5「密室からの消失」
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その後すぐに、出雲さんと能登さんが既に出来上がっていたらしい夕食をテーブルに並べ始めた。豪勢なイタリアンだが、立体駐車場のような周囲の景観にひどく似合わない。厨房はサロンに面した一階の部屋のうち、玄関から見て左側のそれで、右は倉庫とのことだった。
枷部さんが能登さんに「お手洗いはどちらかな」と訊ねると彼女は「各客室にございます」と答えた。一階にはなく、いちいち自分の部屋まで戻る必要があるようだ。枷部さんは「ちょうどいい。ついでに荷物も置いて来よう。僕の部屋というのはどこに?」と訊ね、六階だという返事を聞くとエレベーターに乗り込んで行った。
「テレビで見たとおり、相当ユニークね」
杭原さんは枷部さんを気に入ったらしい。桜野も同意を示した。
「あれはただの狂言回しですね。無闇に装飾ばかりつけるのは三流のやり方です。探偵を名乗るのは間違いです」
冷徹な評価を下したのは無花果ちゃんだ。
「無花果ちゃんは彼と以前にも会ったようね」
「ある事件で、複数いた被害者の別々の人間が私と彼を呼んだのです」
「解決したのはどちらだったのかしら」
「云うまでもないでしょう。狂言回しでは相手になりません」
「大したものね。まだ小さいのに、将来有望だわ」
「私の年齢を外見から推測しているようですが、愚かですね」
「まさか彼とそう変わらないと云うの? 冗談でしょう」
無花果ちゃんは下手をすればランドセルを背負っていてもおかしくない見た目だ。
「無花果は不老長寿の果物です」
一貫して落ち着いた口調で、冗談を云っているようには聞こえない。
その時、
「あのっ、能登さん、ちょっといいですか」
夕食の支度を大方終えた能登さんに、エレベーターから出てきた出雲さんが慌てた声で呼び掛けた。彼女は先ほど料理の乗った盆を持ってエレベーターに這入って行ったから、おそらく獅子谷氏に夕食を運んで来たのだろう。
「落ち着きなさい。みっともないですよ」
能登さんは僕らの手前、咳払いをして出雲さんを窘める。
「どうしたのですか」
「変なんです……。獅子谷様がお部屋にいるはずなのに、反応がなくて。獅子谷様のお部屋の鍵は能登さんが持っていますよね?」
皆の視線が出雲さんに集中している。
「どういうことか説明して頂戴よ。それ、とても大事なことかも知れないわ」
杭原さんに云われて、出雲さんと能登さんは顔を見合わせた後に、能登さんの方が説明を始めた。
「獅子谷様のお部屋は最上階にあり、この塔内で唯一、錠がかかるのです。鍵は私が朝に獅子谷様からお預かりしました。出雲が今、獅子谷様にご夕食をお出ししに行ったのですが……出雲、きちんと説明しなさい」
「あっ、はい。お部屋のインターホンを鳴らしたのですが、反応がないのです。でも扉は錠がかかっていて……つまり中に獅子谷様はいるということですよね。先ほど皆様に挨拶をしたばかりだし、この時間に夕食を運ぶよう云ってらしたのは獅子谷様ご本人なので、おかしいな、と……」
「それでそのご夕食はどうしたのですか」
「お部屋の前に置いて来ました」
「分かりました。鍵は持っています。行きましょう。……皆様、申し訳ございません、しばしお待ちを」
能登さんと出雲さんは頭を下げ、エレベーターに乗り込んで行く。
「待って」
桜野が声を発した。
「私も行くよ。きっとそれが獅子谷さんの目論見だもん」
「どういうことだ、桜野」
「獅子谷さんは私達にいわば挑戦をしたでしょ。謎というのが何を指すのかはすぐに瞭然となる、とも云ってたよね。いま起きてることがそれに当たるんだよ」
なるほど。まさかこんなに早く事態が動くとは思わなかったから、つい呑気に構えてしまっていた。
「あたしも行くわ」
杭原さんが立ち上がり、それに続いて全員立ち上がった。
エレベーターは一度に五人が限度だったので、二回に分けて上がることになった。先に桜野、僕、杭原さん、樫月さん、出雲さんが上がった。
最上階である十階も造りは桜野と僕が与えられた五階とあまり変わらなかった。エレベーターを出ると円形のフロアがあり、壁に三つの扉がある。ただ扉の間隔は均等ではなかった。出雲さん曰く、正面にある獅子谷氏の部屋が半分を占めていて、残りのうち三分の二が浴場、三分の一が仕事部屋らしい。エレベーターの正面にある扉の前には、料理の乗った盆が置いてあった。
「食べ物を床に置くってどうなのよ」
