7「伝播する殺意」
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杭原さんがひとりでじっくり考えたいと云って自室へ戻ると、琴乃ちゃんもいなくなり、自然、僕らは各自部屋に帰ることになった。杭原さんは無花果ちゃんを犯人と考えており、そこに獅子谷氏や生前の能登さんが加わったり加わらなかったりと推理を確立できずにいるらしいが、それでも、それ以上に腑に落ちない何かを抱えている様子だった。
それは僕にも一端くらいは分かる。もっと強大な、思いもよらない思惑がこの事件の背後にはあると思えて仕方がないのだ。この白生塔の只ならぬ空気がそれを喚起させている、というのも一因に違いないけれど、さらに別の企みが潜んでいる感覚というのが拭えない。
きっと誰もが感じている。これまでいくつもの推理が提示されて食傷気味でさえあった僕らだが、ここに来て手詰まりとなってしまったのだ。
そんなことを考えながら、ベッドに寝転がり無為な時間を過ごしていると、ガタガタと扉がソファーにつっかえる音がした。見れば、桜野が這入ってこようとしている。すぐに中に入れてやる。
「元気にやってる?」
「やってないよ」
突き抜けて能天気な桜野。彼女が焦りを露わにした姿を僕は一度も見たことがない。
「ずっと紙面を見ていたから目が疲れちゃってね。休憩がてら寂しそうな塚場くんの相手でもしてあげようと思ったんだよ」
そう云う桜野の手には、今も文庫本が一冊握られているのだが。
「小説から養分摂取してるお前でも疲れるんだな」
「塚場くん、一体どんな目で私を見てるの」
桜野は遠慮なくベッドにダイブして、持参した文庫本を開いた。休憩だとか僕の相手をするだとかは何だったのだろうか。
「珈琲、桜野は飲まないよな?」
先ほどまで微睡んでいたこともあって僕は珈琲を淹れる。いちおう客人の桜野にも訊ねたが、返答は分かりきっていた。
「飲むわけないでしょお」
桜野は苦いものが滅法駄目で、これまで一度だけ珈琲に挑戦した場には僕も居合わせたのだが、一口目でギブアップしていた。
「ミルクティーは?」
「いただく」
これは桜野の好物である。
僕は出来上がった珈琲とミルクティーを盆に乗せてベッドの上に置くと、自分も桜野の傍らに腰掛けた。
「桜野、お前は実際のところ、事件についてどこまで分かってるんだ?」
「せっかちだなぁ、塚場くんは」
「こんなに被害者が増えればせっかちにもなるさ」
獅子谷氏を除いても、能登さん、義治くん、枷部さん、新倉さん、香奈美ちゃん、と既に五人も殺されている。
「このままじゃ本当に『そして誰もいなくなった』なんて結末になるぞ」
「『そして誰もいなくなった』かぁ。私は好きじゃないんだよね」
「そうなのか?」
「着想は素晴らしかったけど尻すぼみだよ。ネヴィンズ・ジュニアの評伝によれば、クイーンが同じ状況下における長編を構想してたのに後塵を拝したせいで発表に至らなかったらしい……残念至極だなぁ。ああいった舞台設定はね、精密なロジックあってこそだよ。ああ、クリスティだったら『春にして君を離れ』が白眉かな、ミステリじゃないけどね……ここでミステリの定義を考え始めると長くなるからやめておこうか。ただ個人的には『火曜クラブ』が好きだなぁ。たしか塚場くんはポアロ贔屓だったよね」
「贔屓と云うほどこだわってもないけど。クリスティで読んでいたのは有名なABC、オリエント急行、アクロイドあたりだったから……」
いけない。下手に小説の話を振ると益々本題から逸れてしまう。僕は無理矢理に軌道修正して、
「事件の話に戻すけどさ、もう僕にはお手上げだよ。そもそも何を解けばいいのかさえ曖昧になってきた。ミステリと云うよりサスペンスじゃないか?」
