5「変態的な要求」
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義治くんは枷部さんを疑っていたのだろうか。いや、疑っていた相手は出雲さんだっただろう。しかし香奈美ちゃんに「気を付けろ」と云った以上、何か危険な匂いを感じ取っていたに違いない。香奈美ちゃんが枷部さんに襲い掛かったのも、彼の配慮に欠けた行いに激昂したというだけでなく、そういう背景があったからなのだ。
だけど枷部さんが犯人というのも有り得ない。義治くんは香奈美ちゃんが厨房で料理をつくっている間に殺されたのだ。枷部さんはその間、ずっとサロンにいた。……いや、
僕は足を止めた。
枷部さんがずっとサロンにいたと証明する者はいないではないか。
厨房の扉は閉めていたから、枷部さんが義治くんを殺しに行ったとしても、それは僕らには分からなかった。
まさか本当に……。でも枷部さんは有名な探偵。人を殺す理由があるだろうか。杭原さんも一度は枷部さんを疑っていたが……。それに、玄関扉の閂の件もある。
やはり考えるのは苦手だ。この謎は僕の手にはあまり過ぎる。
螺旋階段を下ろうとした僕だったが、ふと思い付いて、上がることにした。九階は無花果ちゃんと新倉さんが使っている。彼女達は義治くんが殺されたと知るとまた自分達の階へ引っ込んで行ったから、今は部屋にいるはずだ。この機会に話をしておこうと思う。
九〇一号室をノックすると、出てきたのは新倉さんだった。バリケードは築いていないようだった。
「塚場様ですね。何でしょうか」
無花果ちゃんの執事らしく洗練された落ち着きを持つ新倉さんは、こうして相対してみるとこちらが萎縮してしまうような感じがした。初老だというのに背筋は僕より遥かに真っ直ぐで、枷部さんほどでなくとも充分に高身長だ。
「無花果ちゃんとお話させていただきたくて……他意はありません。ただ小説家としての性分で、皆さんの人となりを知っておきたいな、と考えているんです」
「私の一存では決めかねますな。お嬢様に確認してまいりますので、お待ちください」
新倉さんは九〇二号室の扉をノックし、しばらく間を空けてから中へ這入って行った。もしかしたら無花果ちゃんの方はバリケードを築いているのかも知れない。
無花果ちゃんは僕をかなり蔑視していたから追い返される可能性が高いと考えていたが、案外すぐに面会を許可された。新倉さんの後について部屋の奥へ進む。無花果ちゃんはソファーに腰掛け、優雅に紅茶を飲んでいた。
「掛けたらどうですか」
勧められたとおりに、背の低いテーブルを挟んで向かいのソファーに腰を下ろした。
「新倉、席を外して頂戴」
新倉さんは無言で部屋を出て行く。
「いいんですか?」
「自分と二人きりにして、ですか」
「はい。もちろん違うとは主張しますけど、僕が犯人だったら危険ですよね」
「はっ」
無花果ちゃんに鼻で笑われると、そのたびに僕はびくっとしてしまう。
「いま私を殺したら、犯人は貴様でしか有り得ないでしょう。新倉は扉の外に立ったままですので」
「なるほど。これまでの犯行から、自身を特定されるような愚を犯す犯人ではなさそうですもんね」
「第一、貴様のような無能に一連の犯行は不可能です。私が観察したところ、貴様は無能を演じている切れ者でもありません。あの桜野美海子という探偵は、そのタイプですが」
「桜野が無能を演じている、と?」
単にマイペースなだけだと思うが。
「あの舌足らずな言動、緩慢な動作、平凡な容姿……しかし根底には確かな計算が見られます。現在この塔にいる人間の中では、二番目に知能が高いでしょう」
「一番は?」
「私です。云うまでもありません」
大した自信である。
「でも無花果ちゃんは――」
「はぁ?」
無花果ちゃんは一切表情を変えないで語調を変えるという器用な真似を見せた。
「敬語かと思えば、ちゃん付けですか。私の年齢を外見相応に低いと思っているくせに、波風立てないように言葉だけは敬語にしようという浅い考えが見え透いていますね」
「いや、そんなつもりは……」
云われてみると、たしかにその通りかも知れなかった。でもこうして向き合ってみてもその外見はせいぜい中学生くらいにしか見えないのだから、僕の心理も責められたものではないんじゃないだろうか。
