「Thousands Of Miles Between Us」(終)
僕は『桜野美海子の最期』を閉じた。
これで、僕の心の中では未だ続いているような気が拭いきれなかったあの事件に、区切りをつけられたはずだ。
今日は桜野の命日でもある。世間の人々が彼女に抱いていたイメージは、最高の探偵から最低の殺人犯へと変わった。桜野にどんな意図があったにせよ、それは当たり前のことだろう。
僕はこの一年間、蓄えてあった金を使って、悠悠自適……ではないけれど、気ままに過ごしていた。だがこのままではいけないと思い直しての区切りである。
『桜野美海子シリーズ』は白生塔の事件の生々しい記録である『桜野美海子の最期』を残して、他はすべて絶版にされてしまった――後の殺人犯を英雄のように書いていたためだ――ので、今後の収入はあまり望めない。そろそろ何か始めないといけない、と若干の危機感に煽られていたのだ。
その時、インターホンが鳴った。
応じると、モニターには誰の姿も映っていなかったが、一言『入れなさい』と云われた。とんだ挨拶もあったものだ、なんて思いつつエントランスのロックを解除してやる。此処はさほど高級でもないマンションであり、僕の部屋は五階の一番端――五〇一号室だ。奇しくも、桜野が白生塔で使っていた部屋と同じである。
玄関の扉を開けてしばらく待っていると、通路をひとりの少女が歩いてきた。
「お久し振りですね、無花果さん」
白生塔で首だけになったのを見て以来の、甘施無花果の姿があった。
「動じないのですね。今日来ることも予期していたのですか」
相変わらずの平淡な口調と無表情だ。
「そういうわけではないですよ。それより、背が伸びましたね」
この一年で背丈が高くなったように思う。つまり成長期ということで、彼女の実年齢はやはり、相応に低いのだ。まぁこんな成人がいるわけない。漆黒のドレスや金色の髪も、こういった庶民的な景色の中では滑稽なくらい浮いている。
「入れなさい」
「あ、はい。ただ、散らかってはいないし、狭くもないと思いますけど、無花果さんの感覚からすればたぶん最悪の環境ですよ。それでも良ければ」
「私はどこかの令嬢なんかではないと前に話したでしょう。それから、私に敬語を使う必要はありません。砕けた言葉で接しなさい。私の方は、これがデフォなので」
「えーっと……分かった」
無花果ちゃんをリビングに通し、彼女はソファーに腰掛け、僕はローテーブルを挟んで向かい合う位置に椅子を移動させて座った。
「見下されている感があります」
「じゃあ替わる?」
「結構。ところで煙草を吸ってもいいですか」
前は吸っていなかったはずだが。
僕は愛煙家ではないけれど、特別嫌煙家でもないので「いいよ」と許可した。彼女は灰皿を持参していた。
一年でいくらか成長したとはいえ、こんなに幼い少女が煙草を吸っているというのは、もう現実じゃなくて何かの絵みたいだな……と思いつつ「生きてたんだね」と話題を振ってみた。
「知っていたのでしょう」
「いや、そんな可能性もあるかな、ってくらいだ」
白生塔の事件で、生き残りは僕だけだった。他の死体はすべて浴場に集められて燃やされ、灰となっていた。桜野は焼身自殺をしたのだ。僕だけが燃やされなかったのはどうしてだろう、と素朴な疑問だったが、いまとなっては事情が分かる。
「死体を集めて燃やしたのは君だったんだね。で、救助の人達が白生塔にやって来て僕を発見するまでのうちに、白生塔から逃げ出したってわけだ。桜野が自殺し、僕が助け出されたあの日は雪も降ってなかったし……それでもよく下山できたと思うけど」
