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第二章 ユニコーンと誘拐

 家に戻ったとき、トキヤもミレイも部屋にいなかった。そんなわけで俺たちは中央の部屋で二人の帰りを待つことにしたのである。そこまでは今のところごく当たり前の展開だ。

 正午を知らせる鐘が街に響き渡る。それでもまだ二人とも帰ってこなかった。

「トキヤが戻ってこないのはよくあることだけど、ミレイが鐘が鳴るまでに戻ってこないなんて珍しいな」

 テーブルで本を読んでいたレキは視線を上げてミキに言う。

「そうね。お昼ごはん、どうしようか?」

 ぞうきんを握っていた手を休めレキに問う。

 ミキが掃除をしていた理由は、物置場と化していた空き部屋を使えるようにするためだ。昨夜は突然だったこともあって俺はミレイの部屋を借りることになったが、今晩もそうするわけにはいかないだろう。ましてや修也までがお世話になろうとしているので、使える部屋は増えていた方が良い。どうやら彼女は俺たちを泊めることに賛成らしい。その気持ちに俺は感謝する。

「そうだなぁ。もう少し待たないか? きっと何かにつかまってるんだよ」

「だといいけど。――ところで、レキ。どうしてあんたは手伝ってくれないの?」

 不満そうに埃だらけの頬を膨らませる。手は腰だ。

 家に帰ってきてミキは部屋を掃除すると宣言をした。それに対してレキは「いいんじゃないの?」と答えただけで、自分の部屋に引きこもることもせずにテーブルで読書をしている。そんなこともあって俺は修也とはたいして言葉を交わすこともなく、テーブルに腰を下ろしたまま黙っていたのだが。ん、待てよ。

「見張りだから」

 ――あ、やっぱり。

 しれっと答えたレキの台詞に、ミキは頭を抱える。

「そんなことだろうと思ったわ。ったく、余計な心配をしているんじゃないわよ。この家のルールはあたしが守ってるの。そう簡単に破らせるものですか! あたしがちゃんと目を光らせておくから、ちょっと手伝ってよ。棚を動かしたいの」

 助けを求めるようにレキの視線がこちらに向けられる。俺にどうしろと?

「あ、だったら僕がお手伝いしますよ。何もしないでいるのもなんですから」

 レキが返事をしないでいると、参考書を読んでいた(試験が終わったばかりだというのにご苦労なことだ)修也がぱっと立ち上がってミキに言う。

「いえ。お客様にそんなことをさせるわけにはいきませんよ」

 首を一度横に振って答えると、レキを睨み付ける。

「じゃあ、私が手伝います。昨晩からお世話になっていながら何のお返しもできていませんし」

 すっと俺は立ち上がりミキににっこりと微笑む。

「気持ちは嬉しいですけど、重労働ですから。――ほら、レキ! あんたがすぐに動かないから!」

 つかつかとレキの後ろに立って背もたれに手をかける。

「だって俺、力仕事は嫌いだし」

 ミキの手を軽く払って自分から立ち上がる。とても不満そうだ。

「わがまま言わないの! この家のことはみんなで協力するっていうルール、忘れたの?」

「部屋の掃除はミキが勝手に始めたことだろう? トキヤの命令ならすぐに従うけど」

「……何がそんなに嫌なの? 全部ただの言い訳よね?」

 きょうだいで通じるものがあったのか(ましてや双子だし)、レキの様子に疑問を感じたらしいミキの怒っていた表情が心配げな表情に変わる。

「……別に」

 レキは何か言うのをためらったように口を動かし、ミキが掃除していた部屋に向かって歩き出す。

「あ、もしかして、家に男を入れるのが気に食わないの? 女の子を入れるのには賛成するくせに、そんなのおかしいわ!」

 すぐ後ろにくっついてミキが抗議する。レキはうるさそうな顔をする。

「否定はしねーけど、それだけじゃないさ。――とにかく、トキヤが最終決定権を持っているんだからな。ミキがでしゃばってくるところじゃないと俺は思うわけ」

「なにそれ」

 ったく、何言ってるんだかわからない、とミキの小言は続く。

 立ったままでいるのも何なので、同じく立ちっぱなしで様子を窺っている修也の袖を引っ張って座らせる。

「きょうだいっていいですね」

 どこかさみしげに笑んで修也が言う。

「気持ちが通じる相手ならマシだよ」

 思わず、うんざりとした気持ちのにじむ声で答える。俺にとって最も畏怖すべき存在の影が脳裏を過ぎったからだ。

「血のつながりって、結構すごいものだと思いますよ。僕にはきょうだいがいませんから、余計に憧れを感じるのかも知れませんけど」

 こっちを見ないで、どこか遠くに視線を向けて修也が言う。

 俺は現実を嫌と言うほど身にしみてわかっているからか、きょうだいに憧れを感じたことはない。姉貴がいなかったらいいと思ったことは実はないのだが(この場面で登場するなよと思ったことは多いけれど)、だからといって、いて良かったと思ったことも実のところない。迷惑な話題ばかりを提供する人間だ、という程度の認識。姉貴が俺をどう思っているのかは定かではない。

「ふぅん」

 再び参考書を手にした修也に、俺は相槌を打つことしかできなかった。

 ミキとレキが部屋から顔を出したのはちょうどそのあとで、トキヤが階段を駆け上がってドアを開けたのと同じタイミングだった。

「あ、トキヤ兄さん、お帰りなさい。ミレイ見なかった? ――何かあったの?」

 顔面蒼白で息を切らしているトキヤに、ミキはすぐに駆け寄る。

「なにごとだ?」

 台所に入って水を入れたコップを取ってくると、レキはトキヤに差し出す。トキヤは黙ってそれを受け取ると一気に飲み干す。

 しばしの沈黙。

 その緊急事態らしい様子に、参考書から目を離して彼らの方を見る修也と俺。昨日から見ているかぎりでは、トキヤは簡単には動じないタイプに見えたのだが……。

「みんな、落ち着いて聞いて欲しい」

 テーブルにコップを置いて、重々しい口調でトキヤは切り出す。空気が張りつめる。そこにいる全員の顔をトキヤは見る。

「……って、君、誰?」

 修也の顔を見てトキヤははたと頭に疑問符を浮かべる。――つっこむ前に本題に入ってください。

「その話は順を追って話すから。で、兄さんの話は?」

 緊張ムードが一瞬途切れたものの、ミキのツッコミで再びシリアスモードへ。

「みんな、落ち着いて聞いて欲しい」

 仕切り直しなのか、それとも単に本人が落ち着いていないだけなのか、トキヤは数秒前に口にした台詞を繰り返す。ごくりと唾を飲み込み、皆の顔がトキヤの台詞を聞き逃すまいという真剣なものに変わる。

「ミレイが……」

 ためらうようにゆっくりとトキヤの唇が動く。そして黙り込むと俯いてしまう。

「ミレイが、どうしたって?」

 先をなかなか言わないのでレキが促す。

 トキヤの額に汗が浮かんでいる。それは走ってここに戻ってきたからだけではなさそうだ。ということは、ミレイに何かがあったということ以外に思い浮かぶことはない。嫌な予感がする。そしてそれは的中した。


「――ミレイがユニコーンにさらわれた」


 ミキの顔から一気に血の気が引く。

「うそ……よ……」

 彼女はそう呟くと、そのまま後ろに倒れる。

「ミキ!」

 完全に倒れる前にレキが身体を支える。その反応が早かったように見えたのは、ミキが気を失うであろうことを直感的にレキが分かったからなのかも知れない。おかげでミキは気を失ってしまったものの怪我はしなかったようだ。

「――トキヤ、それ、本当なのか?」

 ミキを軽々と抱え上げる(お姫様だっこができるなんて羨ましい)と、トキヤを見ないでレキが問う。口調に棘が感じられる。

「嘘を言ってどうする! こんなこと、軽々しく言えるものか!」

 冷静さが感じられない。自分でも信じられないらしい様子が伝わってくる。

 俺だって信じられない。つい数時間前、ミキから相談を受けた心配事が現実になってしまった。そんなことが起きるなんて、正直あの瞬間は考えていなかった。ミキがこうして気を失ってしまったのだから、よほど気にかけていたのだろうことは容易に想像がつく。俺に何かできないだろうか。

「わかった」

 レキはミキを彼女の部屋に運ぶとすぐに戻ってくる。当事者の中で一番落ち着いているのはレキのようだ。意外だ。

「で、どうするつもりだ? 兄貴」

 名前で呼んでいるところしか見ていなかったので一瞬誰のことを言っているのか分からなかったが、レキはトキヤの真正面の壁に寄り掛かると静かに問う。

「どうするって……」

 トキヤはまだパニックに陥ったままらしい。状況を把握しきれていないようにも感じる。

「まさか兄貴、ミレイを見捨てるわけじゃないだろう?」

 射るような視線をトキヤに向ける。深刻な表情を浮かべるレキにはかなりの迫力がある。兄であるトキヤからはそんな迫力は感じられない。今ならレキの方が兄だと教えられたら納得してしまうだろう。

「見捨てたくはないが……」

 俯いたまま首を横に振る。半ば諦めているような様子を感じ取ったのか、レキは一気に間合いをつめるとトキヤの襟元を掴む。

「兄貴! こういうときこそしっかりしろ!」

 殴りかかるのではないかと感じて俺は思わず立ち上がる。だけどレキは手を出さなかった。

「兄貴がしっかりしなくってどうする! なんで俺が兄貴のことを名前で呼んでいるのか、忘れたとは言わせねーぞ!」

 レキの台詞でトキヤの瞳に光が差す。この兄弟の間に何があったのかはよく分からないが、心を動かすのに充分なものを持っていたのは確からしい。トキヤは襟元を掴むレキの手をそっと握って離させる。

「……これ以上、幻滅させちゃいけないよな。悪かった、レキ」

「手荒な真似して悪かったよ。トキヤだって、ミキみたいに気を失ってしまいたいくらいのショックを受けているはずなのに」

 トキヤから離れると自分の席に腰を下ろす。トキヤは空いている席に腰を下ろす。トキヤがいつも使っているらしい席に今は修也が座っているからだ(つまり、待っている間レキと修也が隣り合わせに座っていたことになる)。俺も合わせて座る。

