6(2)「甘施無花果の推理」
「お揃いですね」
そこで新たに、無花果ちゃんの声がサロンに加わった。エレベーターから、新倉さんを従えて出てきたのだ。
「香奈美ちゃんがいないよ」
「構いません。彼女の前で真相を告げると、優雅さに欠ける顛末となるでしょう。それは私の歓迎するところではありません」
「真相? 甘施さん、君はすべての謎を解いたと云うのかい!」
そうだ。無花果ちゃんは後で真相を話すと云っていた。その時が来たのだ。
エレベーター側の席である僕は身体の向きを変え、年齢不詳の少女を見据える。白い肌、漆黒のドレス、黄金の髪、まるで人形のようなその姿は神々しいとさえ形容できる。
「はっ」
だけどそれが台無しになるような品のない笑い方をするのだった。
「三文芝居はやめなさい。犯人は貴様です」
枷部さんは「僕だって? 馬鹿な!」と立ち上がり、その拍子に椅子が倒れた。
「お静かに。私が事件を解決する場面は華麗でなければなりません」
「ははっ、しかし披露するのが見当違いの推理では格好も付くまいよ、甘施さん」
当たり前だが、枷部さんに認める兆しはない。
「あまり急かさないでもらえますか。まず私は、獅子谷敬蔵がはじめからいないなどという荒唐無稽な推理は間違いだと断る必要があります」
探偵達は無花果ちゃんの推理を黙って聞く。枷部さんもそれが終わるまではとりあえず沈黙すると決めたようだ。
「今回の殺人事件は獅子谷敬蔵にとっても予想外でした。獅子谷敬蔵は私達を招いて、謎解きごっこに興じようとしていただけなのです。モニター越しの挨拶も録画などではありません。あのとき、獅子谷敬蔵は部屋にいました。
そもそもにおいて、獅子谷敬蔵がこれまで探偵達を虐殺してきたなんてあるはずがないでしょう。そんな事件が露見しないなんて有り得ません。貴様らには常識で考える能力が著しく欠如していますね」
「ちょっと待ってよ」
これには杭原さんが口を挟まずにいられないようだった。
「私の師匠は白生塔で殺されたのよ」
「思い込みが激しい人ですね。貴様の師匠なる人物が白生塔に招かれたというのは事実なのでしょう。しかし、行方不明の原因がそこにあるとは限りません。貴様は短絡的にその二つを結び付けてしまっただけなのです。獅子谷敬蔵も白生塔も、何も関係ないのです」
杭原さんは絶句した。
「他の招かれた探偵達が行方不明になったというのも眉唾ものですね。たしかに獅子谷敬蔵が今回のように探偵達を此処に招くという催しが過去にあったとは考えられますが、殺人なんては起きずに無事終わったでしょう。繰り返し述べますが、そんな規模の殺人事件が露見しないはずはありませんし、獅子谷敬蔵がとっくの昔に殺されているなんても有り得ないのですよ。
話を戻しましょう。獅子谷敬蔵は私達を招いて謎解きごっこを始めようとしました。しかしたったひとつのイレギュラーがありました。枷部誠一が殺人鬼であったということです。あの挨拶の直後、獅子谷敬蔵は枷部誠一に襲われました。枷部誠一はそれに気付かせないために〈密室からの消失〉という状況をつくり出し、あたかも獅子谷敬蔵からの挑戦であるかのように見せかけたのです。
おっと、お静かに。順にお話しますので。
思い出してください。獅子谷敬蔵の挨拶が終わると、枷部誠一は自分の部屋へと向かいました。その後に出雲が異変を私達に知らせ、私達は獅子谷敬蔵の部屋に向かいました。たしかに内側から錠がかけられており、部屋は密室状態でした。しかし、それは充分につくり出せるのです。
枷部誠一が中から錠をかけ、そのまま中に隠れていれば。
そうです、あのとき部屋の中には枷部誠一が潜んでいたのです。枷部誠一は獅子谷敬蔵を殺害し、その死体を別の場所に移動させると、自分が部屋の中に這入りました。あとは私達が錠を開けて這入ってきた後で、気付かれないように、あたかも今来たかのように装い、背後に回り込んで現れればいいのです」
「そ、そんなことが可能なんですか!」
僕が思わず声をあげると、無花果ちゃんが「貴様には先ほどお見せしたばかりでしょう」と云った。
「心理的死角ですよ」
