第一章 黒猫と悪役令嬢の契約
帝国暦三七二年、春。
貴族社会の中心、エレドリア王都は、桜の花びらに包まれている。
その中でも特に目立つのは、黒い絨毯を敷き詰めたような庭園を持つ「デ・ヴェルト侯爵家」の屋敷だった。
屋敷の主である齢十六歳の令嬢、セレステ・デ・ヴェルトは、今日もまた悪役令嬢としての役割を完璧に演じていた。
「ふふん、平民どもめ。王太子殿下に近づくなど、虫けらが太陽に手を伸ばすようなものよ!」
彼女の言葉に周囲の使用人たちが震え上がる。
王太子の婚約者候補である平民の少女を陥れ、彼女のドレスに魔法の染料を垂らして派手に変色させる──そんな悪行を繰り返すセレステは、宮廷の誰もが「悪役令嬢」として恐れる存在だった。
だが、誰も気づいていない。
──彼女の部屋の片隅にいる、黒い猫の存在に。
その猫は漆黒の毛並みに金色の瞳を持ち、いつもどこか見下すような視線を人間達に向けていた。
名前はルナス。
セレステが半年前に異国の商人から「魔力を持つ猫」として購入したのだ。
「今日もよくやったな、セレステ」
その夜、部屋の扉が閉じられ使用人が去った後──ルナスが人語でセレステに話しかける。
「王太子の婚約者候補を追い詰める時なんて、完璧なタイミングだった。あの娘、次に何かやらかせば王太子も庇いきれないだろう」
セレステは悪役令嬢の仮面を外し、ふっと笑った。
「ありがとう、ルナス。でも、もう少し派手にやるべきだったかしら? 『狂気の貴族令嬢』というイメージをもっと強固にしないと」
「いや、ちょうどいい。急激な悪化は逆に疑われる。徐々に、確実に社会的信用を失わせるのがベストだ」
ルナスは窓辺に座り、月を見上げる。
その瞳にはどこか遠い記憶が浮かんでいた。
「……この世界も、あの時の地球に似ているな。貴族制度、魔法、そして運命に縛られた人々」
「ルナス? また前世のことを考えてるの?」
「ああ……」
ルナスはかつて人間だった。
日本と言う国の会社員をしていた。
「この世界で猫として生まれ変り……そして気づいた。この世界の『運命』というシステムに」
「運命……システム?」
「そう。この世界には『物語の流れ』がある。主人公がいて、悪役がいて、決まった結末がある。セレステ、お前は『悪役令嬢』としていずれ処刑され、あるいは追放される運命にいる」
セレステの表情が一瞬凍る。
「……知ってるわ。最初に教えてくれたのは、あなたよ」
「だが、俺たちはそれを壊せる。俺が知っている知識──戦略、心理操作、情報戦。そして、お前の貴族としての立場。それを使えば、この世界の支配者になれる」
「……だから、私は悪役令嬢を演じてるのよね。誰もが私を嫌い、警戒する。その隙にあなたは情報を集め、裏で動く。そして──」
「我々はこの世界の『運命』を、自らの手で書き換える」
二人──いや、一人と一匹の共犯関係はすでに半年前から始まっていた。