5、6「虚構と現実の混同」
5
九〇二号室の扉をノックの後に開くと、すぐに中に置かれているのだろうソファーか何かにつっかえた。隙間に口を近づけて「無花果さん、食べ物を持って来ました」と告げる。わざとやってるんじゃないかと勘繰ってしまうくらいの間が空いてから、ソファーか何かの引きずられる音がして、扉が完全に開くようになった。
やはりソファーだった。それを挟んだ向こう側に無花果ちゃんの姿がある。
「ご苦労ですね。中に這入ってきなさい」
「ソファーを踏んでいいんですか」
「バリケード用なので問題ありません」
僕は料理の乗った盆を、無花果ちゃんに指示されるままテーブルに置いた。ミートソースを絡ませたパスタとサラダである。
「それをいま私の前で一口ずつ食べなさい」
ソファーに座った無花果ちゃんは当たり前のように告げた。
「毒見です」
どうして僕が……とはもちろん思ったけれど、無花果ちゃん相手に反抗することの無意味さは分かっている。僕は大人しくフォークを持って――
「違います。フォークも手も使わず、犬のように食べなさい」
「……僕はいいですけど、無花果さんは本当にそれでいいんですか? 何と云うか、汚くないですか?」
「構いません」
「……はい」
僕はパスタとサラダを、鼻がつかないように注意したりしつつ、なるたけ綺麗に犬食いした。出雲さんがつくったもので、毒なんか入っているはずもなく、普通に美味しい。
「顔をこちらに向けなさい」
半ば諦めた気持ちで、機械的に従う。無花果ちゃんは僕に異状がないことを認めると、また別の指示を発した。
「紅茶を淹れなさい」
まるで召使いだ。いや、下僕と云った方が正しい。
僕は冷蔵庫から水を取り、備え付けの電気ポットに注いで湯を沸かす。こういった用意は各部屋に揃っている。
「新倉さんが、その……いなくなって、寂しいんじゃないですか?」
生前はこういう仕事もすべて彼がやっていたのだろうと思っての問い掛けだ。
「いいえ。貴様のくだらない常識で私を測ろうとしないでください。新倉が殺されて、私は清々しています」
「あんなに尽くしてくれていたのに……」
「そんなことが云えるほど、彼が私に尽くす場面を貴様は目撃しましたか?」
そう云われると、そうでもないかも知れない。
「脳が九割は死滅しているのですね。同じ種族とはとても思えませんね」
新倉さんの死による悲しみを苛立ちに転化して僕にぶつけているように見えなくも……やっぱり見えない。
「新倉が私に尽くしていたのではありません。屈辱的ですが、私が新倉に尽くしていたと云うのが適当です」
「そうは見えませんでしたが」
「ほら、軽はずみに、考えもなしに、表層で判断する。私を探偵にしたのは新倉なのです。孤児院にいた私の才能を彼は高く買い、探偵に仕立て上げたのです」
意外な過去だった。孤児院……。無花果ちゃんの上品な振る舞い――言動は除く――から、育ちの良いお嬢様とばかり思っていた。それこそ彼女の云う〈表層で判断する〉ということか。ならば彼女がそういったものを憎悪する理由も窺い知れる。
「ごめん、僕の配慮が足りませんでした」
「そうした同情や奇異の目も、等しく傲慢の一言です」
無花果ちゃんも人間なのだ。その背景には様々な事情があるし、葛藤や苦悩もある。少し話を聞いただけの僕なんかは沈黙すべきなのだろう。
出来上がった紅茶を料理の脇に据えた僕は踵を返して立ち去ろうとした。だが背中にまたしても抑揚のない声が掛かる。
「この紅茶も一口飲みなさい」
6
サロンに戻った僕は少し冷めてしまったパスタを食した。無花果ちゃんの相手をしているうちに、他の皆は既に食事を終えていた。
桜野と杭原さんは獅子谷氏の仕事部屋で見つかった原稿を読んでいた。前に読んだのとは別のものをそれぞれ読んでいるのだろう。杭原さんは真面目な顔つきだが、桜野はただ読書を楽しんでいるだけだった。
しかし場は決して静かではなく、むしろ五月蠅かった。
「うちらが必死でやった捜索も水泡に帰したわけよね。だって玄関扉が開くようになってた以上、それが獅子谷氏にしろ首切りジャックにしろ他の誰かにしろ、塔内にはいなくて外に出てたって考えられちゃうんだからさ。でも車は二台とも戦力外通告だし、まだ近くに潜んでる、事件は続いてるってのは間違いないのよ。でも外はあの吹雪でしょ。車の中は空っぽだし、犯人はどこに潜んでるんだか」
ここに至って琴乃ちゃんが発言を解禁されたのだ。これからも多分に饒舌を披露するだろう。沈んでいた気分が多少は盛り上がる効果もあるけれど、あんまり続くと余計に疲労感を煽るのでマイナスでもある。幸い、そこまでは許していない杭原さんは途中「もう少し慎みなさい」と窘めた、いや、声の調子からすれば脅したと云うのが正しい。