杭原さんに指摘されると、出雲さんは「わっ、そうですよね。何だかとても怖くなってしまって、気が回らなかったんです……」と釈明した。
扉には確かに鍵穴があった。試しに開けようとしたが、出雲さんの云うとおり施錠されている。扉の横にはインターホンがあり、桜野がそれを鳴らしたが反応はなし。
「能登さん待ちだねぇ」
「そういえば義治くんもちゃっかり来るつもりみたいだったわね。あんなに面倒臭がってたのに……可愛いところあるじゃないの」
妖しく笑う杭原さんが少し怖い。
ほどなくして残りの皆も十階にやって来た。そういえば枷部さんだけがいないが、呼んで来なくていいのだろうか。
能登さんがポケットから鍵を取り出した。何の変哲もない有り触れた鍵だ。それは鍵穴にぴたりと嵌り、ガチャリと音を立てて開錠を知らせた。
扉が奥に開き、僕らはぞろぞろと中に這入る。客室とは大きさも違ければ、間取りも少し異なっていた。短い通路はなく、まるまる広い空間となっている。浴室は先ほど聞いたとおり別になっているから此処にはなく、部屋の右端にひとつある扉はトイレのものだろう。その横はずっとクローゼットだ。しかしコンクリートが剥き出しなのはやはり同じだった。正面の壁は上の方にいくにつれ、内側に丸まっている。そういえば白生塔の上部は角の取れた石みたいに丸くなっていたのだった。
部屋にはあまり物はなく、寂しい。全体的に整理されているが、しかし中央に置かれた机の上だけは違った。其処に置かれていたらしいパソコン等の電子機器が粉々になっていたからだ。桜野がそれを観察しながら、
「人為的に破壊されてるね。何のデータも復元できないだろうなぁ。ああ、カメラの残骸もある」
「後ろの棚、さっきの映像と重なるわね。獅子谷氏は此処に座って通信してたのよ」
杭原さんが見ているのは机の背後に置かれた棚だ。上に小さな観葉植物が並んでいて、それが先ほど見た映像の中で獅子谷氏の背後にあったのを僕も憶えている。
「アイビー、オリヅルラン、ガジュマル、ポトス……獅子谷氏って見掛けによらず可愛い趣味してるのね」
「ちょっと、どういうことよ。獅子谷ってお爺さんがいるんじゃなかったの?」
訝しげな表情を浮かべる香奈美ちゃんに、杭原さんが当たり前のように「いないわよ。見れば分かるでしょ」と告げた。
そう、部屋に獅子谷敬蔵の姿はなかった。
「〈密室からの消失〉ですか」
無花果ちゃんが無感動に云う。僕にも状況が掴めてきた。この部屋の鍵は朝から能登さんが肌身離さず持ち歩いていた。獅子谷氏はつい先ほどまでこの部屋にいた。部屋は内側から施錠されていたが、僕らが中に這入ると獅子谷氏の姿はなかった。まさに無花果ちゃんの云うとおり、〈密室からの消失〉……不可解な状況だ。
香奈美ちゃんは義治くんからそれを簡単に説明してもらうと「合鍵があるんでしょ。お爺さんは部屋から出て、鍵をかけただけじゃん」と意見した。僕も普段ならそう云うに違いないが、今回は事情が違うらしいことくらいは分かる。
桜野が確認するみたいな調子で能登さんに「その鍵を受け取るとき、獅子谷さんは何か云い添えてなかった?」と訊ねた。
「この鍵はひとつしかないから絶対になくさないように、と念を押されました。他には特に何も」
「うん、合鍵はないみたいだね」
香奈美ちゃんが「そんなの嘘かも知れないじゃん」と抗議する。
「嘘じゃないと思うよ。だってそれはフェアじゃないもん。これは獅子谷さんからの挑戦で、獅子谷さんは本格ミステリの書き手としてこれ以上ない偉大な人なんだよぉ」
桜野の言葉には納得だが、しかしそうなると僕には八方塞がりだ。この状況が如何様に生み出されたのか、まるで分からない。まさか獅子谷さんがこの部屋のどこかに隠れている、なんて間の抜けた答えでもあるまい。しかし香奈美ちゃんはそう考えたようで、トイレやクローゼットを開けたり、ベッドの下を覗き込んだりし始めた。
僕は皆を観察してみた。当惑しているのは僕、香奈美ちゃん、出雲さん、能登さんの四人。義治くんと樫月さんと無花果ちゃんと新倉さんは何を考えているのか分からなくて、桜野と杭原さんは余裕そうな表情だ。
「おや皆さん、此処にいたのだね! 一体どうしたんだい?」
ひときわ大きな声に振り向くと、枷部さんが部屋に這入っていた。
「よく此処が分かったわね」
