第六話
五月も終わりに近づくと、京の都には夏の気配が満ち始める。
日差しは強さを増し、日中の屯所の空気は、陽炎のようにゆらりと揺らめいた。昼寝をする私の耳に届くのは、遠くで鳴き始めたばかりの蝉の声と、隊士たちの竹刀が打ち合う音、そして時折響く、永倉さんや原田さんの屈託のない笑い声。
その日の昼下がりも、私は沖田さんの膝の上という特等席で、うつらうつらとしていた。穏やかな時間が、まるで薄い絹のように、この壬生屯所を優しく包み込んでいる。中庭では、斎藤さんが黙々と素振りを繰り返し、その隣では山南さんが難しい顔で書物を読みふけっている。近藤さんは、訪ねてきた八木家の主人と、人の良さそうな笑顔で言葉を交わしていた。
(ああ、時間が、止まってしまえばいいのに)
奈々の魂が、切実に願う。
この、何でもない、ささやかな日常。歴史の教科書には決して載ることのない、彼らの息遣い。それが、どれほど尊く、儚いものか。もうすぐ、この国を揺るがす大きな事件が起こることを、私だけが知っている。池田屋事件。その名を思うだけで、心臓が冷たい手で掴まれたように痛む。この穏やかな光景が、血と炎の匂いに塗り替えられる日が、刻一刻と近づいているのだ。
私のそんな感傷を、猫の本能はせせら笑う。目の前を通り過ぎたヤモリに、私の身体は意思とは無関係にびくんと反応し、尻尾が大きく膨らんだ。その様子を見て、沖田さんが「はは、トラは臆病だなぁ」と楽しそうに私の喉を撫でる。その温かい指の感触に、私は再び、ただの幸せな一匹の猫に戻っていく。それでいい、今はまだ。
その、生ぬるい平和を切り裂いたのは、鬼の副長だった。
土方さんが、数人の隊士を連れて屯所の門をくぐった瞬間、空気が変わった。ただいま、という声はない。彼の全身から放たれる、研ぎ澄まされた刃物のような緊張感が、屯所全体の空気を一瞬で凍りつかせた。埃と汗にまみれたその姿は、ただの巡察帰りではないことを物語っていた。
「総司、近藤さんは中に?」
「はい、八木のご当主と」
「……そうか。話は後だ」
土方さんはそれだけ言うと、すぐに幹部たちを集めて奥の部屋へと消えていった。沖田さんも、私の頭を一度だけ撫でると、厳しい表情でその後を追う。
取り残された私は、たまらない不安に駆られ、彼らが消えた部屋の障子の前までそろそろと歩み寄った。
中からは、くぐもった男たちの声が聞こえる。
猫の耳は、その断片を拾い上げた。
「……祇園の会合……長州の……」
「……御所に火を放ち、帝を……」
「……古高俊太郎……」
「市中の見廻りを、倍にする。少しでも怪しい者は、斬り捨て御免」
土方さんの、地を這うような低い声。
近藤さんの、苦渋に満ちた唸り声。
そして、沖田さんの、短く、鋭い、同意の声。
言葉の全ては理解できない。けれど、私の魂は、その単語の組み合わせが何を意味するのかを知っていた。古高俊太郎。長州藩士。これから起こる、あの事件の序曲。
(始まった……!)
嫌な汗が、猫の肉球にじわりと滲む。
やがて、障子が開いた。出てきた隊士たちの顔からは、昼下がりの穏やかさは完全に消え失せていた。誰もが、これから戦場に向かう兵士の顔をしていた。屯所の雰囲気は、もう元には戻らない。春は、今日、終わったのだ。
その夜、沖田さんは一人、部屋で月を見ていた。
私も、彼の足元に寄り添うように座る。彼は何も言わない。ただ、静かに月を見上げている。その背中が、いつもより少しだけ、小さく見えた。
「……こほっ、けほっ……!」
突然、彼が激しく咳き込んだ。今までのような、隠すような小さな咳ではない。肩を震わせ、必死に声を殺そうとしている、苦しげな咳。慌てて駆け寄ると、彼は「大丈夫だ」と私を制するように手を伸ばしたが、その顔は月明かりの下でも分かるほど、真っ白だった。
ああ、だめだ。
この人は、もう、病に蝕まれ始めている。これから始まる激しい戦いは、彼の命を確実に削り取っていくだろう。分かっているのに、私には何もできない。温かいミルクを持ってくることも、背中をさすってあげることも。ただ、足元で不安そうに見上げることしか。
沖田さんは、ぜいぜいと乱れる息を整えると、私を抱き上げた。その腕は、いつもより少しだけ震えている気がした。
「これから、少し物騒になるからな、トラ。俺のそばを離れるなよ」
彼の声は、自分に言い聞かせるようでもあり、私を安心させようとするようでもあった。
私は、彼の胸に強く顔を押し付けた。彼の心臓が、少しだけ速く脈打っている。大丈夫、ここにいるよ。どこにも行かないよ。言葉にならない想いが、喉をごろごろと鳴らす音に変わる。
外で、ぽつり、と雨が降り始めた。
春の埃を洗い流し、熱を帯びた夏の到来を告げる、最初の雨。
それは、これから始まる長い戦いの、序曲のように思えた。