1、2「新しい朝と犠牲者」
1
死体が発見された順に並べてみると、能登さん、義治くん、枷部さん――そして四人目は、新倉さんだった。
新倉さんが使っていた九〇一号室、そのテーブルの上に彼の首は置かれていた。初老でもとから皺が刻まれていた顔は、血の気を失ったせいで萎み、これまでで最も不気味な体裁だった。
通路には夥しい量の血痕があり、首の切断は此処で行われたのだと分かった。通路の半ばにソファーがあったことから、バリケードが築かれていたことも窺える。
胴体は、少なくともすぐ目につく場所にはない。
自分に良く仕えていた執事の死に無花果ちゃんは、
「はっ。とんだ間抜けですね」
信じられない言葉を放った。人形のような相貌には、どんな感情も宿っていない。
「無花果さん、それはあんまりじゃないですか」
「どこがですか。あんな情けない姿をさらして、主人の面汚しもここに極まれりでしょう」
何を云っても無花果ちゃんには暖簾に腕押しだと、僕は諦めた。
今は午前九時二十分を回ったところだ。九時に部屋に来て自分に化粧等を施すよう指示していたのにやって来ない新倉さんに腹を立てた無花果ちゃんが自ら出向いたところ、この惨状だったらしい。それから彼女は出雲さんの部屋に行って彼女に状況を伝え、僕らにも伝達するよう云った。
ちなみにそのときの出雲さんは、ひとりで部屋を出ることを恐れて、まだ部屋にこもっていたらしい。こんな状況なので、それは全然責められたことではないと僕は思う。
「無駄よ、壮太くん。なにせその子が犯人なんだから」
杭原さんが眼鏡のレンズ越しに射抜くような視線を無花果ちゃんに向ける。その隣では寝起きなのかまだ髪をお団子状にまとめていないどころか寝癖だらけの琴乃ちゃんが、勝ち誇ったような表情を浮かべていた。寝起きと云えば、桜野は寝ぼけ眼をこすりながら僕に凭れ掛かっている。
「まだ云いますか、貴様は」
「あら、こんな殺し方して、てっきり自白してるのかと思ったけど。まだ認めないのね、貴女は」
琴乃ちゃんが杭原さんの肩をぽんぽん叩いた。杭原さんが云わんとすることが自分にも分かるぞ、という意思表示らしい。杭原さんに発言を許可された彼女は、勢い良く無花果ちゃんを指差した。勢い余って向きが少し逸れてしまったくらいだ。
「犯人は貴女だ!」
それは既に云われている。だが今のは単に格好付けたかっただけみたいで、琴乃ちゃんはすぐに次の言葉を続けた。間を空けると杭原さんに黙らされるとは重々承知しているらしい。
「新倉氏はソファーを用いてバリケードを築いていた。これで外からは侵入されない。犯人が新倉氏を殺害するには、中から新倉氏にソファーを退けてもらう必要がある。つまり、犯人は新倉氏が信用している人間。入れてと云われれば部屋に入れる人間。それは貴女しかいないのさっ!」
それから再び「犯人は貴女だ、甘施無花果!」と云う琴乃ちゃんだった。よほど喋り足りていないのだろう。とはいえ推理そのものは、これまで彼女が述べてきた中で最もまともだ。
「さっきの発言からも、貴女が新倉氏に特別な感情なんて持っていなくて、殺そうと思えばすぐに殺せたと分かるしね。嘘でも悲しむ演技くらいすればいいのに、とことんフェアプレーで助かるわ」
杭原さんが付け加えた。だが無花果ちゃんは動じない。
「藪探偵と云ったでしょうか、たしかに貴様にとても相応しい肩書ですね。新倉を殺すのは、私でなくとも可能です。枷部誠一の首が現れた状況から、私達の他に犯人が潜んでいるのは明白。ならば犯人は、新倉の部屋であらかじめ待ち伏せしていたに過ぎません。新倉は昨晩の夕食の後に真先に私と部屋へ戻りましたから、そこからも私達の知らない犯人が潜んでいると分かります」
「おい! うちらは藪探偵じゃなくて闇探偵だ!」
琴乃ちゃんのちょっと論点のずれた反論に無花果ちゃんは、
「はっ! だっさ!」
率直過ぎる暴言を吐いた。もしかしてこの二人、相容れないがゆえに誰よりもお似合いなのではないだろうか。
「きいいい!」と漫画のキャラクターみたいな怒り方をする琴乃ちゃんが口喧嘩を始めようとしたとき、螺旋階段を息切れ気味の出雲さんが上がってきた。彼女は最後に香奈美ちゃんを呼びに行っていたはずだが……。
