ある画家の小屋
N駅に電車が到着すると同時に溢れ出した人々は、波のように駅前広場を横切り、地下鉄に続く階段へ呑みこまれていく。黒い髪の海はこの国の民の勤勉さと、他人指向を象徴する。
日鷹は通勤の混雑が過ぎたあとの駅に降り立った。五月晴れの空がはるか高いところに漠然と広がっている。鳥がぴいぴいと鳴きながら、低いところを飛んでいく。空中に甘いのは花の香だ。今まで何度となく陽に焼かれ雨に打たれてきたホームには色がない。風に乗って赤いチラシが、コンクリートの地面に落ちた。それが唯一色を添えた。チラシは日鷹の手に捕まる前に再び風に乗った。
影のような駅員がひとりいるだけの改札を出ると、そこは町人の憩いの広場になっている。片隅にはサラリーマンのための喫煙所があり、中央の噴水の周りでは午過ぎに主婦たちによる井戸端会議が予定されている。だが今は老人がひとりベンチに座っているだけだ。日鷹は奥でぽっかりと口を開けている、地下鉄の入り口の前で、ふと足を止めた。
駅前広場は正方形をしており、すぐ隣に建つ民家と白いフェンスで仕切られている。地下鉄の入り口は正方形の一角、フェンスに寄り添うようにしてあるのだった。階段にかぶさる煉瓦の覆いは、のどかな町の風に吹かれてくすんでいた。不思議なのは、階段とその横のフェンスとの間に、人ひとりがやっと通れるくらいの隙間が空いていることだ。雑草には踏みつけられた跡がある。
日鷹が隙間を覗きこんでいると、
「私の家にご用ですか」
背後で柔らかな声がした。
短躯の老婦人が立っていた。人のよさそうな笑みを顔中に浮かべている。髪はスノーホワイト。太陽の下、静かにひんやりと光っている。
「お入りください」
白雪夫人はふくらんだ買い物かごを提げながら、狭い通路をするすると抜けた。
木造の小屋が建っていた。ちょうど煉瓦の覆いの裏にあたる。空間いっぱいに建てられた小屋は、あまりの窮屈にしくしくと泣いているのだった。
「こんなところに家があるなんて知らなかったでしょう」
白雪夫人は扉を開けた。
日鷹は小屋の中に立っていた。
三方の壁にワインラックが取りつけてある。床から天井まで、ボトルの間に隙がない。そのワインのコレクションはただでさえ狭い部屋をさらに狭くしていた。天井に採光窓があるおかげで暗くはない。
そして、部屋の中心にキャンバスがあった。ドアから真正面に見えている。キャンバス立ての脚下にはパレットと、濁った水の入ったバケツがいくつか、それぞれ太さの違う筆が数十本。その前には、汚れたエプロンを背にかけた椅子が一脚置いてある。それは妙に求心力を持っていた。こんな部屋の絵を日鷹はどこかで見たことがあった。
そればかりだった。ワインラックとキャンバスの他には、簡単なキッチンセットと、その横で三つ折りにされた、息も絶え絶えの煎餅布団。
白雪夫人は竹で編まれたかごを床に置いた。口からジャムの瓶が覗いている。
「どうぞ、座ってください」
日鷹は一脚しかない椅子に座った。座面にも脚にも絵の具がこびりついている。それは小学校の図工室にある四角い椅子を思い出させた。
「今紅茶を淹れますから」
「お気づかいなく」
白雪夫人が湯を沸かす間、日鷹はキャンバスに描かれた絵を眺めた。それは部屋の風景になくてはならなかった。見ていると吸い込まれていきそうだった。
「感想は?」
日鷹は黙っていた。
「カンディンスキーという画家を知っていますか」
薬缶がかたかたといい始める頃、白雪夫人は言った。
「いつだったか、展覧会を観に行ったのです。大好きだった叔父に連れられて。私にはカンディンスキーの絵は理解できませんでした。そのときの私は幼かったのですけれど、その私よりももっと小さい、赤ちゃんが落書きしたような絵だったんですもの。こんな絵すぐに忘れてしまうだろうと思いました。だけど奇妙なことに、展覧会で見た他の絵は覚えていなくても、その絵とカンディンスキーという名だけはずっと記憶に残っているのです。それも鮮明に。後から考えてみると、その絵には白い部分がありませんでした。これはすごいことです。キャンバスの端から端まで色で埋め尽くして、不協和音を生まないどころか、人を惹きつける絵にしてしまうのですから。それはいつしか私の人生の目標になりました。だからこうして、あの日見たカンディンスキーを再現しようと、キャンバスに向かっているのですよ」
「ずっとここで、おひとりで?」
白雪夫人は首を振った。
「数年前までは主人が一緒でした。主人が病気で死んだ年に、ここに小屋を建てたのです。ワインとキャンバスを持ち込んでね。それからは、ずっとひとりです」
日鷹はカップを受け取った。茶葉の欠片ひとつ浮いていない、紅茶の深い色は目に優しかった。そしてその深さはちょうどカップの高さ分なのだ。
「お砂糖もミルクもないのです」