「この程度で賛辞を受けては困るよ、杭原さん。サロンに戻ってみれば皆さんの姿がない。そういえば六階でエレベーターを呼び出してから扉が開くまでの時間が、行きにサロンから六階まで上がったときにかかった時間に比べて若干短かった。つまりエレベーターは一階から上がってきたのではなく、十階から下がってきたのだ。この塔が十階建てであることは外で排気口の並びを見れば分かる。そしておそらく最上階が獅子谷氏の部屋で、皆さんがサロンにいないのは先ほどの獅子谷氏からの挑戦も併せて考えれば其処で何かがあったからで、だからこそエレベーターは最上階にあったのだと結び付けたのさ!」
僕はてっきり当てずっぽうでやって来たのかと思ったので、そこに理路整然とした論理が与えられて少し感動した。枷部さんは一線で活躍する探偵なのだと、こんな些細なことから思い知らされた。そうだ、此処に集められたのは選ばれし探偵達。彼らには今、この状況がどう映っているのだろう……。
枷部さんは杭原さんから事情の説明を受けると「はっはっはっは」と快活に笑い始めた。
「皆さん、なぜいつまでも立ち尽くしているんだい! それでは案山子と揶揄されてしまうよ! こんなときは〈秘密の抜け穴〉があると相場が決まっているだろう。この部屋のどこかが隣の部屋、あるいは下の部屋と通じているのさ! だから藍条さんがいくら探しても獅子谷氏はいないのだよ。彼はとうに脱出していて、今頃どこかでこの程度の問題に二の足を踏んでいる皆さんを笑っているに違いない。さぁ突っ立ってないで〈秘密の抜け穴〉を探そう。すぐにせっせと働き始めることに関しては警察諸君の方がよっぽど優秀であるよ!」
枷部さんは率先してあちこち探り始めた。杭原さんが「まぁ済ませておかなきゃいけないのは確かね」と溜息混じりに云って加わると、樫月さんも無言で倣う。香奈美ちゃん、出雲さん、能登さんもつられて、見様見真似で仕掛けがないか探っていく。僕もするべきかと動きかけたとき、桜野が傍までやって来た。
「塚場くんまでやる必要はないよ。徒労に終わるもん」
枷部さんの推理に桜野は賛同していないらしい。杭原さんも溜息を洩らしていたあたり、無駄と思っている節がある。動く気配がまるでない義治くんや無花果ちゃんも同じだろうか。
結局、〈秘密の抜け穴〉に相当するものは見つからなかった。優秀な探偵であるところの枷部さんと杭原さんが探して見つからないのだから、本当にないのだろう。はじめ聞いたときに期待した僕は、何だかがっかりした。
「枷部さんは獅子谷さんの小説を読んだことがあるの?」
ひとりだけずっとソファーに座っていた桜野が訊ねた。
「もちろんさ」
「全部?」
「いや、お恥ずかしながら何冊か未読のものもあるがね。なにせ獅子谷氏の著作は数が多いだろう。クオリティからすれば信じられない速筆家であるというのも彼の魅力だとは有名な話だ。ところで、どうしてそんな質問を?」
「獅子谷さんは密室トリックに〈秘密の抜け穴〉を用いることを、殊更に嫌ってるんだよ。だから今回もそんな解答を用意するはずないんだよ」
僕もその言葉を聞いてから、そうだと思い出した。獅子谷氏はもっぱらフェアプレーを意識する本格気質の作家なのだ。伏線もなしに〈秘密の抜け穴〉に類するものを登場させるなど、以ての外としていた。
「これは失念していたよ! 僕としたことが軽率が過ぎたようだ!」
枷部さんはムンクの叫びのような格好を取って、案外素直に間違いを認めた。自ら調べて発見できなかったのだから、固執する気もないのだろう。香奈美ちゃんが「ちょっとー。自信満々だったくせに。なに無駄なことやらせんのよ」と文句を垂れている。
しかし、ならば解答は何なのだろう。出入り口があの扉ひとつしかなく、合鍵もないなら、こんな〈密室からの消失〉は不可能ではないだろうか。
「おいおい、嘘だろお前ら……」
口を開いたのは意外にも、今まで無言だった義治くんだった。
「あんま眠くすんなよ。この程度解けないで大丈夫か? コンビニで買い物とかできんのか?」
「そう云うからには霊堂くん、君は解答に至っているのかい」
「至るも何も、はじめから答えが書かれた問題用紙配られたようなもんじゃねぇか」
香奈美ちゃんが「さっすが義治! 超格好良い!」と歓声をあげながら義治くんに抱き付いた。
「是非聞かせてもらいたいものだ」
「嫌だね。金払うならいいぜ。このくらいなら三十万だな」
枷部さんは珍しく言葉に詰まった。彼にとっては三十万くらい何でもないが、探偵としてプライドが許さないに違いない。
その姿を見て義治くんは嘲笑した。
「無理なら自分で考えな。バブル時代の経験とやらを活かしてさ」
「霊堂くん! 君という奴は――」
二人の探偵の対立が出来上がろうとしているまさに最中だったが、桜野が「ねぇ、お腹空いたよぉ」と云ったことで、場の空気は緩和されたのだった。