第八話
あの日、沖田さんの部隊が初めて血の匂いを持ち帰ってから数日。
京の都で頻発するようになった小さな斬り合いは、屯所の空気をじりじりと焦がし、まるで巨大な火薬庫のように変えていった。いつ、どこで、最後の一太刀が振り下ろされるのか。その「Xデー」が近いことを、誰もが肌で感じていた。
そんな中、見廻りはさらに強化され、沖田さんも昼夜を問わず、京の町へと出動していった。血の匂いをさせて帰ってくることもあれば、何もなかったかのように、ただ疲労の色だけを浮かべて帰ってくることもあった。
その夜も、沖田さんの部隊は深夜に帰還した。
私は彼の部屋でうたた寝をしていたが、門の開く音で目を覚まし、縁側へと顔を出す。隊士たちが、口数少なくそれぞれの部屋へと散っていく。その中に、沖田さんの姿を見つけた。今日の彼は、血の匂いこそさせていない。けれど、その身に纏う空気は、これまでで最も重く、そして冷たく感じられた。まるで、魂がどこか遠くへ行ってしまったかのように、その足取りはひどく覚束ない。彼の周りだけ、夜の闇が一段と濃くなっているかのようだった。
夕餉の膳にも、彼はほとんど手もつけなかった。
広間に集まった隊士たちは、疲労からか、あるいは過度の緊張からか、皆一様に口が重い。そんな中でも、沖田さんの静けさは際立っていた。彼はただ、膳の上の焼き魚を、何の感情も映さない瞳でじっと見つめている。
「総司、どうした。顔色が悪いぞ。腹でも壊したか?」
隣に座った永倉さんが、その大きな体に似合わず、心配そうに声をかける。
「……いえ、なんでも。少し、暑さにやられたみたいで……食欲が、あまり」
「そうか? 無理はするなよ。これからが本番なんだからな」
永倉さんはそう言うと、豪快に飯をかき込んだ。そのやり取りを、少し離れた席から、土方さんが鋭い目で見ていた。彼は何も言わない。だが、その視線は、沖田さんの内側を探るように、執拗に注がれていた。
私は、部屋の隅の暗がりから、その光景をじっと見ていた。奈々の魂が、警鐘を鳴らす。沖田さんは、明らかに、いつもと違う。ただの疲れではない。彼の魂が、何かによって深く傷つけられているのだ。
彼は早々に膳を下げると、一人、ふらりと部屋を出て行ってしまった。
私は、彼の後を追った。
彼は、道場でも、自室でもなく、屯所の裏手にある小さな庭の縁側に、ぽつんと一人で座っていた。月明かりが、彼の白い横顔をぼんやりと照らしている。その姿は、まるでこの世の者ではないような、儚さと危うさを漂わせていた。
私は、音を立てずに彼の隣に寄り添い、その膝にぴょんと飛び乗った。彼は、一瞬だけ驚いたように私を見下ろしたが、やて、諦めたようにため息をつくと、私の背中をゆっくりと撫で始めた。その手は、ひどく冷たかった。
「……今日な、トラ」
しばらくして、彼がぽつりと呟いた。
「祇園の、暗い路地でさ。一人の若い浪人を見つけたんだ。俺たちを見て、慌てて腰の刀に手をかけたんだけど……その手が、ぶるぶる震えててね。顔も真っ青で、今にも泣き出しそうだった」
彼の声は、夜の空気に溶けてしまいそうなほど、静かだった。
「斬ろうと思えば、いつでも斬れた。きっと、俺が一歩踏み出せば、彼は為す術もなく斬られていただろう。でも、なんだか……できなかったんだ。ただ、じっと睨みつけてたら、あいつ、とうとう刀を放り出して、みっともなく泣きながら、逃げて行っちゃった……」
彼の指が、私の毛皮をきゅっと掴む。
「……俺、何をやってるんだろうね。あいつも、きっと誰かにとっては、大事な息子だったり、弟だったりしたんだろうに。そんな奴らを、俺はこれまで何人も斬ってきたよ。これから、何人も斬ることになる。……それが、本当に『誠』なんだろうかな。近藤さんのため、試衛館の仲間たちのため……そう思って京に来たけど、俺がやってるのは、ただ弱い者いじめなんじゃないかなって……時々、分からなくなるんだ」
奈々の魂が、彼の言葉に激しく揺さぶられた。
私が憧れた沖田総司は、迷いなき天才剣士だったはずだ。けれど、今、私の膝の上で震えているのは、敵の命を奪うことの意味に苦悩し、自分の正義に迷う、ただ一人の、あまりにも脆い青年だった。
ああ、この人は、鬼でも、英雄でもない。
私と同じ、ただの人間なのだ。その当たり前の事実に、今更ながら気づかされ、胸が張り裂けそうになる。
その時だった。
「こほっ……けほ、ごほっ……!」
彼の身体が、大きく震えた。これまで聞いたこともないような、深く、苦しげな咳が、静かな夜の空気を引き裂く。私は驚いて彼の顔を見上げた。彼は、必死に咳を飲み込もうと、胸を強く押さえている。
やがて、長い咳が収まると、彼の呼吸はぜいぜいと浅く、乱れていた。
「……あはは、ごめんね、トラ。変なこと、言っちゃった」
彼は、弱々しく笑う。その笑顔は、今にも壊れてしまいそうなくらい、痛々しかった。
彼は、私を強く抱きしめた。まるで、この世で唯一縋れるものが、この小さな猫の温もりだけだと言わんばかりに。
その身体は、夏の夜だというのに、ぞっとするほど冷え切っていた。
私は、彼の胸の中で、ただひたすらに喉を鳴らした。
大丈夫だよ、あなたは一人じゃない。私が、ここにいるから。
言葉にならない想いが、少しでも彼に伝わるようにと祈りながら。
祇園の町で彼が見た影は、彼の心に、深く、暗い影を落としていた。そしてその影は、彼の身体をも、内側から静かに蝕み始めている。その残酷な事実に、私はもう、気づかないふりをすることはできなかった。