僕らはもともと三日しか滞在しない予定で白生塔に来ていたので、さすがに五日目に心配した人々が来てくれたのである。それはちょうど、桜野が自殺した直後であった。
「桜野が他の人の死体に囲まれて焼身自殺なんて奇妙だし、灰になるまで徹底してってのも奇妙だった。無花果ちゃんが桜野の自殺後に、自分も殺されたことにして逃げ出そうと画策し、死体を集めて火を点けたのなら、あの状況も頷ける」
死体は灰にされていたのだから、そこに自分と体型のよく似た人物の白骨遺体でも混ぜておけば、それが身代わりとなり、事は露見しない。ただでさえ無花果ちゃんは事件の最中に殺されたと思われていたし。もちろん、その白骨遺体は最初から持ち込んでいたのだ。骨ならばバラして上手にトランクに収めることが可能だろう。
「それとも、桜野を殺したのも君なのかい」
これはただの思い付きだ。
無花果ちゃんはわずかに口の端を吊り上げただけで、否定も肯定もしない。
「私が首切りジャックに殺されたのを、貴様は目にしたでしょう。それをどう説明するか、興味があります」
「殺されたのは見てないよ。死体となっているのを見ただけ。いや、死体の振りをしているのを、だね。君の胴体は結局探されなかったから見つかってもいない。あのとき、君の首は箪笥の上に置かれていた――ように見えた。君は箪笥の中をくり抜いて、上に開けた穴から首を出していただけだね。血はあらかじめ用意して持ち込んでいたものだろう。あの時点で首切りジャックによる被害者はあまりにも多くなっていた。もう僕らに君の生首を細かく確認したり、胴体を探したりする気力はなかった。君の首を確かめるには、あの血だまりの中を歩かなきゃいけなかったしね。僕らがそういう心理状態になるのを、君は待っていたんだ。大体、君が首切りジャックに殺されるはずがないからね。枷部さんそっくりな男がいきなり訪ねてきて、招き入れるわけないよ」
無花果ちゃんは煙草を美味しそうに吸いながら、僕の話を聞いている。こうして見ていると、彼女は一年前より少しだけ表情の変化が増えていた。それを見て、僕はまた思い付きを述べてみた。
「動機は、新倉さんを殺し、探偵を辞めることかい」
無花果ちゃんは吹き出した。鼻で笑うのではなく、本当に面白そうに。
「やっぱり良いですね、貴様は。続けなさい」
「君と首切りジャックはグルだった」
無花果ちゃんはニヤニヤしながら、二本目の煙草に火を点ける。
「枷部さんと君が首切りジャックの事件を担当したというとき。枷部さんだけでなく、君も首切りジャックに会っていたんだね。他の誰にも気付かれないうちに、こっそりと。さらには首切りジャックを懐柔してしまった。あるいは意気投合でもしたのかな。君は首切りジャックが枷部さんの弟だと知って、いずれ何かに利用できるなんて、この時点から画策していたのかも知れないね。
で、今回の白生塔の招待状がきた。君と枷部さんは、実は結構懇意にしていたんじゃない? 君の方はそうでもなくても、枷部さんはあの性格だから、頻繁に君に絡んできただろう。僕は本人とは会ったことがないけど、弟さんの演技は概ね正しいと信じるよ。
それで枷部さんは、自分が獅子谷氏から招待を受けたと、君に報告、自慢した。君も呼ばれていた。二人とも有名な探偵だからね、別に偶然と云うほどじゃない。
そこで君は首切りジャックにコンタクトを取り、兄を殺して、兄に扮して、まぎれ込めと命じた。あるいは提案した。首切りジャックが兄をどう思っていたのかは知らないけど、まぁ殺したんだから、嫌いだったんだろう。首切りジャックが愉快な性格なのは分かるから、集められた探偵達を次々と殺せるなんてシチュエーションには一も二もなく飛び付いたんじゃない?
