7「桜野美海子の推理4」
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十階の浴場だった。
「一階から九階までは、塔の正面から見て真反対と云えば全部の階が、等しく部屋と部屋の境目になってる。一階は厨房と倉庫、二階と三階は使用人室と使用人室、四階は図書室と遊戯室、五階から九階はそれぞれの〇二号の客室と〇三号の客室だね。でも十階は正面側の半分が獅子谷さんの部屋で、残りの三分の二がこの浴場に使われてる。ゆえに、この階だけが、真反対が何かの部屋と部屋との境目になっていないんだ。加えて、能登さんが転落したのは相当な高所からだったから十階と見て間違いない。客室の中に〈秘密の抜け穴〉なんてつくるわけもない。
なら第二のエレベーターシャフトの入口は、此処にあると考えるのが最も綺麗だよ」
浴場は大きめの正方形のタイルが壁にも床にも張られている。桜野は壁の右端の方――塔の真反対に当たる位置だろう――にあるタイルを強く押した。ガチッという音がした後に、そのタイルだけが扉のように手前に開いた。中には幅も長さも高さも一メートルほどの、立方体の空間があった。這入って右手の壁にひとつ、スイッチがあるのも分かる。
「エレベーターと云っても、かご型じゃない。この床部分だけが高さ二メートルから此処までを上下するんだ」
その空間の床には、大量の血痕があった。すっかり黒く変色し、乾燥している。
「ほら、床に開口部があるでしょ。縄梯子もついてる――使うときは引っ張り出して、重さを掛けなければ勝手に巻き取られる仕組みだね。〈C〉の穴の向きがこちら側に揃った状態なら、この床に乗って高さニメートルまで降下した後、開口部を開いて二メートル分を縄梯子で下りれば高さ〇メートルに到着さ」
それから桜野がスイッチを押すと、床がゆっくりと下降していく。桜野と僕と琴乃ちゃんは穴からその様子を覗き込んだ。下の方は暗くて何も見えない。琴乃ちゃんが懐中電灯で照らしても、光は途中までしか届かなかった。
「落ちないように注意してよぉ。能登さんの二の舞になっちゃうからね。
獅子谷さんは最初の晩に、あらかじめこの床を一番下まで下げておいた。そうしておいて能登さんを呼び出すと、此処から突き落としたんだ。能登さんは転落死。それからまたスイッチを押せば、死体の乗った床が此処まで上がってくる。床が上にあれば下へ、下にあれば上へって仕組みなんだね。当然、下にも同じスイッチが壁に埋め込まれてるんだと思うよ。それからもうひとつ、〈C〉を半回転させるスイッチもね。
獅子谷さんは今度は自分も能登さんの死体と一緒に降下すると、〈C〉を半回転させ、幅・長さ一メートル、高さ二メートルのあの空間を呼び出す。そこに能登さんの死体を放って自分は縄梯子で下りると、ここでもまた壁に埋め込まれてるスイッチを押して〈C〉は再び半回転。その動きに合わせて歩くだけで、玄関までやって来られる。能登さんの死体を玄関近くのサロンの床に置くと、今度は中央のエレベーターで十階に。それから此処に戻って来て、第二のエレベーターを使って下りて〈C〉を半回転させ、第二のエレベーターで戻る。〈C〉が半回転した結果、玄関扉はまるで外から閂を掛けられたかのように開かなくなる。
二日目の夜にはまた同様の手順で〈C〉を半回転させ、玄関扉を開閉可能にしておいてから、藍条ちゃんを殺害。死体があそこに置かれたのは、あの空間の存在を強調したかったからだろうね。それでも謎を解けない私達を見て、獅子谷さんはさぞ愉快だっただろう。
車のタイヤは一日目の夜か二日目の夜に破壊したんだね」
桜野はそこで一旦、話を終えた。第二のエレベーターに関する謎解きは以上であり、一区切りついたためだろう。
だが、肝心な事柄がまだ残っている。
「桜野、獅子谷氏はどこにいるんだ? 塔の外周全部にデッドスペースがある以上、特定は難しそうだけど……」
「ふふ。塚場くん、獅子谷さんが幅一メートルしかない狭い場所に隠れてると思うの? それじゃあ格好が付かないよぉ」
「だ、だけど、そうじゃなかったらどこに隠れ場所なんてあるんだ?」
「〈密室からの消失〉と〈獅子谷さんの隠れ場所〉は関連してると云ったでしょ。〈密室からの消失〉は皆が云ってた録画を使った方法だってあるし、解釈の幅が広い。〈獅子谷さんの隠れ場所〉についても取り留めがないように思える。でも〈能登さんの転落死体〉と〈玄関扉の閂〉の関係同様、〈密室からの消失〉と〈獅子谷さんの隠れ場所〉も互いが伏線になってるのさぁ」
桜野は天井を指差した。
「この塔には、十一階がある」
僕と琴乃ちゃんはついに笑い声が出てくる始末だった。衝撃が飽和すると、人はもう笑うしかなくなるらしい。
「この塔に窓がないのは、その十一階を隠すためでもあるんだよ。外周のデッドスペース同様、最上部もまたデッドスペースなんだと気付かせないためでも、ね。
外から見える排気口の位置も、それを気付かせないために調整されてるんだ。
十階の天井の端は丸みを帯びてるけど、これもフェイクのひとつだよ。此処が最上部であると思わせるために、白生塔の屋上は縁が丸まってるんだね。
獅子谷さんは最初から、その十一階にいた。だから十階の獅子谷さんの部屋には最初からいなかった。〈密室からの消失〉について皆は獅子谷さんがはじめからそこにいなかったとまでは思い至ったけど、もう一頑張り必要だったね。
モニター越しの挨拶は録画なんかじゃない。十一階の自分の部屋から通信してたんだよ。少なくともカメラに収まる範囲は、完全に十階の部屋を模してるんだ。
だけど完全じゃなかった。無論、伏線としてあえてそうしたんだろうけど、葉の数が違っていた。
うん、獅子谷さんの背後には観葉植物が映ってたでしょ。私はそういった知識にはうといから種類なんかは分からないんだけど、十階の部屋にあるそれとは葉の数が違うってすぐに気付いたよ。
だからあの挨拶は、別の部屋から通信してたと分かった。
そんな部屋は、十階の上に造るしかない。
杭原さんと樫月ちゃんは地下の存在を疑ったみたいだけど、伏線が乏しいね。窓がないというこの白生塔最大の特徴を伏線として存分に活用するなら、隠し部屋は堂々と最上部に鎮座してるべきなのさ」
桜野が今回の事件で矢鱈と〈伏線〉という言葉を強調していたのは、犯人である獅子谷氏がそれを意識した犯行をしていたからだったのか……。
ならば、一体桜野は、いつからそれに気付いていたのだろう。首切りジャックなんていうイレギュラーの登場によって混乱させられ、さっきまでは完全な解答に到達していなかったのだろうが、しかしほとんどは、最初から分かっていたのでは……?
こんなに近くにいる桜野の存在を途轍もなく遠く感じ、胸がチクリと痛んだ。
「じゃあ獅子谷さんに会いに行こうか。十一階に通じる扉は、一ヵ所、心当たりがあるよ」
桜野はまた歩き始める。僕の隣で、額に手をあてている琴乃ちゃんが「嗚呼、胸焼けがするよ」と呟いた。同意見だった。