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第九話

 

 あの日、沖田さんが祇園の夜道で見たという、震える浪士の影。


 その出来事は、彼の心に、そして私の心にも、深く暗い染みとなって残った。彼は、以前にも増して口数が少なくなり、一人でいる時間は、決まって何かを思い詰めたような、遠い目をしているようになった。


 その沖田さんの変化とは対照的に、土方さんの存在感は、日増しに苛烈なものとなっていた。

「いいか、てめえら! 少しでも怪しい素振りを見せた奴は、問答無用で斬り捨てろ! 相手に情けをかけることは、俺たちの死を意味すると思え!」

 朝の点呼での号令は、もはや指導ではなく、脅迫に近いほどの凄みがあった。隊士の一人がほんの少しでも規律を乱せば、土方さんの雷のような怒声が飛ぶ。その瞳は、まるで氷のように冷たく、感情というものが一切抜け落ちているかのようだった。


 ある日の朝。一人の若い平隊士が、点呼の際に僅かに隊列を乱した。ただそれだけのことで、土方はその男を全員の前に引きずり出した。

「貴様、今、何を考えていた。この非常時に、その気の緩みは何だ。貴様一人の油断が、仲間全員を死地に追いやるということが、まだ分からんのか!」

 若い隊士は、顔を真っ青にして震えている。

「申し訳、ありません……!」

「反省しているというなら、その証を立てろ。今から半刻、この場で抜き身を構えて立っていろ。少しでも腕が下がれば、その腕ごと叩き斬ると思え!」

 その言葉に、他の隊士たちも息をのんだ。真夏の炎天下で、刀を構え続けるということが、どれほどの苦行であるか。それは、ただの罰ではなく、見せしめだった。この隊の規律は、俺の恐怖によって支配されているのだと、無言で知らしめているのだ。


 私は、縁側の隅で、その光景をただ息を殺して見つめていた。

 奈々の魂は、歴史上の人物としての「鬼の副長」土方歳三を知っている。組織を維持するために、彼が自ら憎まれ役を買って出ていたことも。けれど、その冷徹さを目の当たりにすると、猫の身体は本能的な恐怖に支配されてしまう。あの人の前では、決してしくじりを犯してはならない。しくじりは、即、死を意味するのだと。


 屯所全体が、そんな土方さんの作り出す、張り詰めた恐怖に支配されつつあった。

 その中で、唯一、その空気に抗うかのような場所があった。総長・山南敬助さんの部屋だ。

 彼の部屋の周りだけは、なぜか、時間がゆっくりと流れているように感じられた。彼は、隊務の合間を縫って、近所の子供たちに手習いを教えていることがあった。

「こら、筆の持ち方が違うぞ。そう、もっと力を抜いて」

 子供たちに向けるその声は、どこまでも優しく、穏やかだった。その周りには、土方さんの作る厳しい世界とは全く違う、「日常」の空気が流れていた。

 私は、その陽だまりのような雰囲気に誘われ、よく彼の膝の上で昼寝をした。彼は、静かに書物を読みながら、私の背中を規則正しく撫でてくれる。その手つきは、まるで大切な宝物にでも触れるかのようだった。


 その日の午後、私がいつものように山南さんの膝の上で微睡んでいると、部屋の前を土方さんが通りかかった。


 彼は、子供たちと笑い合う山南さんの姿を認めると、ぴたりと足を止め、忌々しげに舌打ちをした。

「山南さん、あんたも人がいい。あんなガキどもの相手をしている暇があったら、隊士たちの綱紀の引き締めに、少しは力を貸してもらいたいもんだ」

 その言葉には、研ぎ澄まされた刃のような棘があった。

 山南さんは、子供たちに向けた笑顔を崩さぬまま、静かに答えた。

「土方君。剣で人を斬ることだけが、我らの誠ではないはずだ。この子たちのような、か弱い民草の暮らしを守ることこそ、我らの本懐ではないのかね」

「……戯言を」

 土方さんは、それだけ吐き捨てると、冷たい視線をこちらに残して去っていった。


 二人のやり取りを見ていて、奈々の魂は、この新選組という組織が内包する、決定的な「矛盾」を痛感していた。

 規律と恐怖で組織をまとめ上げ、敵を斬り捨てることで京の安寧を守ろうとする、土方さんの「鬼」の誠。

 仁愛と対話をもって、人々の暮らしに寄り添うことで、本当の意味で国を守ろうとする、山南さんの「仏」の誠。


 どちらも、間違ってはいない。けれど、この二つの正義は、決して交わることはない。

 そして、歴史は、土方さんのやり方を選び、山南さんの理想は、やがて彼自身を滅ぼすことになるのだ。


(ああ、山南さん……)


 彼の未来を知っているからこそ、その優しさが、あまりにも悲しく、そして切ない。

 土方さんが去った後、子供たちが元気よく帰っていくのを見送った山南さんの撫でる手が、一瞬だけ止まった。そして、誰にも聞こえないような、小さな、深いため息が、彼の口から漏れたのを、私の耳だけが捉えていた。

 この人の苦悩もまた、日に日に深まっている。


 鬼にならなければ生き残れない時代の中で、仏であり続けようとした、一人の優しい侍。

 その運命の歯車もまた、破滅に向かって、静かに回り始めていた。

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