君の目的はどさくさにまぎれて新倉さんを殺すことにあった。君は新倉さんを快く思っていなかったんだよね。孤児院から引き取ってくれた点に関してはどうか知らないけど、探偵として教育されたのは嫌だった。君が話してくれたことだ。君は探偵を辞めたかったんだね。そのために、新倉さんが死ぬ必要があった。
そこで白生塔というクローズドサークルを利用しようと考えた。桜野の行動は予想外だっただろうけど、計画に特に変更は必要なかった。首切りジャックに全員殺させ、死体を燃やし、二人で行方をくらます。これはクローズドサークルでなきゃ成功しない。新倉さんを殺すだけじゃなくて探偵を辞めたい君は、自分自身も死んだことにしたかった。だからこそフェイク用の血のりや身代わりとなる白骨遺体を用意していたんだ。
まぁこんなところかな。途中で首切りジャック扮する枷部さんを偽物と指摘したのも、自分が仲間ではないとアピールするとともに、枷部さんも変装でないとアピールするためだ。枷部・ボナパルト・誠一と首切りジャックが兄弟なんて考え付くのは、桜野みたいな変態でない限り無理だものね。
結果として目論見は大成功。狡猾な君だから、どうせ首切りジャックも始末する予定だったんじゃない? 実際は桜野がやったけどね。とにかく、君は死んだことになり、自分の存在を抹消するに至った。
その服装も、今日が一年振り?」
「これは貴様へのサービスです。この格好でないと、貴様が瞬時に私と悟って驚く、というふうにはならないと思ったのです。ただし、貴様はどのみち驚きはしないと考えていたのが八割ですね」
「それはどうも。どうせ僕なんか君の掌の上だよ」
「何をとぼけているのですか。私はいまでは、貴様を高く買っています。よくもそう平穏と暮らせるものですね、真犯人さん」
「おっと、これはとんでもない汚名を着せられたものだね」
無花果ちゃんは煙草の火を灰皿に擦りつけて消すと、交代とばかりに話し始めた。
「『桜野美海子の最期』を読みました。
貴様は桜野美海子が背中を向けている間に素早く棚から取った血のりを口の中に仕込んだと云いますが、気付かれないわけがないでしょう。ミルクティーには口をつけただけで飲まなかった、というのも嘘です。貴様は床に膝を突いており、桜野美海子からカップの中身は丸見えです。それに、桜野美海子が貴様の絶命を確認するために脈を取らなかったはずもありません。
導き出される答えはひとつ。貴様はずっと前からその展開を予期し、準備を終えていた」
別に完全に予期していたのではない。そんな超人的な力は僕にはない。
ただ、砒素を捨てないでおいてくれ、と云われた時点で桜野がそれを使うつもりなのは分かっていた。桜野が本当に僕を殺そうとするかどうかは五分五分だったけれど、殺すならきっとその毒を使うだろうとも、漠然と思っていた。死なないチャンスを与えるため、だけではない。桜野が僕に砒素を捨てないよう云った以上、あれが使用されて誰かが死ねば、僕には犯人が桜野と分かってしまう。なら砒素が使われるのは、最後の最後。きっと僕が殺されるとしたらそのときなので、やはり毒は僕用だ。伏線がどうこう、なんて話す桜野の姿まで目に浮かんだ。
「貴様は砒素を、桜野美海子が拝借しに来る前に、すべて偽物と替えていたのです。桜野美海子が読書に疲れたなどと云いながら訪ねてくる前ですね。それを疑われないように、コップは洗面所に放置していたのです。
偽物とはおそらく、各部屋にあった珈琲用のクリーミングパウダーでしょう。どちらも白色粉末状結晶。桜野美海子は珈琲が嫌いなので、クリーミングパウダーなんてほとんど目にする機会がありません。また、桜野美海子は推理小説フリークですが、経験的な知識や常識が欠けています。砒素をクリーミングパウダーに差し替えられていても気付きません。まさか自分が飲んで確認できるものでもありませんから。
なので桜野美海子が砒素と思ってクリーミングパウダーを入れたミルクティーを飲んでも、貴様は何ともなかったのです。