「私達、どうなってしまうんでしょうか……」
出雲さんの悲壮を湛えた表情には、見ているこちらも心苦しくなる。僕には「きっと大丈夫です。こうして固まっていれば襲われる心配もありませんから」とその場しのぎな励まししかできなかった。
すべてのタイヤに穴が開けられていたせいで、車を使うのは無理だ。予備のタイヤは塔内の倉庫に二個あったけれど、どう頑張っても足りない。だが歩いて下山するとなると、それもとても無理だった。無情にも雪はどんどん強くなる始末で、あの寒さのなか不自由な足元を歩き続けるのは根性でどうにかなる段階を超えてしまっている。ただでさえ出雲さんは女性なのだ。僕が携帯電話の電波が繋がる地点まで下りて行って助けを呼ぶという方法も考えられたが、情けないことにそこまで辿り着ける自信はなかった。桜野にも無謀の一言で片付けられてしまった。
閂はなくなって玄関扉は開け放たれたが、クローズドサークルは小揺るぎもしなかったのである。
いま、せめてもの抵抗として、外に面した方の玄関扉は内側から施錠している。これで外からは誰も這入れない。杭原さんはこれにも抗議したが、僕と出雲さんとでなんとか押し通した。
香奈美ちゃんの死体は、まさか吹雪にさらしておくわけにもいかないので、僕と出雲さんとで能登さんの部屋に運んだ。
「さらに新たな問題として、藍条香奈美の死の状況があるわね」
杭原さんの脅しが効いて幾分声量の小さくなった琴乃ちゃんが云った。
「藍条香奈美はあそこまで呼び出されて殺された。入口の閂がなくなってる時点でだいぶおかしいのに、あそこまで犯人について行った。つまり相当に信用してる人物が犯人なのかも」
「なるほど。でも凶器で脅されて連れて行かれたとも考えられるよね」
「果たしてそうかな、同級生。うちが観察した限り、藍条香奈美はそんなタマじゃないぜ」
琴乃ちゃんの観察がどこまで信じられたものか分からないが。
「ん、待って。そう思わせるのが犯人の作戦か?」
琴乃ちゃんが少し探偵らしい顔を見せた。「どういうこと?」と訊いてみる。そう訊いて欲しそうな視線を寄越してきたからだ。
「藍条香奈美は八〇二号室で殺されて、あそこまで運ばれたのかも。それを隠すために、犯人はあの場に藍条香奈美がもがいたような痕跡を偽装したって寸法よ」
「あ、それはありそうだね」
琴乃ちゃんは腕を組み、得意そうに笑った。
「どうですか、師匠。うちの名推理」
「駄目だわ……」
「えっ」
「師匠は本当に殺されてしまったのね……」
杭原さんは原稿をテーブルの上に投げ出した。可哀想にも、琴乃ちゃんの推理は聞かれてもいなかったようだ。
「その小説に、師匠の師匠が?」
「ええ、名前は変えられてるけど、間違いないわ。最後の最後で何者かに射殺された」
たぶんそれは僕が先ほど読んだ原稿だ。終盤になって何の前触れもなしに射殺が登場し、面食らったものである。だが実話が基になっているなら、今回の犯人も同じく銃を所持しているのだろうか。遠距離から狙われるという恐ろしい可能性に、僕は思わず周囲を見回してしまった。
「師匠は真相を突き止められなかったのね……」
「師匠……」
杭原さんも琴乃ちゃんも師匠師匠と云うので紛らわしい、なんて的の外れた考えが浮かぶ。僕も疲れている。
「杭原さん、あんまり気にしても仕方ないよ。それはあくまで小説で、実際とは全然違うとも充分に考えられるんだからね。そもそも白生塔に過去に探偵が集められた、という時点から怪しいかも分からないよ」
桜野はお決まりの、前提条件から有耶無耶にする発言をした。
「それは間違いないわよ」
「蓋然性は高いのかもね。でも私が確かと云えるのは、これが獅子谷さんが書いたものだってことくらいだよ。模倣でこの再現度はちょっと有り得ない。いくら貴女の師匠が優秀でも、無理だろうねぇ」
「……美海子ちゃん、あたしの師匠を疑ってるの?」
これはまた、考えもしなかった新説が浮上した。
「だって杭原さんは、その人が生きてたら嬉しいでしょ? なら考えなかったの? その人が犯人で、いまもこの塔に潜んでるってケースを」
「師匠が殺人犯になるなんて絶対にないわ」
「うーん、そっか。誰かが潜んでるとしたら、いまのところ伏線が出てるのは獅子谷氏、首切りジャック、それから杭原さんのお師匠さんくらいなんだけどなぁ」
フィクションと現実を混同したような物云いだが、桜野は大真面目らしかった。