 再び沈黙。一体どこから話したらよいものかわからない。

「あの……」

 沈黙を破ったのは修也。

「先に自己紹介をしてもよろしいでしょうか?」

 彼がこう切り出したのは、この場の空気を変えたかったからだ――と思いたい。

「え、えぇ」

 きょとんとして頷いたのはトキヤ。

「かくかくしかじかのいきさつでこの場に居合わせた修也という者です。なんかお取り込み中のようなので、出直しましょうか?」

 ――シーンから退場したかっただけか、お前は。

 ちなみにかくかくしかじかで俺が台詞から端折った部分は、彼なりにうまくまとめられていた。半分以上が作り話だったけれど。

「いや、シュウヤ君。君もいてくれて構わない」

「ですが……」

「せっかくだ。意見を募りたい」

「わかりました」

 戸惑う修也に対し、一家の主は真っ直ぐな眼差しで見つめて引き留める。俺としてもここに修也がいてくれた方が頼もしい。頭の切れる修也のことだ、何か良いアイデアを出してくれるんじゃないかと期待してしまう。

「意見を募りたいってことは、作戦会議か?」

 黙って何かを考えていたレキが視線をトキヤに向ける。

「やるしかないからな」

 あまり気が乗らないらしく、表情をわずかに曇らせて答える。ひょっとすると、トキヤもこの町の連中と同じユニコーン崇拝者なのかも知れない。

「……なら、情報をください。お手伝いいたします」

 ちらりと俺に視線を向けたあと、トキヤとは正反対にやる気満々の様子で修也が言う。

 かくして、俺に意見を求められないまま(別に嫌なわけではないが)ミレイ奪還作戦の会議が始まった。



 会議終了の合図はどこからともなく響いてきたお腹の音だった。ぐぅという声の合唱。つまり、ここにいる人間全員が空腹を訴えていたのである。

「――そういえば、昼食がまだだったな」

 そう切り出したのはトキヤ。完全に落ち着きを取り戻しており、レキとのやりとりもいつも通りに戻ったようだった。会議のおかげもあって状況を受け入れることができたのだろう。

「……ミレイがいないんじゃ、外で何か仕入れてくるか」

「仕方がないな」

 トキヤが返事をすると、レキが面倒くさそうに立ち上がる。

「作らないんですか?」

 ふとした疑問が思わず口から漏れる。確かに食事を作るのはミレイの担当で、しかも彼女は誰からの手伝いを受けようともしなかった(入ってくるなと睨まれたくらいだし)。

 その問い掛けに、二人は一瞬だけ固まった。

「?」

 俺が首を傾げると、トキヤがひきつった笑顔をこちらに向ける。

「この家にはこの家の事情があるんだよ。とにかく、君たちは待っていてくれ」

 その台詞に、レキははたと気付く。

「いや、二人を残すのはマズイ。この男はミノルさんを襲ったという前科がある。ましてや、ミキを残して行くわけにはいかない」

 冗談を言っているような口振りではなく、本気で心配するかのようにレキがトキヤに説く。状況だけを考えればレキの言うことはもっともだ。何処から来たのかわからない男を、女の子が残っている家に置いていくなんてできないと考えるのは自然だ。

 そこまで俺は考え、組み合わせを瞬時に導く。

「じゃあ、私がトキヤさんと一緒に買い物に行くってことでどうでしょう?」

 悩むトキヤに対し、俺はぴっと右手を挙げて提案する。買い物に行くのはトキヤかレキ、残るのが俺か修也ならこれが一番妥当な組み合わせだろう。

「なんでトキヤを指名するの?」

 少しむっとして、残念がるようにレキが言う。――悪いが、第一印象のせいで拒否反応が出てしまったのだから仕方がないと思ってくれ。

「わかっているくせに、野暮なことを訊くなよ」

 笑いながらトキヤがツッコミを入れる。その声には温かみと優しさがこもっていた。もう大丈夫のようだ。

「ご指名とあれば、俺は喜んでその申し出を受けましょう」

 トキヤは俺に向かって優しげな笑みを投げる。俺も微笑み返す。レキと修也のさみしげな視線が視界に入ったが気付かない振りをする。正直、男にモテても俺は嬉しくない。

「行きますか」

 俺は立ち上がるとトキヤの隣へ。そのまま階段を下りた。



 しばらく黙ったまま通りを歩く。通り過ぎる人間の視線がこちらに向けられているのに気付いたが、それらを完全に無視する。始めはユニコーン伝説の御姉様と呼ばれる存在となった俺だけに向けられているものと思っていたが、どうやらそれだけではないらしいことに途中で気付く。――そういえば、ミキと一緒に出歩いていたときも見られていなかったか? てっきり俺のこの容姿の所為だと思って気にしていなかったけど……。

 視線をトキヤの顔に向けると、それに気付いたのか彼はこっちを見てにっこりと笑う。

「どうかしたかい?」

「いえ……」

 視線を前に戻す。この町の人間との間に何かあったのかと訊ねても良かったのだが、あれこれと彼らきょうだいのことを聞くのはよくないかもなと思ってとどまる。誰にだって他人に話したくないことを一つや二つは持っているはずだ。ましてや昨日会ったどこの何者ともわからない人間に話せることも限られてくるだろう。彼らは俺や修也を快く受け入れてくれたが、それはただの情けからくるものかもしれないわけだし。

 ……ずっとお世話になるわけにもいかないのだ、という当たり前のことに今更気付く。

「ミノルさん?」

「はい?」

 声を掛けられたのでトキヤを見上げるが、彼は真っ直ぐ前を向いたままだった。正確には、どこか遠くを眺めていた。

「……本当に、行くつもりなんですか?」

 作戦で出た結論。

 それは俺がユニコーンの神殿に行くという単純明快な答えだった。作戦も何もない。おばば様が言ったとおりのことを俺が実行に移す、それだけの話だ。ちなみにおばば様からいただいたありがたい言葉の全容は作戦会議で説明済みだ。また、ユニコーンの伝説についてもトキヤとレキに説明してもらったが、修也に伝説の情報が伝わった以外は何の進展もなかったことを付記しておく。

 トキヤの問いはさっきの会議の続きのようだった。

「行きますよ。どっちにしろ、私がユニコーンに会わなければ先に進むことができないみたいですし。ならば早かろうと遅かろうと行くしかないでしょうから」

 互いに声のトーンは低い。俺は決意を込めた声で淡々と答える。

「……一応、止めなくてはいけない立場なんだがなぁ。おばば様がそう言ったのなら、無理に引き留めるわけにもいかないね」

 視線をこちらに向けることなくトキヤはそう呟いた。

「止めなくてはいけない立場? どういう意味です?」

 俺はじっとトキヤの横顔を見つめる。何か彼は知っていて、それを隠そうとしているように感じられたからだ。

「無関係の人間を巻き込んでしまったようで申し訳ないからね。黙って俺たちが安全な場所にいるなんて、どう考えても都合が良すぎるだろう?」

 俺の考えとは関係なく、当たり前のことを当たり前のように言う。そこに演技は感じられない。だけど、その自然すぎる反応がかえって不自然に感じられることもある。彼の場合、長男という立場から我慢することが多くて、誰もが期待するだろうことをそのまま素直に演じることが得意になった、とか。

「でも、それだけじゃないんでしょう?」

 鎌をかけるつもりで俺は問う。だけど彼の表情にも態度にも変化はなかった。笑顔の仮面、恐るべし。

「それだけだよ」

 どのくらい歩いたのかわからない。トキヤは通りから少しはずれた場所に建っている店の中に入る。俺は彼の後ろをついて行く。

 扉をくぐってすぐに、部屋中に満ちている香ばしい匂いに気付く。それに混じった甘い香りは果物によるものか。トキヤが入ったのは、カウンターの向こうに設置された棚に焼きたてのパンを並べた店だった。

「いらっしゃいませ、トキヤ君。こんな時間に珍しいですね」

 入ってきた俺たちに気付いて、奥の工房らしき場所から出てきた女性が微笑む。緩いウェーブがかかった金髪の美人だ。聞こえてくる台詞が流暢な日本語というのが想像できない雰囲気を持っている。見た感じでトキヤとそれほど歳が違わないのかも知れないな、と思う(外国人の年齢なんてぱっと見ただけじゃピンとこないんだけど)。

「ちょっとキッチンを壊してしまってね。修理に時間がかかりそうなんだ。適当にパンを見繕ってくれないかな」

「わかりました――ところでそちらのお嬢さんは、町で噂の……? 面倒を見ているって本当なんですね」

 トングとトレイを手にとったあとに店員さんは視線を俺に向ける。顔は変わっていないにも関わらず、この格好だけで女の子と思われてしまうのが切ない。この地域でも女性しかスカートをはかないのだろうか。

「えぇ。いろいろありましてね」

「へぇ……」

 店員さんは何か言いたそうな目をしたあと作業に移る。彼女の瞳に蔑むような感情を感じたのだが、多分気のせい、だよな。

 ちらっとトキヤの顔を見ると、彼もまた何か言いたげな表情をしていた。それは店員さんがあーだこーだ呟きながらたらたらとパンを選んでいるのに苛立っているのではなく、もっと別のことを指摘したいような顔に見えた。やっぱり、なにかあるような気がする。