「奇しくも塚場くんが持ち出した『そして誰もいなくなった』同様だねぇ。マザーグースという道具立てこそ欠けてるけど、構造は一緒だから仕方ないか。でも塚場くん、伏線は着々と揃ってきてる感じだよ」
「伏線って、これは小説じゃないんだぞ」
「今回に関しては、そうとも云えない。だって此処は白生塔だ」
意味は分からないが妙に説得力があった。
「塚場くんも読書してみればいいよ。何か見えてくるかも」
桜野は僕に文庫本を渡し、自分はベッドから下りた。
「トイレ借りるね」
「ああ」
僕は文庫本に目を落とす。これもいまでは絶版なのだろう。五人の作家によるリレー小説だった。全員が偉大な作家で、うち三人が既に故人となっている。マニアからしたら喉から手が出るレアものに違いない。
「リレー小説?」
なぜか脳裏に浮かんだ言葉があった――リレー殺人。自分でも理由が分からなくてゾッとするが、その響きに無視できない引力が感じられる。
改めて、殺された順番に並べてみる。能登。霊堂義治。枷部・ボナパルト・誠一。新倉。藍条香奈美。ただ、新倉さんと香奈美ちゃんは発見の順番がこうであるだけで、実際に殺された順番は断定しかねるが。
獅子谷氏の消失。それは能登さんが手引きしていたと云われている。その能登さんは深夜に殺されたから誰が犯人でもおかしくない――義治くんでも。義治くんを殺せた人物のなかには、ひとりでサロンにいたためにアリバイのない枷部さん。枷部さんを殺すのも、新倉さんなら可能。ああやって首を置いたのが、杭原さんの推理どおりに無花果ちゃんなら、無花果ちゃんは新倉さんの協力者……次に殺された新倉さんを、無花果ちゃんなら殺せるというのも杭原さんや琴乃ちゃんの推理。いや、新倉さんを殺すことは香奈美ちゃんでも可能だった……。リレー殺人……このなかで唯一、無花果ちゃんだけが、関与しているにも関わらず規則から外れている? 事件に一貫性が欠けていたのは、犯人が次々と変わっていったからで……では閂は?
……僕は自分の想像が恐ろしくなった。こんなもの推理でも何でもない、ただの妄想だ。そもそもリレー殺人なんて、動機は何だ? 殺した人間が殺される……そんなリレー、受け入れられるはずがない。
だが、白生塔……この白生塔の只ならぬ空気。クローズドサークル。窓のない塔。閉じ込められた人間というのは気が狂ってしまうと聞いたことがある。この白生塔に窓がない理由とはもしかして……。この閉塞感が常軌を逸した心理状態を誘発し、殺意が伝播していくとしたら……。
「あー、塚場くん」
桜野の声にビクッと腰を浮かせてしまった。我に返って「どうした」と反応する。桜野の声はトイレから聞こえていた。
「まだそのままになってるよ、これ」
「あ、そうだった。後でやろうと思ってたんだよ」
桜野のもとに行く。彼女が云った〈これ〉とは砒素を指している。
「不用心だなぁ。鍵がない以上、塚場くんが部屋にいない間は誰でも出入りできるんだからね」
「ごめんごめん」
僕は砒素の入れられたコップを持ち、ベッドの下、奥深くへと隠した。
「安直な隠し場所ぉ」
「でも他になくないか?」
「まぁ隠し場所はどこだろうと結果に変わりはないからね」
桜野に見えているらしい結果がどんなものなのかは、訊ねてもはぐらかされるだけだろう。
「お腹減ったなぁ。ご飯まだかなぁ」
壁に掛かった時計を見ると、もう二十時を回ろうとしている。
「あ! 桜野、もしかしたら出雲さんは部屋から出られなくて、料理がつくれないのかも」
二階でひとりの出雲さんだ。不安と恐怖で、今朝のように部屋で途方に暮れているとは大いに考えられる。白生塔には内線電話も何もない。
桜野は「それだ」と同意した。
「僕らで行ってあげないと」
……このとき、嫌でも浮かんでしまうのは、既に出雲さんが殺されているのでは、という懸念だった。