「あ、藍条さんがいないんですっ」
2
僕らは二グループに分かれて、香奈美ちゃんを捜索した。桜野、僕、無花果ちゃんのグループが十階から六階へ、杭原さん、琴乃ちゃん、出雲さんのグループが一階から五階へ虱潰しにしていった。無花果ちゃんは僕の説得を渋々受け入れて協力してくれた。
この捜索は香奈美ちゃんだけでなく、塔内に隠れている犯人――それがいるのかいないのかは別として――や、まだ見つかっていない枷部さん、新倉さんの胴体も対象となっていた。殺人犯と鉢合わせする危険性があるために、僕なんかは終始神経を張っていた。
しかし、五階で再び顔を合わせた僕らの表情は晴れなかった。
見つかったのは新倉さんの胴体だけだった。それは十階――獅子谷氏の仕事部屋の書棚の陰に放置されていた。
「あと、仕事部屋にこんなものが」
僕はいちおう持ってきた瓶を杭原さん達に見せた。茶色いガラス瓶の側面にラベルが貼ってあり、マジックペンで『砒素』と書かれている。
「私が確認しましたが、本物です」
無花果ちゃんの言葉は信用できないらしい杭原さんは僕から瓶を受け取ると、自分も蓋を開けて中身を検めた。
「間違いないわね。三酸化二砒素よ」
三酸化二砒素。白色粉末状結晶。砒素と云えば、青酸カリと並んでポピュラーな毒物である。保存が難しく独特な臭いのある青酸カリに比べて、砒素はそういった欠点も少ないのに少量で人を絶命させ得るため、毒殺には近年こちらが使われる傾向が強い。
「どうしてこんなものが……」
「前に杭原さん達と見て回ったときは詳しく確認しませんでしたが、書棚には専門的な資料が多く収められていて、珍しい刃物、人間や建物の模型等もありました。この白生塔は獅子谷氏が引退後に建てたものだから仕事部屋なんておかしいな、と思ってましたが、どうやら獅子谷氏は趣味で小説の執筆を続けていたみたいです」
ちらと桜野を見ると、彼女は仕事部屋で発見した獅子谷氏の未発表原稿を抱えてホクホク顔だ。昨夜本腰を入れて事件にあたると宣言してくれたばかりなのに……。
「おそらくその砒素も、資料として入手したんでしょう。中身も蓋のあたりまでありますし、使用されてはいないかと」
「なるほどね。犯人より先に発見できたのは幸いだったわ。これは処分すべきね」
杭原さんは瓶を僕に返した。
「捨てますか? えーっと、トイレに流せばいいですかね」
「そうね、それで問題ないわ」
僕は五〇二号室に這入った。皆を待たせているので早足だ。後ろから桜野もついてきた。
トイレの蓋を開け、砒素を捨てようとした僕に、桜野が囁いた。
「塚場くん、それは捨てない方が良いよ」
「え、どうして?」
「後になって、それが大きな意味を持ってくるからだよ」
桜野がそう云うなら捨てないでおくが。
「皆には、これを捨てなかったことは秘密にしておくのが賢明だね」
何だろう。これを犯人に対する備えにでもするつもりだろうか。だが他の凶器なら頼りになるけれど、毒物でいざと云うとき戦えるとは思えない。
しかし桜野には考えがあるのだろう。これまでも似たような例はたくさんあった。
「分かった。でもそれなら、桜野が持ってた方が良いよな」
「ううん、塚場くんが持っておくのが望ましい」
「……じゃあ後で引き出しの中にでも仕舞っておくよ」
扉は開いたままだったので、桜野は抜け目なく、ポーズとしてトイレの水を流した。続いて、すぐ横の洗面台からコップをひとつ取ると、ひとまず瓶の中身をそれに移した。なるほど、空になった瓶を持って帰るのが自然である。後でもう少しマシな容器に入れ直すけれど、このコップを誤って使ったら大変だな、なんて思いながら僕は桜野と、皆の待つフロアに戻った。
「とりあえず、サロンに行くしかなさそうね」
「私は自室に戻ります。後で……そうですね、貴様が料理を運んで来なさい」
無花果ちゃんは僕を指差すと、返事も聞かずにエレベーターに乗り込んだ。
残る僕らは螺旋階段を下る。雰囲気はやはり重たかったが、僕には一筋の光明が見えている気がした。それは桜野が真相に漸近しているのだという実感だ。
あの砒素を捨てないでおいたのが、後にどう絡んでくるのか、少し楽しみだった。