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第七話


 春の終わりを告げたあの夜の雨から、屯所の空気は一変した。

 五月も下旬に差しかかり、京の都を包む空気は、日に日にその熱量を増している。春の柔らかな日差しは、肌をちりちりと焼くような鋭さに変わり、日中の屯所は、まるで蒸し風呂のような熱気に満たされている。まだ蝉の声は聞こえない。だが、その代わりに、隊士たちの神経が張り詰めて、今にも切れそうな音を立てているのが、私には分かった。


 がらん、と静まり返った屯所。それが、私の新しい日常の風景だった。

 昼間、隊士のほとんどは市中の見廻りに出ている。彼らが寝泊まりする部屋部屋は障子が開け放たれ、重く湿った風が通り抜けていくが、そこに人の気配はない。以前は、縁側で日向ぼっこをしていれば、誰かしらが声を掛けてくれたものだ。永倉さんが「トラ、遊ぼうぜ!」と大きな手で私の体をわしゃわしゃと撫で回し、原田さんが「腹は減ってねえか?」と自分の握り飯をちぎってくれようとした。そんな、たわいもない日常は、もうどこにもない。


 今、縁側で会うのは、書物を片手に眉間に皺を寄せている山南さんか、あるいは、道場の隅で、まるで修行僧のように黙々と刀の手入れをしている斎藤さんくらいのものだ。二人とも、私に気づくと静かに目を細めてくれるが、その表情には、常にどこか憂いと緊張の色が浮かんでいた。屯所全体が、巨大な獣が息を潜めるような、不気味な静けさに支配されていた。


 この変化は、沖田さんにおいて、最も顕著だった。

 彼が屯所にいる時間は、そのほとんどを道場で過ごすようになった。一番隊の隊士たちに、これまでとは比較にならないほど厳しい稽古をつけているのだ。

 ある昼下がり、私は道場の隅、ぎらつく陽光を避けて、その様子をじっと見ていた。

「そこだ! 脇が甘い! 実戦であれば、今ので腕ごと斬り落とされているぞ!」

 沖田さんの、高く、鋭い声が飛ぶ。竹刀が風を切り、肉を打つ音が、道場に響き渡る。隊士の一人が打ち込まれ、畳の上に倒れ込むと、彼は「立て! 俺の隊で、その程度の覚悟の者は要らない!」と容赦のない言葉を浴びせた。

 春先に見せていた、子供たちと冗談を言い合うような、あの柔らかな面影は完全に消え失せていた。そこにいるのは、一切の妥協を許さない、冷徹な一番隊組長・沖田総司の姿だけだった。

 その姿は、奈々の魂が歴史書の中で知る「天才剣士」そのものだった。格好いい、と魂の片隅で思う。けれど、同時に、猫の身体は彼の放つ殺気に竦み上がり、動けなくなっていた。私が好きになったのは、この人なのだろうか。それとも、縁側で私を撫でてくれた、あの優しい青年だったのだろうか。その答えは、まだ見つからない。


 稽古が終わると、彼は誰とも口をきかず、一人で刀の手入れを始める。その横顔に、私は声をかけることすらできなかった。私と彼の間に、見えない壁ができてしまったような、そんな寂しさが胸をよぎる。


 その日の夕刻。

「一番隊、二番隊、巡察に出る! 手早く支度しろ!」

 土方さんの号令一下、沖田さんたちが慌ただしく準備を始める。私も、彼の部屋の隅で、その様子を息を殺して見守っていた。彼は黙々と手甲を締め、鉢金を額に当てる。その一挙手一投足に、遊びの要素は微塵もない。


「にゃあ……」

 思わず、か細い声が漏れた。行かないで、と心が叫ぶ。

 その声に、彼は初めて私の方を向いた。そして、ほんの一瞬だけ、その目がふっと和らいだ。彼は私のそばに来ると、無言で私の頭を一度だけ、強く撫でた。そして、何も言わずに部屋を出ていく。その背中は、この屯所に来てから見たどの時よりも、大きく、そして頼もしく見えた。


 彼らが出て行った後の、長い、長い待ち時間。

 私は、彼の匂いが残る部屋で、ただひたすらに丸くなっていた。

 夜が更け、月が高く昇る。何か、良くないことが起こる。そんな予感が、私の胸をざわつかせる。


 丑の刻を過ぎた頃、屯所の門が騒がしくなった。帰ってきたのだ。

 私は部屋を飛び出し、縁側から身を乗り出す。

 隊士たちは、疲労した様子ではあったが、大きな怪我はないようだった。けれど、その誰もが、衣服のどこかしらに、真新しい血の跡を付けていた。そして、むせ返るような鉄の匂いが、彼らの体から立ち上っている。

 その中で、沖田さんの姿を見つけた。彼は、腕に軽い切り傷を負った仲間の方に手を貸し、何か言葉をかけている。幸い、彼自身に目立った外傷はなかった。

 けれど、彼が仲間から離れ、月明かりの下に一人で立った時、私は見てしまった。彼の頬に、一筋、誰かのものとも知れぬ、赤黒い返り血が付着しているのを。

 彼は、それに気づくと、まるで汚らわしいものでも払うかのように、乱暴に袖でそれを拭った。


 部屋に戻ってきた彼は、私には目もくれず、ただ黙って隊服を脱ぎ始めた。そして、手桶の水を浴びるようにして顔を洗い、何度も、何度も、血の付着したであろう頬を擦っている。

 やがて、彼は全ての支度を終えると、私のことなど忘れたかのように、布団に横になった。

 けれど、すぐに眠れるはずもなかった。彼は、何度も寝返りを打ち、時折、唸るようなため息を漏らしている。


 私は、そっと彼の布団に近づき、その胸元に寄り添うように丸くなった。

 とくん、とくん、と彼の心臓が、激しく波打っているのが伝わってくる。

 その時、彼の手が、私の背中を撫でた。それは、いつもの優しい手つきではなかった。何かを確かめるように、縋るように、私の毛皮をぎゅっと掴む。


「……トラ」

 暗闇の中で、彼がぽつりと呟いた。

「……ただ、人を斬るだけじゃ、何も守れないのかねぇ……」

 それは、独り言とも、私への問いかけともつかない、ひどく弱々しい声だった。

 夏の気配は、もうすぐそこまで来ていた。それは、草木の匂いなどではなかった。血と、鉄と、そして、この優しい人がこれから流すことになるであろう、たくさんの涙の匂いを孕んでいた。

 私は、ただ、彼の鼓動が少しでも穏やかになることを祈りながら、暗闇の中で静かに喉を鳴らし続けた。静かに飲み込んでいるようだった。でいるようだった。

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