 結局、その帰り道も俺はトキヤとあまり話をしなかった。



 パンを買って家に戻るなり、ミキが俺の前に立った。

「良かった。目が覚めたんですね。気分はどうですか?」

 彼女が怒っているというのが気配だけでも分かった。だけど俺は何でもなかったような顔をして訊ねる。何を怒っているのかすぐにわかってしまったからだ。

「気分はどうですか、なんてよく言えたものね!」

「そりゃ言いますよ。心配していたんですから」

 にこにことして俺は答え、たくさんのパンが入った紙袋をテーブルに置く。部屋に美味しそうな香ばしい匂いが充満する。空腹の身体がそれを欲しているのがわかる。

「あたし抜きで勝手にそんな大事なことを決めないでよ!」

 涙声になっているのが耳に入って、俺はミキの顔を反射的に見てしまう。泣いている。

「だけど、私はユニコーンに会わなきゃいけないらしいから。それはミレイさんを救う救わないを置いておいたとしても同じこと」

 トキヤに話したことと同じことを口にする。

「あなただって、ユニコーンの件は解決したいんでしょう?」

 俺は続ける。ミキは首を横に振る。

「それとこれとは別問題! ミノルさんが行くことはないもの」

 悲鳴のような声でミキは言う。外野の男どもは俺たちのやりとりを黙って見ているだけだ。

「でも、それじゃあ……」

「あたしが行くわ!」

 ミキの宣言がこの場の空気を変えた。視界に入ったトキヤとレキの表情が明らかに強張っている。

「ちょ……ミキさん、冷静になってください。そうだ、きっとおなかが空いているから落ち着かないんですよ。食事にしましょう。パンが冷めないうちに」

「あたしはいらない。食欲がわかないもの」

「ですが、みなさんもおなかが空いていることですし、一度席につきましょう。ね?」

 俺が勧めると、ミキは涙を拭って目を伏せる。長い睫毛が湿っている。

「ミキ」

 声を掛けたのはレキ。彼女の後ろに回り込むとそっと抱き締める。

「ちょっとは落ち着け。寝起きなのと空腹で頭が回らないんだ。座って、一度リセットしよう」

 優しく囁く。ミキは黙ったままだ。ふだんなら「何をするのよ!」とかなんとか言ってはたき倒すところなんだろうと想像するが、ミキはすっかり落ち込んでいた。

「……だめねぇ、あたし。やっぱり」

 ミキは呟くと、レキの腕からそっと抜けて自分の椅子に腰を下ろす。視線は下を向いたままだ。

「――お腹、空いているでしょう? 食事にしましょう」

 わざと明るい声を出して俺が声を掛けると、各自席に座る。俺は昨晩から使っている席に、修也はミレイが使っていた席に腰を下ろす。――そう言えば、俺が使っている席って誰の席なんだ?

 それぞれの表情を見ようとまわりを確認する。空気が重いのがよく分かる。こんな状況じゃ、せっかくの焼きたてのパンのおいしさが半減してしまうことだろう。それがとても残念だが、今の俺にはこの場の雰囲気を和ませる力はなかった。



 食事は黙ったまま終了。とはいえ、この地方の仕来りなのかこの家のルールなのかは分からないが、食事中に会話がないのがこのきょうだい間におけるごく自然な風景らしいので仕方がないのかも知れない。

 ちなみに俺の家はできるだけ家族全員が顔を合わせて食事をするようにしている。といっても、朝は家を出る時間がまちまちなのでたいてい独りで食べるのだが、夕食はとりわけ用事がなければみんなそろって食べる。その風景はと言えば、姉貴が面白可笑しく俺の一日を根ほり葉ほり聞きだし、それを両親が笑いながら突っ込むというもの。俺としてはごく普通の高校生ライフを送っているつもりなのだが、姉貴の聞き出し方や話し方の所為で幾らにでも脚色されるのだから恐ろしい。

 ――今ここに姉貴がいたら、この空気を和ませてくれるのだろうか?

 ふとそんなことを思って――すぐに首を横に振った。今の俺の存在自体が姉貴にとってのとっておきのエンターテインメントだ。今会ったら何されるか分かったもんじゃない。修也みたいにこっちの世界に現れてみろ。もう俺の生きるべき場所はここですらなくなることだろう。おもちゃにされるに決まっている。

 ――まてよ。

 そこでふと思いとどまる。姉貴は俺が男だったから面白がっていただけで、女になったら興味を失うんじゃないか?

 ――そんなこともないか。

 再び思い直す。修也は俺が男だろうと女だろうと構わない感じだった。姉貴も同じ考えかも知れない。俺の存在自体がエンターテインメント。

 ……もう考えるのをやめよう。今直面している問題は俺のささやかではあるが永遠とも言える悩みの話ではないのだ。

「何か僕の顔に付いていますか?」

 不思議そうに問い掛けたのは修也。俺はどうやらじっと修也の顔を眺めていたらしかった。

「い、いえ」

 ぷいっと視線を逸らす。姉貴のことを思いだした所為で見つめてしまったのだろうけど、無意識とはいえ恥ずかしい。正面にいて見つめてしまったのなら言い訳ができるが、今修也はミレイの席、つまり俺の真横にいるのである。何をどう言い訳をしたものだろう。

「――きっと大丈夫ですよ。不安なのはここにいる誰もが同じでしょう」

 修也は俺にだけ聞こえるように言って立ち上がる。コップなどを片付けるつもりのようだ。今は皆重い面持ちのまま置いてあったパンの全てをしっかりお腹に収め終えたところだった。何だかんだ言っても、お腹がとても空いていたという事実だけは証明された。

「みなさんは休んでいてください。外野の僕が片付けておきますから」

 その一声にレキとトキヤが同時に顔を上げて修也を見た。

「いや、俺がやる」

 立ち上がったのはレキ。てっきり腰が重いタイプだと思っていたのだが違うようだ。いや、台所に何か問題があると考えるのが自然か?

「いえ、レキさん。居候になりそうな僕がすべきことですから。遠慮せずにやらせてください」

 にこにことしながら自分が使ったコップと皿を持って台所へ。修也の席から台所が近いというのはもちろんミレイが使っていた席だったからである。それが災いした。

「ちょっと待っ……」

 慌てて立ち上がったのはトキヤ。しかし声を掛けるのが遅かった。

「どわぁぁっ!?」

 一風変わった悲鳴とともにたくさんの物が転がり落ちる音。

 ミキが座ったまま片手を額に当てた。

「……やっぱりあたしも止めるべきだったみたいね」

 俺が慌てて台所に入ろうとすると、トキヤがすでに入口に立っていて侵入を妨げた。

「えっと……これは?」

 トキヤの背に問い掛けると、その返事はレキがした。

「ミレイの特製トラップ。――こうなると思っていたから俺が親切にも止めてやったというのに」

「トラップ?」

 罠? 何でそんな物が台所に仕掛けてあるんだ?

「大丈夫かい? シュウヤ君」

 音が落ち着くのを待ってトキヤが中に入る。俺は入口からそっと中をうかがうことにした。単純に中に入る勇気がなかったのだ。

「えぇ。全部かわしましたから」

 さらりとした回答。まだ舞っている埃の中で修也は何事もなかったかのようにコップと皿を持って立っていた。床に散乱する食器類とのコントラストが物々しい雰囲気を醸し出しているのだけど。

「……あぁ、かわしちゃったんだ」

 つまらなそうにもとれるトキヤの台詞。よく見るとナイフやフォーク等が床に刺さっていた。……殺意さえ感じられるトラップだな、これは。

「思いっきり引っ掛かってしまいましたけど、どんな仕組みで動いているのか分かったものですから」

 にこやかに修也は答える。――ってかお前、そんなんでいいのか? 怪我するかも知れなかったんだぞ? ――つーか、仕組みが分かったからといってかわせるものなのか? 俺はそこを是非とも詳しく知りたいところだ。

「無傷で立っている人間がいたと知ったらミレイは悔しがるだろうなぁ」

 事も無げに不謹慎なことをトキヤが呟く。やはりユニコーンの一件で、彼の頭のねじがゆるんだかはずれたりしたのかも知れないなと思う。

「そんな呑気なことを言ってないで、さっさと片付けましょう」

 部屋にずかずかと入ったのはミキ。だいぶ回復したようだ。

「待てミキ、そこは!」

 止めに入ったのはレキ。

「へ?」

 再びトラップ発動。

「うわっ!」

「痛っ」

 悲鳴を上げたのはミキで、痛みを訴えたのはレキ。飛んできた鍋からミキをレキが体を張って守ったのだ。その動作の素早さは俺の目でとらえきれなかった。瞬間移動をしたわけではないとは思うが。

「レキ、大丈夫?」

 ミキが心配そうにレキを上目遣いに見つめる(ここからじゃよく見えないけど、角度的にそうだろう)。

「ミキは下がってろ。台所のトラップを全て把握しているのは俺だけだ」

 強かに打ち付けた背中をさすりながらレキが答える。それを見ながら俺はレキを見直していた。結構良いヤツじゃないか。

「う、うん……じゃあ、お願い」

 おとなしくミキは下がり、レキに道を譲る。

「トキヤもシュウヤ君もここから一度出ろ。ここは俺が片付けるから、良いと言うまで誰も入るなよ」

「わかりました。……すみません。忠告してくださったのに」

 修也がトキヤに連れられながらレキに詫びる。それに対しレキは苦笑して首を横に振る。

「気にするな。ちゃんと説明をしておけば良かったというだけのことを怠った俺たちも悪い」

「ですが」

「――面白いものを見せてもらったからな。こんな片付けぐらいどうってことない」

「?」

 レキの台詞は呟きで、俺の位置からははっきり聞こえなかったのだが――確かにそう聞こえたのだった。修也の不思議そうな表情からもその台詞が確かであることを想像させる。

「レキがやると言っているんだからやらせておけばいい。それに、勝手を知らない人間が手伝ったとしても仕事が増えるだけさ」

 トキヤが説明すると修也は渋々頷いて台所から出てきた。

「すみません。レキさん、トキヤさん、ミキさん。僕……なんの力にもなれなくて」

 すっかり落ち込んだ様子の修也。確かにここにいるだけでは歯がゆく思うだけだろう。緊急事態のときに全く関係のない人間が転がり込んでいる状態なのだ。俺は訳有りでユニコーンとの間に接点があるが、彼には何にもないのである。どうしてここにいるのか、その存在理由が見つからない。修也が落ち着かないのも理解できる。

「いいのよ。それはそれで。――きっと、あなたの出番が今ではないと言うだけのことなんだわ。あたしたちの力になることがあなたの役目ではないのかも知れないし」

 優しげに笑んでミキが慰める。

「ですが、余計な仕事を増やしてしまったみたいで申し訳がないです」

 ますます暗くなる。いつもの俺ならもっと簡単に修也を慰めることができるんだけどな。俺は黙っている。

「いやいや。おかげで少しは気が紛れたよ」

 トキヤがうなだれる修也の肩にそっと手を置く。

「無理に役に立とうと思わなくて良い。ここから追い出したりはしないから」

「トキヤさん……」

 泣きそうな顔でトキヤをじっと見つめる。

「……あんまり優しくしないでください。惚れそうですから」

 ずさささささ。

 テーブルのある中央の部屋にいた全員が一瞬にして修也から離れた。顔が青ざめている。

「……あ、冗談ですよ? 今の」

 けろっとした表情で修也が言う。――いや、お前、さっきの台詞は本気だったろう?

