9(1)「趣味が悪いサプライズ」
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靄に包まれているかのようで落ち着かない時間は、ひどく緩慢に過ぎていく。サロンに複数人で固まっている限り殺される心配はなさそうだけれど、この状態が長く続くと精神に良くない。不覚にも僕まで、これなら何か事態が動くような展開が起きてくれた方がマシだなんて一瞬思ってしまった。
十九時に夕食が始まると、香奈美ちゃん、無花果ちゃん、新倉さんもサロンに来た。枷部さんが消えてしまったいま、できるだけ皆が顔を合わせられる場を設けた方が良いと、僕と出雲さんが説得して回ったのだ。それでも無花果ちゃんの食べる分は新倉さんがつくったが。
「やはりあれは枷部誠一ではなく、首切りジャックの変装した姿だったのです。あのときは狂気じみた行いによって誤魔化しましたが、これ以上は厳しいと判断して身を潜めたのでしょう。貴様らの捜索はザルですね。一匹の小さな蟻を探すかのような入念さでないと、あれは見つけられませんよ」
無花果ちゃんはすっかり立ち直っていた。
「変装じゃないのは貴女が嫌と云うほど見せつけられたでしょ。それを認めないのは、貴女の目が節穴と認めるに等しいわよ」
そう云われては無花果ちゃんも弱く、反駁はなかった。
「そもそもあたしは首切りジャックの犯行だというのには懐疑的ね。司法解剖して確かめたわけじゃないんだから、首を綺麗に切断さえできれば誰でもいいじゃない」
「……たしかにそうですね。……いえ、そうだったのですね」
ステーキをナイフで切り分ける無花果ちゃんの手が止まった。杭原さんの発言を受けて、何かに気付いたようだ。
「私はその一点で早とちりをしていたようです。いま、完全に視界は開けました。……あれは変装ではなかった。ならば、枷部誠一その人が犯人というだけではないですか。首切りジャックの事件に当たった経験のある彼なら、その犯行を模倣することも可能……私の目を欺いたのですね。犯人だと云い当てられた際に逃げる手段として、そんな細工が施されていたのですね。だからこそ、彼は姿を消したのですね」
「待ってよ、無花果ちゃん」
口を挟んだのは僕だ。
「はぁ?」
「……無花果さん」
「何でしょう」
「それでもたぶん、獅子谷氏の死体が閂に使われているという推理は間違っていますよ。あれからも扉を開けようとしましたが、いくら力を籠めても微動だにしません」
視界の端で、この話を初めて聞いた香奈美ちゃんが怪訝そうな顔をしている。
「それに無花果さんの推理では、枷部さんは枷部さんではなく正体が首切りジャックだからこそ、犯人なり得るということでしたよね。本当に枷部さんが犯人なら、こんな犯罪を行う動機は――」
「はっ。動機なんて知りません」
なんと、開き直られた。
「動機なんて他人が推し測れるものではないのです。人間の感情を論理で紐解くなど、それはこじつけでしか有り得ません。私達探偵の役割は犯罪を立証することであり、動機という不確定なものには本来、興味がないのです」
冷静な態度を常としている無花果ちゃんなので今まで勘違いしていたが、実は滅茶苦茶な人なのだとさすがに分かってきた……。
無花果ちゃんの新たな推理に対しては、誰も触れなかった。各々考えに没頭していたり、何も考えていなかったりで心ここにあらずの状態だった。
そろそろ夕食が終わるという段になって、僕は何度目かになる提案をした。
「今後は皆で……とは云わないまでも、二グループに分ける等して集団で生活しませんか?」
しかし香奈美ちゃんに間髪入れずに「嫌よ!」と拒否された。
「この中に犯人がいるかも知れないのに、一緒の部屋に固まって寝るの? 絶対に嫌。信用できるのは自分だけよ」
杭原さんにも「そうね。仲良く固まってるところを一網打尽にでもされたら笑えないわ」と云われてしまい、僕の提案はまたもや却下となった。
「まったく愚かですね。各自用心すれば事足ります。貴様、言葉を口にする前に自分でよく検討できないのですか」
