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第七話『沖田先生と小さな生徒』

 

 その日の昼下がり、私は屯所の大家である、八木家の庭先で日向ぼっこをしていた。

 私の、すぐそばで、八木家の、末の息子である為三郎くんが、一枚の大きな和紙を前に唸っている。手には、彼の小さな身体には不釣り合いなくらい、大きな筆が握られていた。どうやら、手習いの宿題らしい。

 けれど、その筆は、一向に進まない。和紙の上には、墨の染みが、無惨に広がっているだけだった。

 やがて、彼は、堪えきれなくなったのか、その大きな瞳に、みるみるうちに涙を溜め始めた。

「……うう、書けない……」

 今にも、泣き出してしまいそうな、そのか細い声。


 そこへ、巡察帰りの、隊士たちが通りかかる。

「おう、為三郎! 勉学も結構だが、男なら、剣の稽古も忘れるなよ!」

 永倉さんが、いつもの調子でからかうように、声をかける。

 若い隊士たちも、「がんばれよー」と、他人事のように、笑いながら通り過ぎていく。

 彼らに、悪気はない。けれどその言葉は、為三郎くんの助けには、少しもならなかった。彼の瞳からは、とうとう、ぽろり、と、大粒の涙が、こぼれ落ちてしまう。


 その、時だった。

「どうしたんだい、為三郎君。難儀しているようだね」

 ふわり、と、影が差した。

 沖田さんだった。彼は、稽古着ではなく、着流しのラフな姿で、そこに立っていた。そして、為三郎くんの前に、ごく当たり前のように、すっとしゃがみ込んだのだ。

 その声には、からかうような響きは、一切ない。ただ、ひたすらに優しかった。


 為三郎くんは、涙に濡れた顔で、沖田さんを見上げる。そして、自分の失敗作の和紙を、恥ずかしそうに指差した。

 彼が、書こうとしていたのは、「誠」という、一文字だった。新選組の、象徴とも言える、その文字。

「……この、最後の、はね、が、うまく、書けないんだ」

 沖田さんは、「そうかい」と、優しく頷くと、為三郎くんの、小さな手を、そっと取った。

「少し、力を、抜きすぎているのかもしれないね。貸してごらん」

 彼は、自分の、剣ダコで、ごつごつとした、大きな手を、その小さな手に重ねる。そして一緒に筆を持った。


「いいかい。この、最初の、横線は、まっすぐに、迷いなく。君の心の、まっすぐさを表すように」

「そして、ここは、すっと力を抜いて。鳥が、ふわりと枝に羽を休めるように、そっと、筆を置くんだ」

「最後の、この、はね。ここは、思い切りが肝心だ。池の鯉が、その尾っぽで、力強く水を打つように。えいっ、と!」

 その、教え方は、驚くほど、分かりやすく、そして、詩的だった。

 為三郎くんは、こく、こくと、頷きながら、沖田さんと、一緒に筆を動かす。

 すると、どうだろう。

 先ほどまでの、墨の染みが、嘘のように。そこには、力強く、そして、美しい、「誠」の、一文字が現れたのだ。


「……あ! 書けた!」

 為三郎くんの、顔が、ぱあっと、輝いた。

「先生、書けたよ! 俺、一人で、書けた!」

 その、満面の笑み。そして、彼が、ごく、自然に、口にした、「先生」という響き。

 沖田さんは、少しだけ、照れ臭そうに、はにかむと、「よく、頑張ったな」と、その頭を、優しく、撫でた。


 奈々の魂は、その、あまりにも、温かい光景に、胸が、締め付けられるようだった。

 この人は、ただの人斬りではない。

 もし、平和な、時代に、生まれていたのなら。

 彼は、きっと、たくさんの、子供たちから、心から慕われる素晴らしい、剣の、そして、学問の、「先生」になっていただろう。

 その、失われた未来の可能性。

 それを、思わずにはいられなかった。

 縁側で、丸くなりながら、私はただ、その優しい、光景を、いつまでも見つめていた。

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