「片付けが終わったぞ……って、何かあったのか?」

 青い顔をして修也から離れたまま視線も逸らす俺たちに、不思議そうな声で台所から出てきたレキが問う。どうやら修也とトキヤのやりとりが聞こえていなかったらしい。

「いえ、なにもないですよ」

 本当に何事もなかったかのような明るいトーンの声で修也が返す。

「いや、それにしては様子がおかしくないか?」

 不信感全開のレキの声。そりゃあ自分のきょうだいの反応とついさっき知り合ったばかりの男の話と比べたら、怪しいと思うのは自然だと思う。

「ユーモアが理解されなかっただけですよ。――さて、これからどうします?」

 さらりとかわして修也は話題を変える。――そうだ、まだ詳しい方法は決めていないのだった。

「そ……そうだな。どう動くか、細部をつめるか」

 トキヤが言い出し、各々自分が使用している席に移動する。話し合わなければならないことはまだたくさんあった。

「先に断っておくけど、あたしは絶対に反対だからね」

 席につくなりそう宣言したのはミキ。食事後も意見が変わらなかったようだ。

「反対するとして、他の代替案はあるのか? 俺はお前が行くというならミノルさんが行くことを勧めるね」

 厳しい口調でミキを諭したのはレキ。難しい顔をしている。

「だっておかしいじゃない。ミノルさんはミレイの件については無関係なんだから、そんな人を巻き込むわけにはいかないわよ」

 ミキの意見はもっともだと思う。俺だって本当はユニコーンの神殿なんていう物騒な場所に行きたくはない。だけど無視し続けるわけにもいかないだろうという気がするので、ならばこのタイミングで行ってみるべきだと判断しただけのことだった。

「確かにミノルさんに厄介ごとを押しつけて俺たちが傍観しているという構図には納得しがたいものがある」

 そう意見を述べたのはトキヤ。トキヤは俺がユニコーンに関わるのを反対しているらしいことは昼食の買い出しの時に聞かされていた。どうして反対しているのか、その理由がいまいち見えていないのだけども。

「でしょう? トキヤ兄さんも一緒に反対してよ」

 ミキがトキヤを期待の眼差しで見つめる。しかし彼はすぐに表情を曇らせた。

「だといって、ミキをあそこに行かせるわけにはいかないよ」

「じゃあ何? 兄さんたちはミノルさんを人身御供にしても良いと思っているわけ? そんなの絶対におかしい!」

 ミキは机を叩いて身を乗り出す。向かい側に座るトキヤとレキは悲しげな目で妹を見つめる。

「私は――」

 仕方なく俺が切り出す。俺の話をしているのにその当事者が無言のままというのも変な話だろう。すぐにみんなの視線を集める。

「私は構いませんよ。何度も言っていますが、ユニコーンに会うのは宿命のようなもの。私が神殿に行くのはミレイさんが誘拐されたからだけではありません。私自身のためでもある。だからみなさんは私に全てを任せて待っていてください」

「だけど!」

 ミキの台詞に俺は首を横に振る。

「行かなきゃならないのは私です。行ったままなかなか戻らなかったときにはまた話し合いをして決めて下さい。それじゃあ不満ですか? それとも、私じゃ不安だとおっしゃるのですか?」

 俺はミキを真っ直ぐに見つめる。ミキは再び瞳に涙を浮かべながら下唇を噛んだ。

「ミキ、座れよ」

 淡々とした口調で言ったのはレキ。どうもレキはユニコーンの件に何らかの感情があるらしく、なにやら重い空気を放っている。軽いノリが全く感じられなかった。

「……」

 ミキはレキを睨んでいる。どこか恨めしそうな目。

 ここではたと気付く。ユニコーンがこのきょうだいにもたらした悲劇(でいいのか?)はこれが初めてではないのではなかろうか。俺が使っているこの席に隠された秘密だとか、使われていなかった五つ目の部屋とか、ひょっとしたらトキヤとレキの関係にも関連したことなのかも知れない。何かがこのきょうだいの間にはあって、それが今回の件に密接に関わっているのではないか。

 ――考えすぎだな。聞いても役に立ちそうもないことだ。今はミレイさんを連れ戻すことを考えないと。

「座れ。落ち着くんだ」

 立ち上がったままのミキに静かにレキは言う。まっすぐ彼女の目を見つめている。

「……また……逃げるの?」

「!」

 ミキの台詞に反応したのはトキヤだった。顔色が悪い。

「そんなに当事者になりたくないの? ずるいわよ。あたしはもうあんな思いをしたくはないのよ! 確かに今回はあのときと状況が違うわ。ここには伝説の御姉様と呼ばれる存在がいるし、あたしだって充分大人になったわ。助けに行くことはできるでしょう? 救えるのよ。だからあたしは誰かに任せるんじゃなくて、あたしが救ってあげたいの!」

「……もう言うな、ミキ」

 レキは席を立つとミキの後ろにまわり、強引に椅子に座らせた。俺の向かいに座るトキヤは俯いたまま頭を抱えている。

「ミキさん、私を信用してください。必ずうまいこと話を進めてきますから」

 ――何の策もないけれど。

 俺の説得力のない単なる気休めの台詞に、ミキは両手で顔を包んで泣き出しただけで何の返事もしなかった。レキが俺に視線をよこす。

「ちょっといいかな、ミノルさん。来てくれないか?」

 手で招くレキに俺は小さく頷いて立ち上がる。歩き出した彼の後ろを俺がついていくと部屋に通された。

 レキの部屋もミレイの部屋と同じくらいの大きさで、本棚とベッドと机があった。壁にはクローゼット。なかなか片付いているが、物がやや多いように思えた。

「ベッドにでも座ってくれ」

 押し倒したりしないよな、と不安に思いつつもおとなしく言うとおりにする。レキはドアを閉めるとそこに寄り掛かった。

「何の用ですか?」

 俺は小さく首を傾げてレキを見上げる。俺とレキの間は両手を広げたくらいの充分な距離があった。

「ミノルさんは関わらない方がいい」

 突然何を? だいたい俺が神殿に行くことに一番早く賛成票を投じたのは彼ではなかったのか?

 俺が訝しげに見つめていると、レキは真剣な表情で返した。

「もう気付いているかも知れないが、ユニコーンと俺たちが関わるのはこれが初めてじゃないんだ。それぞれになんかしらのわだかまりを抱えている。ミキやトキヤは見ての通りだし、さらわれたミレイだって別の思いを抱いていたはずだ。もちろん、俺も」

「それって、私が使っているあの席にも関連していますか?」

 何とはなしに聞いてみる。レキは小さく頷いて視線を逸らした。

「俺は君を見つけたとき、これで救われるなとどこかで期待していた。御姉様と呼ばれる存在がどんな力を持っているのかは分からないが、ユニコーンと対等に話をできる存在だとは思っていたからな。ユニコーンからこの町を救えるならそれで良いと思っていた。――だが」

 レキはそこまで言って再び俺と視線を合わせた。

「個人的に俺は君に行って欲しくはない」

「それはまた随分なお願いですね。勝手すぎます」

 にっこりと微笑んで俺は答える。レキは苦笑する。

「まぁ、そうだな」

「私は神殿に行く用事がある。だから行く。ミレイさんのことがあろうとなかろうと、ね。どっちみちじっとしていても何も変わらないでしょう? 私はこの状況を変えなくてはいけないようですから」

 やる気はなくても、元の世界に帰る方法を知っているのがユニコーンくらいだと考えているので会う必要はあるだろう。向こうは神に近い存在なのだ。何かしらのヒントは得られるはず。っても、命と引き替えになりそうな気もしてはいるのだが。

「――君を行かせない方法が一つある」

 唐突にレキが切り出す。俺は反射的に立ち上がる。

「冗談はやめてください」

 笑んだつもりだが、どう考えてもひきつっていたことだろう。身の危険を感じる。

「君が『御姉様』の名を返上すればいいだけのこと」

 レキが動いた。俺に襲いかかってくるような感じの、いや、襲いかかってきた!

 ――マジっすか?

 しかし部屋は狭い。それにレキにとっては使い慣れた部屋だ。おまけに向こうが出入口をふさいでいるのだから俺には逃げ場がない。

 ピンチだ。

 思わず俺はポケットに入れっぱなしになっているケータイに手をやった。

 突然の大音量の着信音。

 レキは怯んで後退し、俺は俺でびびっていた。

 ――このタイミングでケータイが鳴り出すとは。しかもこの曲は……。

 びっくりしていたのは束の間で、ワンフレーズが終わらないうちにいつもの習慣で電話を取っていた。目の前の状況に加えて前触れなくわめきだすケータイもあって、気が動転していたのだと思う。耳に入ってきた声は聞きなれた女の子のものだった。

「ねぇ、周君? なつめさんに電話掛けたら、現在使われてないとか何とかってアナウンスが流れるんだけど、最近ケータイ変えたの?」

 その電話は朝比奈菜摘からだった。とてものんきな口調で、さして緊急性を感じない様子。俺は黙って切ってしまおうかとも思ったが、ここで思い直す。

 ――まさか彼女までこっちに来たりしないよな?