無花果ちゃんはナプキンで上品に口元を拭い、席を立った。新倉さんを引き連れ、さっさと自室に戻ってしまう。
毎度ながら僕は無力感に苛まれつつ、桜野に目を向けた。この期に及んでまだ小説を読んでいる。僕が図書室から彼女の部屋まで運んだ本は二十冊はあったけれど、滞在中に読破するつもりか。
桜野を挟んで出雲さんが座っているのだが、彼女の視線が桜野越しに僕へと向けられていると気付いた。目が合うと、彼女はすぐに視線を逸らしてしまったが、その仕草も込みで、彼女の態度は何だか意味ありげで――
「きゃあっ」
突然の素っ頓狂な声が無花果ちゃんのものであると判断するのに数秒かかった。これまで彼女は一度もそんな声を出さなかったからだ。
エレベーターの方へ振り返る。無花果ちゃんもこちらに振り返ったところだった。彼女はゆっくりと、身体を脇に退ける。エレベーターの扉は開いていて、露わになったその内部に……。
枷部さんの首だけが、ポツンと置かれていた。
顔中が傷だらけなのは、自分で掻き毟ったときのものだろう。だがその傷も含めて、すべてが蒼白く……紫に近いくらいの色をしている。義治くんのときよりも酷く、死後数時間が経過しているとは、素人の僕でも分かった。あんなに綺麗だったブルーの瞳もすっかり濁っていた。半開きの口からは、もうあの饒舌は永遠に聞けない。
出雲さんの低い呻きには底知れぬ諦観が、香奈美ちゃんの小さな叫びには単純な驚きが、杭原さんの溜息には辟易が感じられた。皆に共通しているのは、妙に〈慣れてしまった〉という空気だった。
無花果ちゃんから目配せを受け、新倉さんが枷部さんの首に近づき検分する。やがて「本物でございます」と初老の声が告げた。
「サロンに最後に来たのは私と新倉でしたが、そのときにこんなものはなかったと断言します」
「貴女がエレベーターから出てくるところなら見たけど、確かになかったわね」
あんな奇怪なもの――人の首を指してあんまりな云い方だが――を見逃す気遣いはない。ならばあの首は、僕らが夕食を取っている間に置かれたのか。つまり……
「置いたのは僕ら以外の人間、ですか」
夕食の間、誰も途中で席を立った者はいなかった。
「エレベーターは一階にあったはずですが、呼び出しボタンを押してから扉が開くまでに長い間がありました。十階から下りてくるに相当する間です。誰かが十階でエレベーターを呼び出し、首を置いたと考えられます。そして、残念ながら……」
無花果ちゃんの表情に悔しさが宿る……その微細な変化を僕は見逃さなかった。
「枷部誠一は犯人ではなかったようです」
こうして被害者となってしまったのだから、無花果ちゃんでも認めざるを得ない。
「加えて、僕ら以外の人間が潜んでいて、それが犯人なんだという確たる証拠になりましたね……。本当に、首切りジャックが……」
「壮太くん、それはおかしいわ」
「え……でも杭原さん、それ以外に解釈の余地がありませんよ」
「だからおかしいのよ。こんなことしたら、他の解釈がなくなる。答えがついにひとつに限定される。美海子ちゃんが前に云ってたとおり、数々の推理小説的趣向が意味をなくしてしまう。あたしにも美海子ちゃんが云ったことの意味が分かったわ。これは、犯人からのミスリードなのよ」
「そうやって僕らを攪乱するのが目的なんじゃないですか」
「だったらなおさら、この誠一さんの首の出し方は不整合よ」
「もうっ、一体何が云いたいのよ」
業を煮やした香奈美ちゃんが、杭原さんに結論を急かした。杭原さんの中では既に答えが出ているのだとは、その態度から瞭然だった。
「んふ」
杭原さんは余裕そうな笑みを浮かべると、眼鏡のふちを指で押し上げる。
「あたしは外部犯や首切りジャックなんて考えが納得できなかったわ。師匠にまつわる事情もあって、犯人にはフェアな対決を仕掛けてくる人物であって欲しかった。でもどうやら期待どおりだったみたい。嬉しいわ。途中、だいぶ混乱させられたしミスリードにも引っかけられたけど、あたしはいま勝利を掴んだ」
杭原さんの射るような視線は、無花果ちゃんに向けられていた。
「犯人は貴女ね、甘施無花果」




