知れない。僕は小さな戦慄を覚えた。

 遊戯室はそれらしい落ち着いた照明に照らされていた。右手にビリヤードテーブルが二つ、左手には円テーブルが三つ。そのうちのひとつにはチェス盤が乗っている。左の壁にはダーツの的も三枚並んでいる。奥はちょっとしたバーになっていた。棚の中には酒やグラスが収められており、その手前ではカウンターが右から左に弧を描いている。広い空間を贅沢に使っている印象だ。

「ナインボールでいいかい」

「ええ」

「七ラック先取で?」

「構わないわ」

 枷部さんと杭原さんが対戦するらしく、早速準備が始められる。僕と樫月さんはビリヤードテーブルの傍に置かれた少し高めの椅子に腰掛けた。

「謎解きの前にビリヤードで競うとは一興だな。杭原さん、悪いがレディが相手だからと云って、今回ばかりは手を抜くつもりはないよ」

「あら、見縊みくびられたものね。こっちは手を抜かないと勝負にならないんじゃないかと心配なんだけど」

「ははは、お上手だな君は」

 バンキングの結果、枷部さんが先攻となった。長身の枷部さんなので、キューを構えた姿が様になっている。杭原さんもやけに扇情的な格好になって、それはそれで様になっていたが、見ているこちらとしては目の遣り場に困るというのが正直なところだった。

 枷部さんのブレイクショット。小気味良い音を立てながらボールが散らばっていく。ボールが二つポケットした。枷部さんはその後も的確にプレイを進めていき、あっという間に一ポイント取ってしまった。その動きは終始優雅だった。

「腕が鈍っていなくて良かったよ」

 爽やかに笑う枷部さん。杭原さんが静かに玉をセットし、再び枷部さんのブレイクショットだ。七番をポケットしたが、一番と手玉は遠く離れてしまった。

「おやおや、これは難しいな」

 そう云いつつも、枷部さんは迷うことなくプッシュアウトを選択。手玉と一番ボールの間にボールの壁ができた。

「交代だね」

 試すような枷部さんの視線だったが、杭原さんに気に留める様子はなく、ジャンプショットで以て一番ボールを狙う。手玉は綺麗に壁を越え、一番ボールを正確にポケットに沈めた後、絶妙な位置に止まった。

 杭原さんは枷部さんをちらと見遣って微笑み、枷部さんも笑って肩をすくめる。こうなれば彼女のゲームである。

 杭原さんのショットは力強く、強烈だった。それでいて杭原さん自身は色気全開なので、僕はドキドキしてしまう。彼女は順調にプレイを進め、九番ボールをポケットするに至った。

 素人目なので滅多なことは云えないが、二人共かなり達者だ。次のラックが組まれると、杭原さんはまた、思わず歓声をあげてしまいそうになる鋭いショットを炸裂させた。

「誠一さん、貴方勘違いしてるわ」

「と云うと?」

 杭原さんは九番ボールに狙いを定めた。すると今度は優しく手玉を突いた。手玉は九番を正確に捉え、九番はそのままゆっくりとポケットに向かっていく。

「謎解きでは、既にあたしが勝利してるの。だってあたし、獅子谷氏が密室からどうやって消えたか、もう分かってるもの」

 杭原さんがウインクするのと、九番ボールがポケットするのが重なった。

「ほう。お聞かせ願えるかな」

「貴方がビリヤードで勝ったら教えてあげる」

 悪戯いたずらっぽく微笑まれて、枷部さんは快活に笑いながら次のラックを準備し始めた。

 僕はどうしても気になったことを質問してみた。

「義治くんもそうでしたが、なぜ答えの発表を焦らすんですか? これが獅子谷氏からの挑戦で、探偵同士を競わせているなら、すぐに云うのが普通だと思うんですけど……」

 杭原さんのブレイクショット。

「手の内を見せるべきではないからよ。だってこれは始まりに過ぎなくて、まだまだ続くんだもの」

 続くドローショットはポケットならず。二番ボールはクッションぎわにぴたりと残った。

「あら残念」

 今度は枷部さんがキューを構え、バンクショットを決めた。

「先生、考えてみることだよ。獅子谷氏は密室から消失し、いまも姿を隠している。〈密室からの消失〉という謎の提示は終わっているにも拘わらずだ。ならば、獅子谷氏から出される謎というのは、まだ続くと結論されるのだ」

「なるほど。だから消失の謎を解いても、それはリードとして保っておくべきで、無闇に公表すべきじゃないんですね」

 では〈密室からの消失〉を解いた人は義治くんと杭原さんの他にもいるのかも知れない。僕は隣に座っている樫月さんを見た。彼女は杭原さんの弟子と聞いたが、それは探偵見習いのようなものだろうか。だったら彼女も既に答えが分かっているのでは……。