 目の前にいるレキはこちらの様子をじっと窺っている。強引に行動に移そうとはしないらしい。電話のおかげで少しは冷静になったのだろうか。

「悪いな、朝比奈。俺は姉貴の動向については全くノータッチなんだ。少なくとも、姉貴が新しいケータイにしたと言って見せびらかすようなことはなかった」

 いつもの口調でごく普通に返事をする。現在のやや高めの声は無理をして低めに演出している。菜摘ならそこまで気に留めたりしないだろうと高をくくっていると、彼女は不思議そうな声を漏らした。

「あれ? なんかおかしくない?」

「何が?」

「声よ、声。まさか本当に女の子になっちゃったとか?」

 そう言って、自分で自分の考えが受けたのか笑っている。

 ――笑えないっすよ、その冗談。

「……とにかく、そういうことなんだから切るぞ。こっちは取り込み中なんだ」

「取り込み中って?」

 興味津々の台詞。要らぬ情報を与えてしまったとこのときばかりは反省した。

「関係ないことだよ。じゃあな」

 視線をレキに向けたまま俺は耳からケータイを離すと電源ごと落とす。耳から離した後も何やら菜摘は喋っていたが、それらはすべて無視する。俺をあんなにもあっさり振っておきながら、何食わぬ顔で友達を続けてくれる彼女の気持ちがよくわからない。つーか、姉貴とのパイプ役にされているようで腹が立つ。もうほっといてくれ。今朝の夢もあって俺の心はデリケートな状態なんだ。

「――さて、少しは冷静になったかしら?」

 気持ちを切り替えると、俺はケータイをポケットにねじ込みながら問い掛ける。

 レキは呆然としていたようだったが、俺に声を掛けられて正気になったようだ。小さく頷くとにこっと微笑む。

「?」

 ただならぬものを感じ、俺は再び警戒する。レキが出入口をふさいでいるという状況には変わりない。

「さっきのヤツを使うと、誰かと会話ができるわけだ」

 当然のことをレキが確認する。俺にとってはごく当たり前のことだが、ケータイなんてものが存在しない(だろう)世界にいる彼から見れば不思議な光景だったことだろう。あんまりこっちの世界の連中に見せたくはなかったのだけども、所詮は過ぎたことだ。記憶を消すなんて器用なことができるわけではない。

「えぇ、まぁ」

 あえて俺は詳しい説明をせずにお茶を濁す。細かいことを話してはいけないような気がしたからだ。こっちの世界にはこっちの世界のテクノロジーというヤツがあるはずで、むこうのテクノロジーをこんな形で持ち込むわけにはいかないと思うのだ。ま、俺がケータイでできることを説明したところで、今すぐこの世界にケータイが普及するなんてことはありえないとも思うのだけども。

「ふぅん」

 レキはそれだけ言って、一歩俺に近付く。

「な、何?」

 合わせて俺は一歩退く。まだあきらめていなかったのだろうか。

「……」

 笑顔を作ったままレキはじりじりと俺を壁際に追い詰める。後ろはすぐになくなった。冷や汗。

「あ、あの……」

 彼はとんと片手を壁に置いて、もう片方の手を俺のあごに当てた。レキのまじまじと見つめる視線が俺の顔をなぞる。

「放して……」

「君は何者なんだ?」

 まっすぐな瞳が俺の目を覗く。あごを固定されているので顔をそむけることはかなわない。

「え?」

「君は何者なんだ?」

 レキは繰り返す。ボリュームを下げて、それでも迫力のある声で。

「だからそれは」

「御姉様がどうのという話じゃない。君はどうしてここにいる?」

 それは俺が一番知りたい。異世界らしきところにやってきて、しかも女にされてしまったという屈辱。何がなんだか俺にもさっぱりわからない。

「……」

 俺が黙っているとレキは続ける。

「――俺が初めて君を発見したとき、君は自分が男だと言った。今の君の身体が女であれ、あの台詞は本当だったんじゃないか?」

「!」

 気付いたっていうのか? まさか。

 別に隠していたわけではない。話がややこしくなるのを避けて俺は今の俺の状況を説明しただけである。だが。

「……やっぱりそうなのか」

 俺の瞳に何が書いてあったのかはわからないが、レキは難しそうな表情を作ると俺を解放した。

「なんでそう思う?」

 息を大きく一度吸い込んで出た台詞。心臓がバクバクしている。ドキドキなんていう可愛いものではないのは確かだ。

「これでも女を見る目は確かなんで」

「変な自信だな」

 俺は小さく笑う。口調も元通りだ。今更演技していても仕方がない。

「好きなように思ってくれて構わないさ」

 レキも小さく笑った。

「で、俺の正体が知れたところでどうだって言うんだ?」

 ベッドに腰を下ろすレキの前を通ってドアに移動する。これで退路は確保した。一応、念のため。

「どうもしないよ。君に神殿に行ってほしいと思わないって所は変わらない」

「じゃあ……」

「とはいえ、ここでずっと黙って見ているわけにもいかないだろう」

 だからどっちなんだと俺が突っ込みを入れようとして、レキは台詞を続けた。

「――どうせだ。みんなで行こうじゃないか」

「み……みんなで?」

 おそらく俺の表情は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたことだろう。そんなこと、全く考えていなかったぞ。

 レキは俺の台詞に対して力強く頷く。

「そうだ。みんなで行けばいい。責任を押し付けあうのは馬鹿らしい。ユニコーンの怒りを食らうかもしれないが知れたことか」

 レキの台詞には明らかな怒りがこもっていた。よほどの恨みがあるらしい。

「いや、まぁ、いい案だとは思うけど……それってこの町の連中が許さないんじゃないのか? ユニコーン信者の連中は黙っていないだろう? なにしろルールがあるわけだし」

「それこそ知ったことか。あいにく俺はユニコーン信者じゃないのでね」

 なんだ、この投げやりな様子は。

「あの……ひょっとして、俺が男だったってことにショックを受けていたりするのか?」

 恐る恐る問い掛けてみる。レキは首を横に振っただけでこちらを見ようとはしなかった。図星と見た。

 なんだろう。ここのきょうだいの精神状態がとっても暗いんだが(しかもかなり不安定だ)。どうにかしてやりたい気もするが、俺にはなんの手立てもない。もどかしい。やれることといったら一刻も早くユニコーンのところに行って、元凶をぶっ飛ばすくらいか。

「とりあえず今のアイデア、皆さんに説明してきますね」

 俺はドアを開けてテーブルのある部屋に移動する。

「!」

 トキヤ、ミキ、修也がいるはずだった。――そう、いるはずだったのだ。なのに俺の目には……。

「トキヤさん? ミキさん?」

 昨日から世話になっているはずの部屋。さっきまで食事をしていた部屋。だのに誰もいない。

「梶間?」

 おかしい。物音一つしていなかったはずなのに。

 イリュージョンみたいにきれいさっぱり消え去っている。俺の目がおかしくなったのか?

 慌てて俺はレキのいた部屋に引き返そうとするがそこでまた驚いた。

「なんてこった……」

 ドアがないのである。この部屋に通じていたはずのドアがないのだ。しかもレキの部屋だけではない。ミレイの部屋、ミキの部屋、トキヤの部屋に繋がっていたはずのドアがすべて消え去っている。

「ちょっと待ってくれ」

 俺は片手を額に添える。幻でも見ていたと言うのか? それにしてはおかしいだろう。それだったら俺が元の、あのスクールライフの待つ世界に戻っているほうが絶対に自然なのだ。これでは中途半端すぎる。ここはどこなんだ?

 そこまで考えたところで俺はある確認方法に思い至った。空を見ればいい。

 俺は外の通りに向けられた窓に近付いて空を見上げた。

 ――青い。

「ここはどこなんだ?」

 緑色の空はない。真っ青な空。俺がよく知っている違和感のない空がそこには広がっていた。だからといってここが俺のよく知る世界とは限らない。――別の世界にまた飛ばされてきてしまったということか? 俺に一体どうしろと?

 俺が途方に暮れていると、ある気配が背後に近付いてきたのを感じ取った。すぐに振り向く。

「!」

 悲鳴にも似た声にならない声。俺は両手で口元を押さえた。

「初めまして。私の御姉様」

 真っ白な少年がそこに立っていた。長い髪は絹糸のようで、顔は降り積もったばかりの雪のように白い。衣装もまた真っ白で、布を巻いたようなデザインである。額に小さな角が一本生えていた。

「ユニコーン?」

 ぶっ飛ばしたいと思っていた相手がいきなり俺の目の前に現れたらしかった。白い少年は俺の問いにこくりと頷いて微笑む。

「どうも私の思惑とは別の方向に話が進みそうでしたので、説明に参りました」

「説明だと?」

 俺は振り上げそうになる拳を何とか押さえる。表情に影があったからだ。

「この姿は仮の姿です。私の力を持ってあなたにのみ聞こえるよう操作しています」

「状況説明はいい。本題を話せ」

 やんわりと、ゆったりとした喋り方をする自称ユニコーン(俺がそう言ったんだけど)は困ったような表情を作った。

「私の力を悪用する者がいます。今私はその人物に捕らわれ、私の意思に関係なく力が使われているのです」

 そんな話、初めて聞いたぞ。俺がぽかんとしている間も彼は話を続ける。

「この町の少女を神殿に呼んでいるのもその人物です。私の意思ではありません」

「なんだって? ちょっと待ってくれ。だってユニコーンにさらわれるところをこの町の連中は見ているんだろう?」

 少年は悲しそうな顔をして首を横に振る。

「私の力を使って記憶を操作しているに過ぎません」

 この世界では記憶操作が可能なのか。ごく限られた人間しか使えないのだろうが。

「あんた、囚われの身だといったが、そんなことが可能な人間なんているのか? 他のユニコーンの仕業とか何とか、身内でもめているって話じゃないのか?」

 少年は再び首を横に振る。つらそうな表情はそのままだ。

「相手は人間です。ですからあなたを選び、こちらにお呼びしました」

「どうも呼ばれた相手は俺だけじゃないようだが」

 修也もどういうわけか緑色の空を持つ世界にやって来てしまっている。それをどう説明してくれるのだろうかと期待して見つめていると、彼は首を傾げた。

「他にいる、と?」

「あぁ。俺の知り合いなんだけど」

「……まさか」

 まさかなんだと言うのだ? 彼は腕を組んでなにやらぶつぶつと独り言を呟いている。

「あの……」

 俺が促すと彼は視線をこちらに向けてにっこりと笑んだ。

「事態はややこしくなっているようですね。でも大丈夫です。あなたが私を解放してくれさえすればすべてが元通りになることでしょう。その姿も元に戻りますよ。あなたのいた世界にだってちゃんと帰して差し上げます。ですから、お願いです。私をかの者から解き放って下さい。そのためにあなたをここに呼んだのですから」