では血のりと脈はどうしたのでしょうか。
血のりは十一階にあったものを、以前にあそこに行った際に、拝借していたのでしょう。だから常に懐にあったのです。
脈については、おそらく貴様は悶え苦しむ演技をした後にうつ伏せに倒れたはずです。片方の手を身体の下敷きにし、もう片方の手を投げ出した状態で。
ならば簡単な奇術ですね。脇の下にゴムボールを挟めば、一時的に腕の脈を止めることが可能です。もちろん、このゴムボールも常に隠し持っていたものです。
こうして貴様は桜野美海子の目を欺いた。
桜野美海子はまさか貴様があらかじめすべての用意を終えていたとは考えませんし、自分の犯罪に陶酔していました。それも一因でしょう」
「嫌だなぁ、無花果ちゃん。それじゃあまるで、僕がはじめから桜野が犯人だと知っていたみたいじゃないか」
「そう云っているのです」
軽口は通じなかった。
「貴様ははじめからすべて知っていました。そして、陰ながら桜野美海子をサポートしていたのです。
桜野美海子の犯行は能登の殺害から杭原とどめの殺害まで、すべてが深夜に行われていました。犯行を終えた彼女が部屋に戻った後で、貴様は落ち度がないか毎回チェックしていたはずです。落ち度が見つかった場合には、そのカバーまでしていました。
たとえば、そうですね、おそらく藍条香奈美は、本当にダイイングメッセージを残していたのでしょう。それは桜野美海子が見落としたものであり、貴様こそが藍条香奈美の手を借りて上から血を擦りつけ、消していたのです。桜野美海子は十一階にて自らの犯行の一部始終を話した際、これについて触れませんでした。彼女はあれを、単なる藍条香奈美の奇行と捉えて問題視していなかった。貴様が裏で隠蔽工作を施していたとは、夢にも思わなかった。
そしてもうひとつ、貴様がおこなった重大な事柄があります。
出雲の殺害です」
話を聞きながら、煙草を吸うでもない僕は何をしようと思って、桜野の真似をして指の腹で唇を撫でてみた。その仕草が気持ち悪かったのか、無花果ちゃんが眉を顰めたのですぐやめた。
「あの殺人には不可解な点が多くありました。桜野美海子の解釈も苦しいものでしたね。貴様がシャワーを浴びている最中に、臆病者の出雲が首切りジャックを中に入れてしまい殺され、しかし貴様は危害を加えられず……こんな茶番がありますか?
貴様が出雲を殺したのです。あのとき、出雲は夜に地響きを聞いたと証言しただけと貴様はノートに記述したようですが、出雲は別の証言もしていたのでしょう。
出雲は桜野美海子の犯行現場を見てしまったに違いありません。
出雲は二日目の夜も、貴様の部屋へ行こうとしたのでしょう。あれが貴様に惚れているのは誰が見ても間違いがありませんでした。しかしそのとき、桜野美海子が藍条香奈美を連れて外へ出て行こうとしていた――本当にこのときかは分かりませんが、ともかく藍条香奈美を殺害する一連の流れのどこか、ですね。サロンは三階まで吹き抜けで、出雲が部屋の扉を開けると、玄関が丸見えとなります。
桜野美海子の犯行現場を目撃した出雲は、貴様の部屋へ行くのを断念します。恐怖心もありますし、桜野美海子の同伴者である貴様への疑いも兆したでしょう。
しかし三日目、出雲は貴様が潔白と判断しました。と云うより、信じたのでしょう。それくらい貴様に惚れていました。あんな危機的状況において、支えてくれる存在を望むのは当然です。そうなると、男性が貴様しかいなかった、というのも大きな理由ですね。
出雲は自分が見たものについて、貴様に相談しました。
桜野美海子の犯行を見守る貴様としては、出雲を生かしておくわけにはいかなくなります。その場で首を絞めて殺害したのではないでしょうか。そうすれば、その痕に沿って首を切断し、首切りジャックの犯行に見せかけることが可能となります。切り口は雑だったでしょうが、もうこの頃になると首切り死体を誰も注視しません。
貴様が風呂に入ったのは、作業を終えて、返り血や血の臭いを落とすためですね。切断に何を用いたかは分かりませんが、厨房や倉庫に凶器を取りに行くことは容易だったでしょう。