「そうね、ちょうどいいわ。琴乃、修行よ。このゲームが終わるまでに解明して見せなさい。現場に行って来たって構わないわよ」

 樫月さんはこくりと頷いて席を立った。

「壮太くん、せっかくだから琴乃と一緒に行ってあげて頂戴。二人なら平気だから」

 意味はよく分からなかったが、樫月さんがどんな現場検証――という表現で合っているだろうか――を行うかには興味があった。

「はい、そうさせてもらいますね」

 僕も樫月さんについて、遊戯室を出て行く。その際、杭原さんが樫月さんに「あと琴乃、喋っていいわよ。ほどほどにね」と告げた。

 喋っていい?

 えらく無口な樫月さんだけれど、それは発言を禁じられているためだったのだろうか。

 しかし樫月さんは特に口を開く素振そぶりは見せず、エレベーターに乗り込んだ。狭い箱の中で、二人きりになる。相手が何も喋らないから何だか気まずい。かと云ってこちらから話し掛けて無視でもされたら、余計に立つ瀬がなくなってしまう。

 十階に到着した。樫月さんは迷わず獅子谷氏の部屋に這入って行く。錠は開けたままにしてあった。

 当たり前だが、部屋は先ほど来たときと変わらないままだ。僕ら以外に誰かが現場検証と洒落込しゃれこんでもいない。机の上には無惨に破壊された機械類の残骸がある。

 異変が起きたのは、扉が閉まった直後だった。

「うわああああああああああああああああああああ!」

 突然、樫月さんが叫んだのだ。僕は驚きのあまり転んでしまった。何だ。何があったのだ。僕は呆気に取られて、樫月さんを見上げている。彼女は僕を見下ろすと、またもいきなり覆い被さってきた。まるで僕が押し倒されたかのようなかたちとなり、顔が間近まで迫る。

「死ぬかと思った!」

 樫月さんは目を丸くして、驚天動地といった表情だ。驚いているのはこちらなのだが。

「あー、あー、あー。ちゃんと声出るな、うんうん。いやー、ずっと心臓ばくばく暴れてたわ。だってうち、何時間黙りっぱなしだったの? 一生声出なくなっちゃうところだったわ。あー、でもこれで一安心。あんたのおかげってのもあるからお礼云っとく」

「えーっと……」

 僕はすっかり混乱してしまって、何と答えたものか分からないでいる。樫月さんは「あー、ごめんごめん」と僕の上から身体を退けた。とりあえず僕も上半身を起こす。

「……ずっと喋りたかったんですね」

 分かったのはそれくらいだった。

「そうそう。うちってとってもお喋りさんなんだ。あのアスパラガス何とかって人にも負けないくらい」

 枷部・ボナパルト・誠一だろうか。

「でも失言が多いからさー、師匠から口にチャックしとけって云われてんの。師匠って怖いんだ。本当にうちの口にチャック縫い付けようとしたんだぞ、結構前の話だけどさ」

 樫月さんは恐ろしいことをさらりと云いながら立ち上がり、室内を改めて見渡した。

「さて、急がないと。それにしても〈密室からの消失〉とは、ド定番がきたもんよね」

「何か案はあるんですか?」

「あー、敬語はやめていいよ。うち二十歳なんだけど、あんたもそのくらいでしょ?」

「あ、同い年だ」

「ほらね。で、案があるかって? 愚問だぜー同級生」

 樫月さん改め琴乃ちゃんは唇の端を吊り上げ、扉の錠のあたりを指差した。

「ずばり、〈針と糸のトリック〉」

〈針と糸のトリック〉とは、その名のとおり針や糸を巧みに使って外側から部屋の錠をかける方法だ。密室と云っても扉や窓に糸が通るくらいの隙間はあるわけで、これはそこに着眼したトリックである。

 しかし琴乃ちゃんには悪いけれど、僕は拍手したりはできなかった。なぜなら、そのくらいなら僕も早い段階で思い付いていて、かつ間違いであると結論を下していたからだ。

「琴乃ちゃん、枷部さんが隠し穴を推理したとき、それは獅子谷氏がやるはずもないアンフェアなトリックということで否定されたよね。だったら〈針と糸のトリック〉も同様だと思う」