 彼の姿が消えていく。ぼんやりと霞んで……。

「待て、まだ訊きたいことが……!」

 慌てて俺が手を伸ばしたときには彼の姿はなかった。代わりにあったのは……。

「どうかしたかい? ミノルさん?」

「へ?」

 声につられてテーブルを見ると、そこにはレキの部屋に入る前と同じ場所に彼らがいた。声を掛けてきたのはトキヤである。不思議そうな顔をしている。

「レキの部屋から出てくるなりぶつぶつと独り言を呟いて窓の外を覗いていたけど、大丈夫?」

 ミキが立ち上がって俺のそばまでやってくる。心配そうな表情。

「まさか、レキに何かされたの?」

 俺の身体をぺたぺた触りながらミキが不安げに問う。――くすぐったいんだけど。

「しねーよ、ミキ。この家のルールは守っているつもりだぜ?」

 ミキの問いに答えたのは部屋から出てきたレキだった。表情にはもう明るさが戻っている。

「信用ならないのよ」

 俺から視線をレキに移して小さく膨れる。

「信用しろよ。きょうだいじゃないか。しかもおんなじ日に生まれた片割れだろう?」

 レキは軽い茶化すような口調で言うと自分の席に腰を下ろす。

「そういう問題じゃないのよ」

 ぷいっと顔をそむけると俺をじっと見つめる。

「何か?」

「レキに何かされたらすぐに連絡してちょうだいね」

 小さくウインクをすると彼女もまた自分が使用している席に戻る。

 どうも俺がユニコーンと謎の電波通信をしていた間にそれぞれ何とか落ち着いたらしかった。

「それで話の続きなんだが」

 切り出したのはレキ。視線が彼に集まる。

「いっそみんなで神殿に乗り込むっていうのはどうだろう」

 表情を凍らせたのはトキヤ。しかし他の面子の表情は朝日が窓から差し込んできたみたいにまぶしかった。

「みんなで? あたしも行って良いってこと?」

「なるほど、それならじっと待っている必要もありませんし、安心といえば安心ですよね」

 嬉しそうに振舞うミキに納得顔の修也。これで責任は分散されたわけだ。俺は視線をトキヤに向ける。

「トキヤ、行きたくないなら無理にとは言わないよ」

 血の気が引いたような顔をしているトキヤにレキが不安げな口調で伝える。トキヤがユニコーン信者であるのは自明のようだ。

「い、いや。レキもミキも行くと言うのなら俺もついて行くさ」

「無理しなくていい。中途半端な気持ちでついてこられたんじゃ足手まといになる」

 実の兄に対してとは思えないレキの言いっぷりに俺は疑問を覚える。そこまで兄に対して幻滅するようなことがあったと言うのだろうか。

「これは俺の意思だ」

 吹っ切れたような瞳がレキに向けられる。迷いが幾分か消えた瞳。顔はまだ青かったがじきに赤みが戻ってくるだろう。

「わかった」

 力強くレキが頷いたのと同時にミキが立ち上がる。

「そうと決まれば準備をしなくっちゃね!」

 彼女はすたすたと俺の後ろにやってくると強引に立たせた。

「え?」

 きょとんとする俺をミキは引きずるようにしてぐいぐい引っ張る。何が始まるというのだ?

「着替えよ、着替え。神殿に乗り込むからにはそれ相当の格好をすべきでしょ?」

 ミキはそう言って俺を見る。

「確かにそうだな。仮にも神殿だ。それなりの格好で行ったほうが町の連中にも怪しまれずに済むだろう」

 納得顔のトキヤは妹の台詞に繋げて席を立つ。

「あたしは自分のがあるけど、予備はないの。ミレイのを着てもらえばいいかなって思ったんだけど、どうかしら? あのコは小さいからちょっと丈が短くなると思うんですけど」

「えっと……」

 ミキと俺の身長差は靴底の様子からしてもそんなにない。ヒールでどうにでもできそうな差である。おおよそ姉貴と俺の身長差程度なのだろう。くそ高いヒールを履いて見下ろしてくる姉貴の姿を思い出し、慌てて思考を切り換える。

 ミキに対してミレイはヒールに関係なく明らかに俺より小さかった。ミキとミレイがならんだところを思い出してみてもその身長差は見てわかる。俺のサイズがMだとするなら彼女はきっとSサイズだろう(男性サイズ比)。肩幅とか胸回りに問題はないのだろうか。

「とりあえず、合わせてみましょうか。ちょっと来て」

 ミレイの部屋に向かい、ミキが手招きする。俺は気が乗らないながらもついていくことにする。

 朝起きたときと何も変わっていない部屋。ベッドは直してあったが他の物が移動したような形跡はない。ミレイの部屋は必要最低限の物しか置かれていない殺風景な部屋である。その部屋の主が女性であるとわかるのは置かれている調度品の揃えられた色のためだろう。どこかモデルルームっぽい。

 ドアを閉めたミキはクローゼットを開けて中を探す。クローゼットの中もきちんと片付いていて、サイズや色でならぶ順番が決まっているらしかった。

「あれれ? おかしいなぁ。ここにあると思っていたのに」

 ミキはクローゼットを閉じて首を傾げる。

「見つからないんですか?」

 俺はベッドに腰を下ろして彼女の様子を窺っていたが、腕を組んできょろきょろする様子が気になって立ち上がる。

「えぇ。ミレイは服をこのクローゼットに収納していたはずだから、見つからないのは変なんですけど」

 他に服がしまえそうな場所はない。部屋にあるのはベッドと鏡台、本棚だけで収納できる場所はクローゼットだけ。

「ベッドの下って入りませんか?」

 ふと気付いてそこを指す。すぐに覗こうとしなかったのはキッチンのトラップを思い出したからだ。

「多分無理。そこにはミレイの工作道具が入っているはずだから」

 ――工作道具、ねぇ。

「見ても大丈夫でしょうか?」

 念のため聞いてみる。ミキは苦笑する。

「大丈夫じゃないかしら。保証しかねるけど」

 そう言われて一瞬やめようかとも考えたが、何だか妙に気になってベッドカバーの裾を持ち上げた。

 引き出しの取っ手があり、それを慎重に引っ張る。とても重く感じられたが、それは単に引き出しが古くてつっかかりやすいかららしかった。

「ん?」

「どうかしたの?」

 俺の不思議がる声にミキも覗き込む。――つまりその引き出しに中身はなかった。

「――空っぽ?」

「そうみたいですね」

 何かが入っていたらしい形跡は確かにあった。埃や汚れの付き方、傷やへこみ具合から使用されていたらしいことは推測できる。しかし、どうして空っぽなんだ?

「妙ね……」

 険しい顔をするとミキは離れる。空っぽの引き出しを見ていたところではどうにもならないので、俺は引き出しを戻すとベッドカバーを元あったように直した。

「仕方がないわ。ミノルさんがあたしの服を着てちょうだい」

「でも」

「あたしは別のを着るわ。御姉様の付き添いだって言えばなんとかなるでしょ」

 難しい顔を作ったままそう答え、くるりと向きを変える。

「いや、私は別にこの格好でも……」

「ううん。ルールはルールだもの。ちゃんとした格好で行ってもらわないと困るわ」

 ミキはすたすたと歩いていって部屋を出た。

「おや? もう着替え終わったのか?」

 その様子を訊ねてきたのはレキ。ほかの二人の姿が見えないのは、トキヤの部屋で着替えているからのようだ。

 それに対しミキは首を横に振る。

「ミレイのドレスが見つからなくって。仕方がないからミノルさんにあたしのドレスを着てもらうことにしたのよ」

 その台詞を聞いたレキの表情に変化があったのを俺は見逃さなかった。彼は何かに気付いている――俺にはそうとれた。

「そっか。それなら仕方がないな」

 そっけなくレキが答えると、ミキは自分の部屋のドアノブに手を掛けたところで振り向いた。

「ところでレキ?」

「ん?」

「ミレイの工作道具、知らない? ベッドの下の収納場所からなくなっているみたいなんだけど」

「なくなってる? しまう場所を変えたんじゃなくて?」

 わざとらしい不思議そうな表情。そんな双子の片割れのごまかしをミキは察していないようだ。

「あぁ、うん。知らないならいいのよ。きっとレキの言うとおりなんだわ。置き場所を変えただけね」

 台詞こそ大したことではないような感じであったが、ミキの表情は気に掛かることがあったような雰囲気を帯びていた。それはたぶん、レキの様子から判断したことではないのだと思う。

「もうちょっと待っててね。すぐに着替えるから」

 ドアを開けると再び手招き。俺は誘われるままについていく。

 ミキのドレスはすぐに見つかった。クローゼットに掛かっていた真っ白なロングドレスである。ウェディングドレスにありそうな感じだ。

「さ、着替えて。手伝うから」

 確かに独りで着るには厄介そうな服である。背中のホックを閉めるのはこのタイトなデザインからすると大変そうだ。俺は渋々言われるままに服を着替え始めた。



 数分後。

「あの……」

「なにか?」

 俺はもじもじとする。

「胸が……余るんですけど」

 おそらく耳まで真っ赤になっていたことだろう。かなり気恥ずかしい台詞だ。

 ミキの体格に合わせてこしらえられたらしいドレスは背の高さや肩幅の問題は簡単にスルーできた。しかし、この胸元のデザインはどうしても胸がないと様にならない。身体にぴったりとしたデザインであるからなおさらである。触ってやっとそれが胸だとわかる俺のスレンダーボディでは、見てすぐにそれが胸だとわかるプロポーションのミキのドレスが合うわけがない。これならまだミレイのドレスの方がしっくりきたことだろう(ミレイは最近よく見られる少年みたいにほっそりとした体格だ)。

「うーん……」

 じっとミキは俺の胸元を見て腕を組む。あの、恥ずかしいんですけど。

「何か詰めておきましょうか? そうねぇ、布とかタオルとか」

「いや、やっぱりこのドレスはミキさん自身が着るべきだと思いますよ。ここまで着せてもらっておいてなんですが、この服ってオーダーメイドなんでしょう? やっぱり持ち主が着るべきなのでは?」

 するとミキはすぐに首を振った。

「もうここまで着ちゃったんだし、遠慮することはないわ。……うん。タオルを詰めておきましょう」

 言ってタンスからタオルを引っぱり出す。その動きに違和感を覚えた俺は、二人っきりの間に聞いておこうと思っていた質問を投げることにした。

「あの、ミキさん?」

「ん? どうかしました? ミノルさん」

 彼女は手を止めてこちらを見る。笑顔がぎこちない。

「――ユニコーンとの間に、何かあったんですか?」

 レキに口止めされているわけではない。とはいえレキは俺の質問に答える気がなさそうだったし、トキヤに訊いたら発狂するか卒倒するかしそうなのでうかつに訊ねることはできないだろう。だとすればミキに訊くのが妥当なところではないだろうか。