「すみませんでした。……無花果さん、」
「何ですか」
「無花果さんはまだ一度も推理を披露していませんよね。自分が最も優秀と云うなら、此処でひとつ、お考えを聞かせてもらえないでしょうか。犯人の正体がはっきりすれば、これ以上の犠牲者が出ることも防げるんじゃないかと思いまして」
無花果ちゃんはすっと立ち上がると、テーブルの上に乗った。突拍子もない行動に僕は呆気に取られて彼女を見上げる。
「あの、無花果さん?」
「舐めなさい」
顎に何か当たったと思って見ると、無花果ちゃんは右足を上げ、僕の眼前に突き出していた。
「はい?」
「私の推理を聞かせて欲しいのでしょう。足を舐めたら、考えてあげてもいいと云っているのです。靴下を脱がせ、まずは小指から順々に――」
「いやいや、しませんよ」
澄ました顔で何を云っているのだ。
「はっ」
鼻で笑われても困る。
「犬の素質があると思ってみれば、つくづく詰まらない男ですね」
無花果ちゃんは無表情のまま嘆息し、テーブルから下りると僕の隣に腰掛けた。それほどスペースがあるわけでもないので、僕は追いやられるように端に移動する。
「しかし大抵の男は私に迫られると興奮を抑えられないのですが、貴様は単に困惑しているだけのようですね。初心、あるいはゲイなのでしょうか」
「あんまりそういうこと、しない方がいいと思いますよ……」
無花果ちゃんが実は変態なのだと分かり始め、僕は焦っていた。これ以上何か仕掛けられたら、どう反応すれば良いのだろうか。
「ご心配なく。私の火遊びに火傷は有り得ません」
「うわっ」
僕は首にナイフの切っ先を突き付けられていると気付き、間抜けな声をあげてしまった。ナイフを持っているのは無花果ちゃんだ。刃の部分を折りたたんで柄の中に収納できるタイプの小型ナイフである。
「まさか、君が……」
この子が一連の殺人犯だったのか。だとしたらまずい。入口は新倉さんに見張られているみたいだし、もう逃げられ――
「はぁ?」
しかし次の瞬間には、ナイフは消えていた。無花果ちゃんの手にも握られていない。
幻覚……? いや、確かにナイフは存在した。ならば……。
「心理的死角というものが人間にはあります。私は暗器の技術に加え、心理的死角に精通しています。つまりは相手の意識に空白をつくり出し、虚を衝くというテクニックです」
「ま、マジックとか得意そうですね……」
「情欲を露わにした猿に対しては、この術を用いて迎撃が可能です。無論、本来の目的は殺人犯に対する用心です。当然の嗜みと云えます」
「……すごいですね。桜野はそんな護身術は身に着けていませんよ」
「三流ですね。ところでひとつ質問をするので答えなさい」
「あ、はい」
先ほどから一向にペースを掴めないのだが、これも無花果ちゃんの話術なのだろうか。常に会話を優位に進める……僕なんかは永遠に彼女の掌の上で踊らされる羽目になりそうだ。
「推理小説という低俗なものを私は読まないので、それに関する質問を貴様にします。推理小説には探偵が登場するそうですが、探偵が犯人、探偵が被害者というのはタブーなのですか」
「たしかに珍しいですよ。でも例がないわけじゃないです。推理小説は意外性を重視する向きがあって、そのために探偵役と思われていた人物が犯人だったという話も、探偵役が道半ばで死んでしまうという話もあります」
「そうなのですね」
「それは大事な質問なんでしょうか?」
「指を舐めたら、答えましょう」
「舐めません」
「そうですか」
無花果ちゃんは落胆した様子もなく、今度はテーブルを迂回して向かいのソファーに戻った。本当に読めない子だ。
「私にとっては犯人も犯行手段も既に明白です」
あまりに淡々と云われたせいで、危うく聞き逃してしまいそうになった。
「本当ですか。なら勿体ぶらずに教えてくださいよ」
「後で全員の前でお話しましょう。犯人もそれを望んでいるようですので」
無花果ちゃんはそこで一旦紅茶を啜った。
「しかし特別に、貴様にヒントを与えましょう。いまの時間、なかなかに楽しませていただいたので」
意外にも彼女は僕との会話、もとい僕へのからかいを楽しんでいたらしい。
「獅子谷敬蔵の挨拶。あれは録画ではありません。彼はあのとき、間違いなく部屋にいたのです。もっとも、いまは生きていないでしょう」