 実は獅子谷氏の小説すべてには目を通していない僕なので断言はできないが、きっとそうだ。密室トリックにおいて〈実は被害者は自殺だった〉――これは密室殺人の場合なので今回は関係ないけれど――と〈秘密の抜け穴〉、それから〈針と糸のトリック〉に代表される〈機械的なトリック〉は、基本的に歓迎されない。

 琴乃ちゃんは落胆してしまうかと思われたが、しかし彼女の自信に満ちた表情は崩れなかった。それどころか人差し指を立てると「ちっちっち」と揺らして見せた。

「甘いな。あんたはまんまと術中に嵌っているぜ」

 その人差し指が僕に向けられる。

「犯人が獅子谷氏じゃなかったら、〈針と糸のトリック〉を持ち出すのは可能となるのさ」

「えっ……」

 予想外の言葉に戸惑ったが……そうか、琴乃ちゃんの言葉は間違ってはいない……のか?

「これが獅子谷氏の仕掛けたトリックなら、〈針と糸のトリック〉は禁じ手だ。でも犯人が別にいて、獅子谷氏は被害者だったら? フェアだのアンフェアだの、生温い文句は云えなくなる。前提条件の変容さ」

「ああ……そうか、その通りだね」

 必死で頭を働かす。

「誰かが獅子谷氏を殺し、その死体を隠した。それから〈針と糸のトリック〉を行使した。うちらはそれを獅子谷氏の出した問題と捉え、正解のない問題を前に立ち往生するって寸法よ」

「殺人事件だって云うのか! 殺人犯がこの塔の中に? それで獅子谷氏を殺すなんて……。動機は? あ、獅子谷氏がモニター越しにした挑戦は何だったんだ?」

「待って待って。ちょっと落ち着きなよ」

「あ、ごめん」

 つい興奮してしまった。琴乃ちゃんの推理が状況を一変させてしまうものだから、次々と疑問が湧いてしまったのだ。

「この条件から密室をつくるには、〈針と糸のトリック〉以外に方法がないでしょ。そこから逆算すれば答えは見えてくる。動機は現時点では分かんないけど、獅子谷氏の挨拶は犯人に脅されてやってたに違いないな」

 ここにきて琴乃ちゃんが随分と頼もしく見えてきた。

「すごいな。弟子って云うけど、もう立派な探偵じゃないか。獅子谷氏が殺されてるなんて大変な事態だけど……でもよくそんな突飛な発想が浮かんだものだね。感心するよ」

「それは師匠がうちにだけ洩らしたんだけどね……あ」

 琴乃ちゃんは一瞬固まり、直後顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。

「今の発言なし! なしなしなしなし!」

「……はい」

 杭原さんが琴乃ちゃんに発言を禁止している理由が、実体験として納得できた。

「とにかく〈針と糸のトリック〉。見てなさい」

 琴乃ちゃんはポケットからワイヤーを取り出した。

「じゃーん。探偵九つ道具のひとつ」

 七つではないあたり、少し欲張りすぎだった。

「おお、実演してくれるんだ?」

「そーゆーこと」

 琴乃ちゃんは背丈よりも長いワイヤーを半分のところで折り、二重にして持った。

 獅子谷氏の部屋の錠は、有り触れたサムターンだ。部屋の内側に簡単な摘まみがあるだけで、それをひねると錠がかかる仕組みである。琴乃ちゃんは摘まみに二重にしたワイヤーを巻き付けて結び、続いてワイヤーを扉の下のわずかな隙間に通すと、外に出た。僕もそれについていく。琴乃ちゃんは扉を閉め、

「そして密室が完成する」

 そう云いながらワイヤーを引っ張った。

「これで施錠されたわけよ。あとは二重にしたワイヤーの片方だけを引っ張れば、するすると回収できる……って、あれ?」

「どうしたの」

 琴乃ちゃんは手繰たぐり寄せたワイヤーを僕に見せた。それはどう見ても長さが足りなかった。ちょうど扉の下からはみ出ていたぶんしかない。

「まさか……」

 琴乃ちゃんが扉を開けた。錠はかかっていなかった。

「切れてる! え、え、え?」

「あ! これ見てよ。扉のふちがわずかだけど鋭利に突き出てる」

 扉の厚み、その両端がいわばナイフになっているのだ。それは上、横、下、すべてに渡っていた。ワイヤーを使って外から施錠しようとしても、その前に切断されてしまうのである。

「嘘でしょ……」

 琴乃ちゃんの声は震えていた。僕も空恐ろしい気分になっていた。

 こんな構造、わざとそうなっているとしか思えない。獅子谷氏が白生塔を建てるときに、既にこの仕込みをしておいたということになる。

 これは、〈針と糸のトリック〉を拒絶する扉なのだ。

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