「……え?」

 戸惑うような声。何かあったのは確かであり、彼女もまた何かの事情を知っているような感じだ。

「言いたくないなら良いんです。だけど、ミレイさんの件以外にも何かあったみたいな言い方だったものですから気になって」

 食後の会議での発言、そしてその態度。あれは明らかに今回の件以外にも事件があったことを示しているに違いない。

「……」

 ミキは黙っている。訊いてはいけないことだったのだろうか。

「……ごめんなさい。今の問いは忘れてください」

 追いつめるようなことをしてはいけないなと考え直し、俺は極力優しい口調を作って告げる。やはり興味本位で過去のことを訊くのは良くない。

「ううん。やっぱり、話した方がいいわね」

 ミキは顔を伏せる。俺は彼女が喋り出すのを黙って待った。

「――お父さんとお母さんが死んだあと、トキヤ兄さんの恋人があたしたちの面倒を見てくれていたんです。運送屋を始める前の話よ。まだミレイは小さかったし、あたしもレキも一人前というには半端な年頃だったから放っておけなかったのでしょうね。結婚を約束しているくらいの仲だったみたいだけど、婚約をしていたわけではなかった……。多分、兄さんなりにあたしたちのことを気に掛けていたのでしょう。

 ――そんなある日のこと、その年はひどい雨不足で町の水の全てがストップしてしまったの。それでユニコーンの神殿まで行って雨を降らすように祈りを捧げることにしたんです」

 ――この展開から察すると……。

「ユニコーンの神殿は基本的に乙女のみが入れるということになっているの。婚約をしていない年頃の女性が望ましい、と。町の人々は適任者を選ぶことにした。選んだのはおばば様。この町で一番の決定権を握っている人だもの。誰もが皆彼女の意見に賛成した。そしてその通知はトキヤ兄さんの恋人の元に届いた……」

「!」

 やっぱり。俺は息をのむ。

「トキヤ兄さんは迷っていたみたいだけど、彼女はおばば様が任命したのだから私が行くべきだといって譲らなかった。それに祈りに行くだけだったしね。そして彼女は神殿に行き……帰らぬ人になった」

「え?」

 命に関わることじゃなかったのではと言おうとしてはたと気付く。ユニコーンが彼女の命を奪ったとは限らない。

「まもなく雨が降り、町に水は戻ってきたけど彼女は戻らなかった。彼女は……彼女は不幸なことに神殿からの帰り道で野犬に襲われて命を落としてしまったの」

「そんな……」

 彼女の席が、俺の使っているあの席? そんな大切な場所を、俺が。

「おばば様は悪くない。ユニコーンだって悪くない。――だけど、こんなことってないじゃない。レキは神殿のそばまで迎えに行かなかったトキヤ兄さんを責めた。たぶん、レキも彼女のことが好きだったんでしょうね。そして誰よりもトキヤ兄さんと彼女の幸せを祈っていたんだと思うわ。一方トキヤ兄さんは自分を責めた。ユニコーンを信じていたからこそ彼女を行かせ、そしてユニコーンを信じていたからこそその仕来りを守ったというのに……彼女がこんな目に遭ったのは自分の信仰心が薄かった所為だときっと思っている。そして今も新しい恋人を作ることなくユニコーンを信仰し続けているの」

 ミキはそこまで語って黙った。肩が震えている。

「ミキさんは……どう思っているの?」

「あたしは……そうね。あたしもあたしで自分を責めたわ。あたしがもう少し大きければ、彼女の代わりに神殿に行くことだってできたでしょう。そしたら彼女が死ぬことはなかった。……ま、あたしが死んでしまう可能性はこの際考えないけど。だから、早く一人前になって、支えてもらう立場じゃなくって誰かを支える側になりたかったの。――なのに……ミレイが……」

 うっと彼女は喉を詰まらせた。すすり泣く声。

「……だからこれから行くんじゃないですか。めそめそしていても始まりませんよ」

 俺はミキのそばに寄ってそっと肩に手を置いた。

「うん……」

 トキヤ、レキ、ミキのそれぞれの想いはわかったが、ここにいないミレイが何を考えていたのかは今のところ不明である。キッチンのトラップのことから推し量ると、ミレイはミレイで何者かに対する憤りを復讐という方法で解決しようとしていたのかも知れないし、復讐とまで行かずともあのようなものを作ることで苛立ちをごまかしていたのかも知れない。いや、トラップを作ることで自分の身を守ろうとしていたのかも知れないな。あのきょうだいの中で最も弱いのはミレイだろうし(精神的に最弱なのはトキヤだろうけど)。

 とはいえ、本人たちから聞いた訳じゃないし、ミキが思うにという話であることには違いない。参考程度にしておこう。トキヤの恋人については新情報だったが。

 俺は自分の中で情報を整理すると、話を進める。

「――しかし、嫌なら無理してついていく必要はありませんよ? あなたが神殿を恐れていることを、レキさんはきっと気付いている」

 今のミキの台詞を聞いて、俺は確信していた。

「……レキが?」

 俺はミキの台詞に頷く。

「行きたくないなら今のうちですよ。レキさんはあなたに味方するはずです」

「あたしは神殿に行くわよ。そう決めたんだもの。ミレイを放っておけないわ。あのときみたいに待っているだけなんてできない」

 戸惑うような、怒っているかのような口調に表情。俺の考えは的はずれではなかったようだ。

「それでも本能的に避けようとしているのだと思います」

「……」

 ミキは視線を足下に落とし、口をきゅっと結んだ。

「恐ろしいと感じるのは仕方がないことです。恐ろしいと感じるに足る事件がありましたし、ユニコーンという神と等しい存在を畏怖するのはごく自然のことでしょう。そういう反応は恥ずかしいことじゃありません」

「だけど」

 勢い良くミキは顔を上げ、こちらを睨んだ。目じりに涙を残した瞳が真っ直ぐ見つめてくる。

 俺はしっかりと見つめ返す。

「怖がっているのはあなただけじゃないですよ、ミキさん。トキヤさんもレキさんも同じです。できることなら神殿に近付きたくはない。――だけどそこにはミレイさんがいる。彼女をそのままにしてはおけないという気持ちはみなさん一緒です」

「ミノルさん……」

「私一人でも交渉してきますよ。ですから、行きたくないなら待っていてください」

 安心させるためににこっと微笑む。ミキの表情が和らいだ。

「ううん。あたしは行くよ。少なくともあなたを神殿まで送って、ミレイを迎えなくちゃいけないわ。それが今のあたしにできることでしょうから」

 にっこりと微笑み、タオルを俺に渡す。やはりタオルで胸をごまかさなくてはならないらしい。

「無理しないでくださいね」

「家族のためなら無理でもやるわ。家族になるかも知れなかった人を失ったときのショックを思い出せばなおさら、ね」

 言って彼女は俺の背のホックをはずしてくれる。

「……大切な人だったんですね、トキヤさんの恋人は」

 ぼそっと呟くように俺が言う。ミキは一瞬だけ手を止め、何事もなかったように作業を続ける。

「トキヤ兄さんは、もっとショックだったと思う。ユニコーンを信仰していないと、自身を見失ってしまいそうなくらいに。兄さんは優しい人だから、誰かを恨むことができないんだわ」

「……」

 そのあとの作業は互いに沈黙したままだった。胸元にボリュームが増したところで俺たちは部屋から出た。



 中央の部屋に顔を出すと、着替えを済ませた男性陣が迎えてくれた。黒を基調としたスーツ姿である。修也はトキヤかレキに借りたらしい(生地の様子からしておそらくお下がりだ)。サイズが微妙に合っていないように見えた。

「ん?」

 ミキに施してもらったメイクの所為だろうと思う。部屋から出てきた俺を見て、三人はじっと見つめ、黙ったまま固まってしまった。

「お待たせ! さ、いざ出陣よ!」

 ミキが気合いの入った号令を掛けるも、三人ともそれに対しての反応を示すことはなかった。その代わりの彼らの反応は次のような感じだ。

「いやはや、これはこれは……」

 と言って視線をはずしたのはトキヤ。

「何を着ても似合いますね」

 頬をやや紅潮させて微笑んだのは修也。

「……まさかこれほどとは」

 ぽかんとした表情を作り、何か続きを言おうとして口を噤んだのはレキ。三者三様の反応。かく言う俺も鏡を見てびっくりしたんだけどさ。

 どんな服でも着こなしてしまうのが俺の長所であり短所だろう。女物でも着こなしてしまうあたりがかなり切ないけども。ひょっとしたら、今の状態なら水着姿でもいけるかもしれんな。おかげでちっこい頃から姉貴の着せ替え人形にされていたわけだが。