白雪夫人はジャムをひとすくい、日鷹のカップの中に入れた。波立った紅茶は、ほのかに青いタイムの香りと、ブラックベリーの味がした。
それからも白雪夫人はしゃべり続けた。紅茶はなかなか減らなかった。日鷹には三杯目を注ぎながら、
「あなたは無口な方ですね」
と笑った。
日鷹は日の傾き始める頃に白雪夫人の小屋を辞した。
次に日鷹が小屋を訪れたのは、梅雨を過ぎ、空の色が濃い初夏の頃だった。ラッシュ時の人の群れの中には、試験を控えた学生の持つテキストのページがまぶしかった。その横でサラリーマンたちは一様にネクタイをゆるめた。
日鷹は階段横の隙間を入った。雑草の勢いは衰えを知らず、七月の陽光を浴びてよりいっそう青々しい。
「あら、また遊びに来てくださったのですね」
白雪夫人はにこやかに出迎え、すぐにきょとんと小首をかしげた。
「まあ、私に?」
日鷹は花束を手にしていた。山百合の大輪の、ミルク色を彩るのは山吹のラインと朱の斑点。するりとそり返った花弁の中にはまだ朝の涙が残っている。包んだ紙には、刈ったばかりの茎から滲む草色の血が鮮やかだ。
「今朝、庭からとってきたものです」
厚みのある百合の香りが小屋の空気を支配した。部屋の様子は変わらなかった。三方の壁に取り付けられたワインラックには隙がない。天井の採光窓から入る光は少し強くなったようだ。竹で編まれた買い物かごからはジャムの小瓶が転がり出ている。
そして相変わらず、部屋の中心にキャンバスがあった。ドアから真正面に見えるところに、その脚下にはパレットと、濁った水のバケツ、太さの様々な筆。その前には椅子が、背に汚れたエプロンをかけて置いてある。こんな絵を日鷹はやはりどこかで見たことがあった。
「困りましたね。花瓶がないのです」
白雪夫人は山百合を小屋の隅に置いた。それでも花の香は強かった。
「押し花にでもしましょうかねえ」
日鷹に椅子をすすめ、紅茶を淹れる用意を始める。その間に日鷹はキャンバスを見つめた。
絵は前回見たときとまるで違っていた。それは次から次へと色を塗り重ねることで完成に向かうようだった。あるいはすでに完成しているかもしれなかった。その都度、以前見えていた絵は見えなくなっていく。
「ありとあらゆる色を使いました」
薬缶がかたかた鳴っている。
「スノーホワイトから始めて、ウォルナット、ボルドー、スカイグレイ、イエロー、マゼンダ、シアン……プラムに至るまで。今ここで挙げきることはとてもできないくらい。パレットの上で作れるだけの色を作ったのです。だけどまだ足りません。ぜんぜん、及ばないのです。この絵に着手してもうすぐ三年になります。処女作ですから妥協はしたくありません。色なんてまだまだいくらでもあるはずです」
白雪夫人は絵を前にして肩をすくめた。
「言葉にしようとするからいけないのかもしれません。あるいは、パレットの上で作り出そうとするから」
薬缶がしゅうっとおとなしくなった。
「それは違うんじゃありませんか」
日鷹が言う。
「名前はないかもしれませんが。キャンバスに描くのでしょう。パレットと絵の具を用いる以外に、いったいどんな色の作り方があります? 少なくとも、言葉で区別できるくらいでなくては。言葉にできないのなら、そんなものは、人に見せられたものじゃありませんね」
湯を注ぎ終えて、白雪夫人は微笑んだ。すっと細めた目は、皮膚に隠れて見えなくなった。
「絵画なんて、自己満足の世界ですよ」
「どうしてカンディンスキーなんです」
「そんなもの、忘れてしまいました。もともと理由なんてなかったのかもしれません。だからいいんじゃありませんか。そうですね、強いて言うなら、私の記憶に残っていた絵画だからですね」
「旦那様を病気で亡くされたと言いましたが、本当は、あなたが殺したのではありませんか」
白雪夫人はついに笑い出した。
「なんですか、推理小説の探偵みたいに」
日鷹は立ち上がった。
「あら、紅茶は飲んでいかないのですか」
「結構です。それからその山百合は、押し花になんかしてはいけませんよ。枯れるのを待って、捨ててしまいなさい」
朝摘みの花の香はいつの間にかラベンダーにかき消されていた。
「また来ます」
最後に日鷹が訪れたとき、白雪夫人の小屋はすでに破裂していた。
空気のつんと澄んだ、冬の夜だった。駅の明かりも町の街灯も消えたあとに、日鷹は十二月の星空の満天を背負ってやってきたのだった。
煉瓦の覆いの裏には小屋の残骸があるのみだった。木材の山の中に、ワイン、竹の買い物かご、ジャムの瓶、ハーブティー、カンディンスキー、山百合、そしてキャンバスまでが混沌としていた。日鷹は絵を拾い上げた。
それは昔の画家の悪い真似事でもなければ、素人の描いた下手な夢とも違う。ただの泥沼にしか見えなかった。
「なにが自由だ」
星空が高い。
「馬鹿げてる」