第一話 【覚醒】 2
去年の夏のことである。俺は一つの事件を起こした。
理由がなんだったのかも思い出せないようなことだったと思う。
思い出せないのならきっと大した理由じゃないんだろう。
ただひどく暑い日だった。
騒がしい蝉の声、網膜を突き刺すような強い陽射し、滴り落ちる冷たい血潮、泣き続ける女の子、咽るような夏の香り。
五感から刺激された印象だけが僕の意識には残っているのに、その全容を解き明かそうとすると途端にボヤけてしまう。
記憶の底より掬い上げても指の隙間から逃げ出す砂粒のように事件の記憶は曖昧だ。
ただあの日、誰かが泣いていて。
なにかを諦め、 なにかが終わった日だったことだけは明確に憶えている。
蒼天に爽快な音色が反響する。
少年たちが声をあげる。四角いベースの中で楽しげに繰り広げられる日常。
どこまでも伸びていく白球を遠いまなざしで見つめるとなぜか胸が詰まる。
溢れそうになる涙を堪えると俺は人形になった。
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冬の外気は心身を鈍らせてしまう。
それは教室内だろうと例外ではない。喉が張り付きそうな乾燥と身体中に染み渡るような寒気でいまにも血が凍りついてしまいそうだ。夕方だろうと日差しをまだ下ることもないというのに窓際はすきま風に晒されて肌身に染みる。
憂鬱になりそうな寒さだというのに教室内の空気は陽気さで溢れかえっていた。
時間にして16時過ぎ。そろそろ下校時刻ともなろう時間だというのに人の気配は止むことはない。
学生らしく自らが得た自由な時間を満喫しているのだろう。あとは今日は寒波が強いから下校に二の足を踏んでしまうというところも少なからずある。そろそろ本格的下校時刻になろうというのに下校しようとする生徒が本当にいない。
そのように授業を終えて多くの人間が思い思いの青春を過ごしているというのに、ひとり教室の隅で憂鬱そうにしている少年が居た。少年は着席したままクラスメイトから目を背けているように窓から外を眺めている。まるで今ある青春から背中を向けるように、今ある空気を否定していた。
「おーっす。“空汰“帰らないの?」
憂鬱そうに外を見ている少年に少女が話しかける。空汰と呼ばれた少年は自分を呼ぶ声に振り返るとハァと深い息を漏らした。
「もう帰る。けどこんなに寒いんじゃとても帰る気分になれないっていうかな」
名前は『風原 空汰』。近頃の若者にしては珍しい黒髪黒目。背丈は平均より若干高い程度だ。外見に関しても並より少しだけ上といったところだろう。世間的な評価に照らし合わせると平均となる。どこにいても目立たない存在として溶けるような容姿は逆に今の世の中では希少だ。特徴らしき特徴を持たない無個性こそが少年の個性なのかもしれない。
空汰を見下ろす少女は腰に手を当てたまま、ニッコリとほがらかに微笑んだ。
「あーたしかに。雪でも降りそうなレベルだもんね。てわけで帰るわよ」
「人の話聞いてたのかよ」
「んん?」
少女が髪を揺らしながら首を傾けた。
「俺は寒いから帰りたくないって言ってんだよ」
「どちらにしても帰らなきゃいけないんだから言っても無駄でしょ。ほら、立った立った」
正論だ。どちらにせよ帰宅しないっていう選択肢は有りえないのだからいつか帰るしかない。どちらにせよ帰るなら廊下が混み合わない今のほうがいいだろう。少女の言い分はもっともらしい、が。
「お前ん家は真逆だろ」
「チッチッチッ」と言って少女が自慢気に人差し指を振るう。
「今日はバイト。だからちょっとあたしに付き合ってよ」
「ああ、ゲーム屋だったっけ」
「そそ。女の子をエスコート出来るんだから喜べ少年」
「トモミが女の子ってタマかねぇ」
トモミと呼ばれた少女はクセッ毛のある髪を揺らしてニッカリと笑顔を漏らす。空汰の悪態を気にした様子が無いことから二人の中がそれなりに親密なのだということが覗えた。 ハツラツそうな少女の名は『友宮 朋美』。空汰と同じく黒髪黒目ではあるが髪質が若干違っている。空汰のほうはツンツンとした固い髪質なのだが少女のほうはクリンクリンとしたクセっ毛だったりする。天然パーマという言うのだろうか、肩に掛からないくらいのウェーブの髪を指でクルクルと弄びながら警戒心の無い表情で空汰を見ている。
「そもそも“カーチャン”は俺ん家からも離れてんだぞ」
「ケチケチしないの。友達だろー。珈琲くらいおごってやっからさー」
気持ちの悪くなる猫撫で声を出して近づく顔を手の平で押しのける。いつも通りの光景でもある、甘えるように近寄るトモミを追っ払うようにする空汰という構造だ。
「っと。陸上部は休みなのかよ」
「ん。ヤマコーが見合いとかで勝手に休みにしたのよ。自主練あったケドあたしはバイトを入れちゃった」
「あのヤマコーが見合いとか。まあ、なんにせよお金はあったほうがいいだろうしな」
「そっそ。金は天下の廻りモノって言葉もあるくらいだし稼げる時に稼いでおかなきゃねー」
腰に手を当てたままカラカラと女の子らしからぬ仕草で笑い飛ばした。中学時代からの付き合いのせいもあってか異性という感覚が完全に抜け落ちている。目線としては同僚、同級生、悪友って言ったところだろう。トモミのほうも同じ感覚で接しているであろうことが付き合い方でわかる。気兼ね無い付き合いという雰囲気がふたりの間には形成されていた。
「で、せっかくの女の子からのお誘いを蹴ったりしないわよね」
「目当てはどーせ俺の自転車だろ」
「ニッヒヒー、正解。キチンとあたしを乗せていけよ少年」
ニンマリと小悪魔のように笑うとトモミが空汰の肩をパンパンと叩いた。
加減の無い平手はすこし痛くて苦笑交じりにトモミを見上げる。どちらにせよ帰宅部である空汰は特に用事はない。なのでトモミの用事くらいには付き合ってもいいと思っていた。椅子を引いて立ち上がると「じゃあそうするか」と一言つぶやいた。
「お前に捕まったんだし仕方が無いって諦めるとする。てかお前、自転車くらい買えばいいだろ。バイトしてんだから金持ちなんだろうし」
「んー? 別に良いじゃない。毎日バイトに通うわけでも無いし。ケチケチしないで連れていきなさいよ清貧学生」
「ある時は大抵、俺が乗せて行ってる気がするんだけどな」
「気のせい、気のせい。さっ、行くわよ。出発しんこー!」
一瞬だけギクッとしたように眼を左右に振るが、すぐに機転をきかせて強引に話を切り替えるように持っていく。空汰のほうもあまりに唐突な舵切りに付いていけずに対応出来なかった。
「ほらほら、時間は待ってくれないんだから急ぐ急ぐ」
「お、おい。押すなっての。人にぶつかるだろ」
「そんときは素直に謝りなさい、美人だったらあたしに感謝しなさいね」
「無茶苦茶だな! お前」
背中を押されて机にかけていたカバンも取る暇を与えてくれない。慌ててカバンを手にするとトモミと一緒に教室を後にするのだった。