 閑話休題。

 ミキの怒りのオーラを感じ取り、思考を元の場所に戻す。

「さぁ、準備もできたことですし、急ぎましょう」

 俺は微笑んで先を促す。何のためにこんな格好をさせられたのか忘れるところだったぞ。

「そうだな」

 浮かない表情を一瞬見せたトキヤだったが、すぐに笑顔の仮面を貼り付けていつもの様子を振る舞う。もっと自分の気持ちに素直になっても良いと思うのだが。

「裏口に馬車を寄せてある。それで神殿のそばまで行くつもりだ」

 これからの経路をレキが説明してくれる。こちらはいつもと同じ様子というよりも、かなり真面目で真剣な雰囲気だ。

「やけに手際が良いわね」

 にこにこしながらミキが褒める。感心していると言うよりもどことなく裏があるような気がするのは何故だろう。

「このくらい準備しておかねーと、お前がうるさそうだからな」

 肩を竦めてやれやれといった様子で返す。彼の足はもう裏口に向いている。

「珍しいじゃない」

「緊急事態だからね」

 つかつかと歩き出す。俺たちは先陣をきるレキの後ろをついて行く。

 と、そのときだ。正面玄関につながっている方のドアが勢い良く開いて、一人の女性が飛び込んできた。

「はぁっはぁっ……たたた大変ですっ!」

 俺たちの注目を集めたその女性は息を切らし、手を膝元に当てた状態でしばらく床を見つめて呼吸を調えていたが、やがて顔を上げた。

「エリー? どうしたっていうんだ?」

 声を掛けたのはレキである。そしてその女性、俺にも見覚えがあった。パン屋にいたあの店員さんである。一体こんな時に何の用だというのだろうか。

「おばば様が御姉様を呼んでこい、って」

「たったそれだけのことで走ってきたのか?」

 レキは不審な目を彼女に向けながら近付いて行く。エリーはまだ調いきらない息でうまく喋れないらしくただただ頷く。

「ちっ」

 苦々しそうな表情を浮かべたレキの舌打ち。

「――おばば様には筒抜けってことのようだな」

 ボリュームは絞ってあったが、その独り言は俺の耳にもはっきりと聞こえた。レキは視線を玄関に向ける。

「エリー、俺たちを引き留めに行くよう、おばば様に頼まれたんだろう?」

 エリーはすぐさま視線を逸らす。気まずそうな表情。その様子からして、レキの問いには肯定なのだろう。

「なぁ、そこにいるんじゃないのか?」

 ドアがゆっくりと開く。そこに立っていた老婆は大きな声で笑った。

「かっかっかっ」

「どうして邪魔をする?」

「……おやおや。邪魔などしてはおらんよ」

 一歩踏み出して中に入るなり視線をここにいる全ての人間に向け、最後に俺に目を留めた。そのままレキとの会話を続ける。

「気になることがあって様子を窺いに来ただけじゃ。止めはせん。行きたいなら行くが良い」

「なら」

「好きにするが良い。それもまた運命じゃろうて」

 そこまで言って、俺に向けてにっこりと微笑んだ。どことなくほっとしたような表情である。

「運命、ねぇ……」

 呟いたのはミキ。不安な気持ちがにじんでいた。

「さて、御姉様よ」

「はい?」

 いきなり話を振られたので吃驚したぞ。声が変に裏返ってしまったじゃないか。

「決心してくれたようで嬉しいよ。武運を祈るぞ」

「は、はい」

 ――何をどうすりゃいいのかわかったもんじゃないけどな。しかも武運って、俺は何と戦いに行くというというのだ? 運命というものにか? 残念ながらそいつにゃ勝てる気がしねぇぞ。

「――ところで、気になることってなんですか?」

 首を傾げて問うたのはトキヤ。おばば様が気になるものは彼だって気になるだろう。そういえば妙なことを口走っていたな。レキの対応もなんか不自然だったし。

「いやいや。ここで会って確認できたからもう何の心配もないよ」

「何を確認しに?」

 トキヤはなおも食いつく。ひょっとしたらおばば様に止めてもらいたいのかも知れない。俺たちがこれからしようとしていることを。

 その問いに対し、老婆は作っていた笑顔を別のものに変えてトキヤに視線を移した。

「お前たちの運命を、と言っておこうかな」

 射るような視線がここにいる誰かに向けられた。そのあとに背を反らして豪快に笑う。独特のカ行の笑い。こんな笑い方をする人間が本当にいるとは。

 いや、注目すべきはそこじゃないな。おばば様は別の何かを確認するためにここにやってきたはずだ。エリーを走らせたのは俺たちの出発を遅らせるためだろうけど、俺を呼びに走らせたのが本当ならおばば様がここに登場する必要はないはずだ。――そう、ここにいる誰かに会いに来たという方が自然。そうだな、おばば様が用があるとするなら……。

「あ、あの……」

 微妙な空気の中小さく手を挙げたのはエリー。老婆は笑うのをやめてそちらに視線を移す。

「わたしは一体何のために……?」

「おぬしは良い仕事をしてくれた。もう戻って良いぞ。ありがとう、助かったよ」

 にっこりとした笑顔をエリーに向けて老婆は答える。彼女は腑に落ちないような表情をしていたが、やがて笑顔を作るとペコリと頭を下げて退場した。正直、俺としても彼女がどうして出てこなくてはいけなかったのか疑問だ。こんなに早くおばば様が到着するなら彼女はいらないはずだ。演出のためだろうか? ――まさかな。

「――で、本題は?」

 腕を組んで睨むような視線をおばば様に向けたのはレキ。非常に不満げである。

「今ので全部じゃよ」

「なら、おばば様もここから帰るだろう?」

「ふむ。するどいな」

 おばば様は表情を堅くする。

「それに、エリーを走らせたのにも意味があるだろう?」

「まぁねぇ。わしは最近足腰に自身がなくてのぅ。間にあわんと思ってだな……」

 嘘つけ。そんなに背筋がしゃっきりしているのにそれはないだろう。

「違うね」

 やけにきっぱりとレキは言い切る。

 ――んっと、なんか引っ掛かったぞ。パン屋のお嬢さんがエリーってことは、ミキが午前中にレキに話していた台詞からすると、確かこんなことを言っていたよな。「花屋のローザやパン屋のエリーに顔出さなくて良いの? 浮気してるって告げ口してやるんだからっ!」とかなんとか。

「噂好きの彼女をここに向かわせたのは、俺たちがしようとしていることを町中に伝えるためだ。彼女が俺たちの事情を詳しく知らずとも、この格好を見りゃどこに行こうとしているのかくらいわかるだろう。先に彼女を帰したのもその目的の為じゃないのか?」

 レキの推理の披露を受けて、老婆は片目をきゅうっと細めた。かなり不気味な左右非対称の表情。

 そういえばトキヤとパン屋に行ったとき、彼女はすでに俺がここでお世話になっていることを知っていたんだっけ。てっきりこの町の規模が小さな所為で情報の伝達が早いものと思っていたが、なるほど彼女はとりわけ情報を得るのが早かったというわけか。

「……回転が速いのう」

「だけど、おばば様を出し抜くには足りなかったみたいだな」

 二人して小さく笑う。なんか周りが外野になっているんですけど。

「レキ、お前が言ったとおりじゃ。このことを知らせるためにエリーを走らせた。彼女の主観で出来事は伝わるじゃろうて」

「あんまり期待できそうにねーな」

 レキは苦笑する。トキヤ、ミキの表情を窺うが、二人とも視線を部屋の隅っこの何もない場所に向けて気まずい表情をしている。

「……ますますここに居づらくなりそうだ」

 ――どういう意味だ? ますますって。それに他のきょうだいの表情も妙だ。そうだ、住民たちが彼らに向けている視線、あれだって……。

 俺は何かに気付いたのだが、そこで割り込みが掛かったので思考は中断。そのうえ気付いたことまで忘れてしまった。割り込んできたのは……。

「はい、もしもし?」

 電源を切っていたはずのケータイが例のメロディーを奏で始めたのである。

 それはデフォルトで入っていた曲であり、菜摘だけに割り振っていたものであった。というのも、姉貴がらみでの緊急電話が多くてすぐに反応できるようにしたためであるのだが。

 それゆえに条件反射で電話を取ってしまうらしい。あのときのも気が動転していたからだけではなかったようだ。

「ねぇねぇ、大変なの!」

 かなり慌てている様子が伝わってくる。しかし俺には状況がちっともわからない。

「何がだ?」

「空が綺麗なグリーンなのよ」

 ――なんだって?

「まわりもよく知らない場所だし、ってか、それに気付いて思わず空を見たら真緑で吃驚したんだけど」

 ――ってか、どうして俺に電話をする?

 と不思議に思っていると、その答えも彼女は続けた。

「そんで、この不思議現象を伝えようとあちこち電話掛けてみたんだけど、どこも現在使われてないとか何とかってアナウンスがかかってきて」

 ――ちょっと待て! それってまさか!

 変な汗をかいてきた。まさかその前の電話も、こっちの世界から掛けてきたんじゃ……。

「いいか、落ち着け、朝比奈」

 俺は声をひそめて壁際に寄る。隠れるにももうどうでもよくなっている。電話に出てしまったのが間違いであったと後悔するのは通話が切れたあとになるだろう。

「そこはどこだ? 何が見える?」

「どこって言われても、あたしの知らない場所だよ」

 パニックになっている様子でおろおろした口調。

「いいから見える物を答えるんだ」

 俺の声にも焦りがにじんでいる。――これは大事なことなんだ、菜摘。お前までこっちの世界に来たんじゃないかっていう不安を解消するためにも。

「えっとね……緑色の空と、白い雲でしょ。あとね、広大な原っぱ。遠くに煙が見えるから、その向こうに町があるんだと思う。まるで異世界ね。あとね、真っ白な石でできた建造物が近くにあるよ。結構大きいの。そうね、ギリシャとかにありそうな建物だよ。神殿って言った方がしっくりくるかなぁ?」

 俺はそこまで聞くと、通話側を押さえてトキヤに顔を向ける。

「トキヤさん! ユニコーンの神殿って真っ白な石でできていませんか? 入口に柱みたいなのが立っている感じの」

「あぁ、確かにそういう造りだけど?」

 いきなり話を振られてきょとんとした表情を浮かべるも、トキヤはすぐに答えてくれた。

「町の中心から離れた場所にありますよね? ここから行くには原っぱを抜ける必要があるんじゃないですか?」

「あぁ、うん。そうだよ。だけど、なんでそれを?」

「ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げて顔の向きを変えると再び電話を耳に当てる。トキヤには悪いが、今はそれどころじゃない。

「いいか、朝比奈。そこでじっとしてろ。すぐに迎えに行ってやる」

「迎えに? ここが何処だかわかるの?」

 驚きと喜びが混じっているような声が聞こえる。そりゃまあ当然だよな。

「あぁ。詳しい話はあとだ。無事に合流できたら説明してやるよ。だからそこを動くなよ」

「うん。周君、ありがとう」

 じゃあ切るからなと言いかけたとき、さらに新たなる割り込みが掛かった。

「きゃあっ!」

 菜摘の悲鳴と耳をつんざくような爆発音。そしてそれは受話器越しだけでなく、この部屋にまで響いてきた。時間差が微妙にあったのは距離のためか。

「朝比奈!」

 俺は思わず叫んだが、通話はそこで切れてしまった。慌ててリダイアルするが通じない。

 ――これはまずいぞ。

 俺が焦ってケータイをいじっている間に、再びドアが開かれた。息を切らして飛び込んできたのはさっきやってきたエリーだった。

「大変ですっ! おばば様! ししし神殿がっ! 神殿から煙が!」

 この部屋の空気がさらに重く冷たいものに変わったのを肌で感じ取った。



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