相手の意識の空白を利用した技術。それを枷部さんは僕ら全員を相手にやってのけたというのか。あのとき、枷部さんはたしかに後から現場に駆け付けた……しかし彼が現れたとき、彼は既に部屋の中にいた。這入ってくる瞬間を見てはいない……。
「枷部誠一は真夜中に能登を、つい先ほど霊堂義治を殺害しました。前者はよいとして後者ですが、枷部誠一に確かなアリバイがないことには貴様らもお気付きでしょう。ずっとサロンにいたと云っても、途中でこっそり抜け出して霊堂義治を殺すことは充分に可能です」
「じゃあ無花果ちゃん、玄関扉の閂はどう説明するのよ。それについても、分かってるんでしょ」
杭原さんの質問にも、無花果ちゃんは首を縦に振った。
「あの扉の外側の取っ手に閂をかけることは、中からではどうやっても不可能です。中からわずかな隙間だけを空けて閂を通そうとしても、あのようにビクともしない状態はつくり出せません。その閂が、堅い棒状、あるいは板状のものなら。
それならば、かけるときは柔らかく、扉を閉めた後に堅くなるものを使えば、その状態はつくり出せるのです。柔らかいものなら、中からわずかな隙間を空けて通すことが可能ですので」
「そんな都合の良いもの……」
「獅子谷敬蔵の死体です」
僕は息を呑んだ。無花果ちゃんの情報開示の巧みさに膝を打ちそうになった。獅子谷敬蔵が枷部さんに殺害されたというなら、死体はどこにあるのか……その答えが、衝撃を伴った鮮やかさで以て示されたのだ。
「死後硬直を利用したのです。死亡後、筋肉のATPが枯渇し、筋原線維タンパク質であるアクチンとミオシンの結合からアクトミオシンが生成されることによって死体の筋肉が硬化する現象……貴様らには、わざわざ説明するまでもないでしょう。
能登を殺したのとどちらが前後したかは分かりませんが、真夜中、全員が寝静まったころ、枷部誠一はどこかに隠しておいた獅子谷敬蔵の死体を玄関扉まで運び、閂の代わりに利用します。あの扉の取っ手は人間の腕二本がちょうど通る程度の大きさですね。なので死体が取っ手を抱き締めるようなかたちとなるよう、こちら側から適度に扉の隙間を狭めつつ、調節したのです。それから扉を閉める。死体は二、三時間経過すると脳から内臓、顎や首から硬化を開始します。死体を閂のように用いて扉を閉めたころには、まだ関節も曲がりますし、腕も柔らかかったでしょう。しかし十二時間も経つと、大関節、抹消関節など全身に死後硬直は及びます。私達が目覚めたころ、取っ手に通された獅子谷敬蔵の腕は鋼の閂と化したのです。
死後硬直は死後三十時間から四十時間で徐々に緩解を始めますので、心配なさらずとも明日の朝頃から扉は開くようになるでしょう。こちらから強い力で押し続ければ、所詮は人体なので壊れないこともないですが、どうですか、死人に鞭打つような真似を――」
「ああ、もう聞いていられないよ、甘施さん! 考えてみたまえ、僕が人を殺すはずがない! 僕は探偵だ。それに君も見ただろう、霊堂くんの首を。犯人は首切りジャックだよ!」
「ええ、その通りです」
益々混乱させられる。枷部さんも珍しく、言葉に詰まってしまった。
「これまでの表現には一部、不正確な箇所がありました。お話する順序の関係でやむを得なかったのです。訂正としましては、貴様は枷部・ボナパルト・誠一ではありません。その変装をした首切りジャックです」
「えええっ!」
慌てて枷部さんを見る。彼の表情は強張っていた。隣の杭原さんは、既に距離を取っている。
「もともと貴様は怪しかったです。私が以前に会った枷部誠一は舞台役者のような挙動で演説をしてこそいましたが、誰かと話すときにはしっかりと目を合わせる人物でした。しかし貴様は天を仰いだりするのみで、ろくに顔を合わせようとしません。その大袈裟な動きは、凝視されて変装が見破られるのを恐れているせいです。
さらに、私が知る枷部誠一は、もう少しまともな演説をしていました。貴様は知識量も語彙も演説の仕方も、何をとっても薄っぺらです。時折披露していた推理も、推理とも呼べぬお粗末なものでしたね。偽物と知れて当然。知識の及ばない領域を想像で補おうとしたせいで、いくつか綻びも生じていました。そこの塚場壮太に確認したところ、貴様は推理小説に関する言説でも素人丸出しだったようですね。