貴様がおこなったことは、大まかには以上ですね」
僕は否定もしなければ肯定もしなかった。
「無花果ちゃんは早い段階から桜野が犯人だと知っていたんだよね。だから首切りジャックに、彼女を殺させなかった。桜野と僕がなかなか標的にされないのは、いくら機会が少なかったとはいえ、都合が良すぎると思ってたんだよ。でも君も、桜野がやろうとしていることに興味があったんだね」
無花果ちゃんは否定もしなければ肯定もしなかった。
代わりに僕らは笑い合った。
推理小説において暗黙の了解とされている事柄は多々あるけれど、そのひとつは〈探偵は助手より有能〉というものだろう。
一見当たり前の話である。助手の方が有能なら、立場が逆転し、助手は探偵に、探偵は助手になるはずだ。
絶対にそうとは限らないのに。
僕は名探偵・桜野美海子の語り手である。僕は桜野に分かるようなことはすべて分かったし、桜野にできるようなことはすべてできたけれど、自分から主体的に能力を発揮するのも面倒なので、彼女の語り手として生きてきた。語り手である以上、桜野を持ち上げるし、陰ながらサポートする。語り手なので出しゃばってはいけない。桜野本人にすら僕は無能なワトスン役と思わせておくのが正解だ。能ある鷹は爪を隠す、という文句もあるとおり、能力の高さというものは隠しておくのが定石である。
今回の白生塔で。
十一階の存在は僕もはじめから分かっていた。獅子谷氏がそこにいるだろうこともだ。だから一日目の晩に、僕は僕で十一階に行ってみた。獅子谷氏の死体があったのは少し意外だったが、そういえば桜野が妙にソワソワしていたし、なるほどそういうことかと得心した。
それからは、自分が殺されないように注意しつつ、桜野の犯罪を見守るに徹した。ところどころで補助もした。語り手として当然の務めである。
しまいには桜野は僕ら全員を殺したと思って満足して自殺したけれど、語り手たる僕にはそれを止めるつもりもなかった。彼女の行いを最後まで見届けるつもりだった。彼女のことは僕も好きだったので残念だと思ったけれど、いずれはこうなっただろうなと納得する気持ちが強かった。
桜野は僕視点の小説を書いたけれど、僕の語り口を真似したとは云っているものの、単純に彼女から見た僕そのものを書いたに過ぎないだろう。適度に馬鹿で、適度に行動的で、適度に探偵のことを好いていて、適度に探偵を尊敬していて……まぁ都合の良い助手役である。僕もこれまで小説を書くにあたっては推理小説の定型に沿ってそういった書き方をしていたけれど、現実的にはこう探偵にとって理想的な人間はそうはいない。桜野はそれを信じきっていたあたり、本当に小説至上主義だし、常識知らずだし、とことん可愛らしい。あれを読みながら僕は『嗚呼、風呂に入っているときの僕にはこういうふうにドキドキしていて欲しかったのか』『嗚呼、出雲さんとはこんなやり取りはなかったけれど、この描写は嫉妬の裏返しなのかな』等と気恥ずかしくなったものである。
桜野は今回、ずっと追い求めてきた真相というものを掴めたと確信したようだが、残念ながら失敗していた。
自分が犯人で自分が探偵、は結構だけれど、彼女は探偵本位に考えすぎていた。そもそも探偵になるのが難しいように、犯人になるのだって難しいのだ。彼女は犯人としては素人だからボロが多くて、支える僕は苦労したものである。
それに首切りジャックが絡んだが、これは桜野が犯人でない以上、これまで同様、探偵の推理が真実とは限らない。現に裏で無花果ちゃんが糸を引いていたり、僕が出雲さんを殺していたりだ。
どんなに策を弄しても〈探偵の手の内を読む犯人〉からは逃れられない。
僕にしたって、自分が真相を手にしているとは毛ほども思っていない。僕の考えも無花果ちゃんの考えも、あくまで解釈のひとつでしかない。