細かい経緯はその口から自白で以て聞きますが、ともかく、貴様は枷部誠一を騙りまぎれ込んだ首切りジャックです。マスコミは首切りジャックという名称を付けましたが、貴様の本質は怪人二十面相だったというわけですね。もっとも、私は怪人二十面相というものを話で聞いた程度なので滅多なことは云えませんが。
さぁ、そのマスクを剥がしなさい。素顔を私にさらしなさい。以前取り逃がした貴様を此処で屈服させ、私はあのときの雪辱を晴らすとしましょう」
すべての真相を述べ終えた無花果ちゃんは、話す前までと変わらぬ飄々とした佇まいで、興奮などは見られなかった。そのある種の強靭さは、確かに彼女がかなりの年を重ね、経験を積んだ人間であるかのように思わされる。
だが、今はそれよりも枷部さんだ。彼は本当に、首切りジャックなのだろうか。
枷部さんは俯いていた。その肩が小刻みに震え始める。
「くくくくくく……くくっ、くくくっ、あははははははははは! あっはっはっはっはっはっはっはっは!」
再び顔を上げた彼は口を限界まで開き、思いきり哄笑した。しばらく経ってもまだ笑い足りないようで、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「くふっ、甘施さんっ、たしかに面白いっ、推理だよっ。ははは、久し振りにこんなに笑ってしまったっ。だがね、間違っているっ。獅子谷氏がはじめからいないなんて荒唐無稽だと君は云ったがっ、君の推理ほどに荒唐無稽なものがあるかいっ? あはははは、僕は首切りジャックなんかじゃないよっ。変装? マスク? 怪人二十面相だって? あっはっはっはっは、ほら、よく見たまえ。それから恥じると良い。僕は正真正銘、枷部・ボナパルト・誠一さっ」
枷部さんはツカツカと足音をわざと響かせながら無花果ちゃんの前まで歩み寄った。新倉さんが立ち塞がろうと動いたが、無花果ちゃんがそれを制した。枷部さんは腰を曲げると無花果ちゃんに顎を突き出した。それからその首のあたり、頬のあたり、額、いや顔中を掻き毟り始めた。ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ。血が滲むまで爪を食い込ませ、真っ赤になった顔をさらに掻き毟る。
「あはははははははっ! あはははははははははははははっ! 甘施さんっ、君はなんて面白いんだろうな! あはははははははははははははははははは! ほら、これのどこがマスクだと云うんだい? あはっ、今時推理小説でも滅多にお目に掛からないよ、選りにも選ってマスクで別人に成りすますなんてさ! あはははははははははははははははは!」
爆笑を続ける枷部さんは、次は頭髪を引っ張り始めた。何本かがブチブチブチブチッと皮膚ごと引き抜かれた。少量跳ねた血液が無花果ちゃんの顔にかかった。ずっと無表情を保っていた無花果ちゃんの顔が段々と蒼褪めていく。
「あはははははははは、ははっ、ははははっ、あはははははは……ふふっ……ははははっ、はっ……どうだい、ははは、どうだい甘施さん、気が済んだかな?」
枷部さんはようやく狂気じみた動作を終えると、背筋を伸ばし、両手を広げ、天を仰いだ。
「プライドの高い甘施さんが泣いてしまわれた! おお、僕も顔面が焼け爛れたかのように痛いよ! これでは当分鏡を見られないな! 僕を、そして親愛なる甘施さんを辱め、こんな酷い目に遭わせた首切りジャック、君を僕は絶対に許さないよ! この声を、今も聞いているんだろう? のんびり構えていられるのも今だけさ! 僕らは探偵として、きっと君を捕まえる! このボナパルトが宣言しよう!」
枷部さんは僕らに振り向いた。腫れ上がり、血の滴る顔面が、不気味に笑う。
「首切りジャックだ! 閂のトリックに関しては、甘施さんの云うとおりだろう! 奴は今も中に潜んでいるぞ! さぁ探そうではないか!」
それから枷部さんは踵を返し、途方に暮れる僕らを置いて単身、エレベーターに乗り込んで行ったのだった。