桜野はくだらない苦悩を抱えてしまったものである。それは彼女の自由だからとやかく云うのはナンセンスだが、推理小説の限界だとか名探偵の限界だとか、答えのない問題に挑むのは僕には賢明とは思えない。真相ではなくとも、いちおうの答えくらいは用意されている問題だけを適当に解いていれば良いのだ。
真相なんて百人いれば百個ある。そういうものだ。
桜野の悩みは論理学ではなく、もはや哲学であった。かの有名な〈水槽の脳〉と同じだ。考えるのも一興だが、思い悩んでも仕方がない。
それに真相を掴むのが永遠に叶わないというのは、限界ではなく可能性ではないだろうか。有限ではなく無限であり、だからこそ人々が心惹かれる……。
しかし桜野は純粋で夢見がちな女の子だったから、こんな言葉では納得しなかっただろう。
ともかく彼女が真相を掴んだと思って死ねたなら、それはそれで良かったのだと、語り手としてささやかに思う。
「ところで、ひとつ蛇足を述べましょうか」
無花果ちゃんは悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。
「何だい」
「いまの推理は、あくまで『桜野美海子の最期』が桜野美海子によって書かれたとしたうえでのものです。私はそうは考えていません」
「と云うと?」
「〈おわりに〉では、あたかもこれが桜野美海子によって直筆されたかのような云い回しがされていますが、執筆にかけられた時間から、用いていたのがパソコンであったとは明らかです」
「うん」
「私は先ほど、貴様を真犯人さんと呼びました」
彼女は見透かすような視線で僕を見詰めている。
「貴様と桜野美海子との間にどのようなやり取りがあったのか、実際のところを知る者は貴様以外に残っていません。当然、本当に桜野美海子が殺人犯であったのかも分かりません。もしも貴様が桜野美海子を殺害したのだとしても、私達には知るよしがありません」
さすがに僕は苦笑した。
「穿ちすぎじゃないかな」
「そうでしょうか。作者であっても真相は掴めない……しかし、作者は真相とされていることを改竄することはできるのです。聞きましたよ、『桜野美海子の最期』はシリーズ最高の売り上げであったと」
僕は答えず、ただ肩をすくめた。云わぬが花……僕はそれを弁えている。無花果ちゃんも別に言質を取ろうという気はなかったらしく、黙って頷くだけだった。
「さて、塚場壮太」
「何だい、無花果ちゃん」
「私の語り手になりませんか?」
そんな誘いが来るのではないかと、薄々勘付いていた。そうでないと、わざわざこんな場所までやって来ないだろう。
「探偵業は嫌だったんじゃないの?」
「それは貴様の推理でしょう」
そうだった。それでも、この一年で探偵業そのものは割と好きだと思い直したというのが蓋然性は高いけれど。
「僕みたいな語り手でいいの?」
「申し分ないでしょう。貴様は、私のような探偵でよろしいですか」
「申し分ないね。僕にできるのは探偵の活躍を語ることだけだから」
無花果ちゃんは優雅な仕草で靴下を脱ぐと、素足をテーブルに乗せた。
「舐められますか」
こういう趣味はないのだが、探偵に振り回されるのも語り手の常だ。僕は無花果ちゃんの足の指を小指から順にしゃぶり、裏側にも甲にも、足首にまで、万遍なく舌を這わせた。
無花果ちゃんが満足した様子なので僕も奇妙な奉仕はやめ、ひとつ問い掛けをしてみた。
「一作目のタイトルは『桜野美海子の逆襲』でいいかな」
無花果ちゃんは不思議そうに首を傾げた。それが素の反応なのか演技なのか、確かめるすべはない。
……僕を残して、死体はすべて焼かれていた。
……もしも桜野が死んでいなかったのなら。
……そのうえで、無花果ちゃんが生存していると気付いたなら。
……それから無花果ちゃんを殺し、逃げたのなら。
……この一年でその容姿を無花果ちゃんに似せたのなら。
……そうして今、僕の前に現れたのなら。
……桜野を出し抜いたと思い上がっている僕を笑いに来たのなら。
謎解きは終わらない……。
『名探偵・桜野美海子の最期』終。
19歳の冬に書いた小説でした。
『甘施無花果の探偵遊戯』に続きます。




