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第五話『猫と隊規』

 

 その日の屯所は、朝から、どこか不穏な空気が漂っていた。

 幹部たちが、皆難しい顔で、広間に詰めきりになっている。おそらく何か、重要な軍議が開かれているのだろう。広間の、固く閉ざされた障子の向こうから、時折、土方さんの低く厳しい声が、漏れ聞こえてくる。

 隊士たちは、皆その部屋を遠巻きにして、息を潜めている。誰もが、触らぬ神に祟りなし、と、言わんばかりだった。


 けれど、そんな人間の都合など、私には関係ない。

 私の、目下の最重要任務は、目の前をひらひらと、舞っている、一匹の大きな、アゲハ蝶を捕獲すること、ただ一点にあった。

 春の、穏やかな日差しを浴びて、その黄色い大きな羽は、きらきらと輝いている。

 なんという、優雅な獲物だろう。

 私の、狩人としての血が騒ぐ。私は、音もなく低い姿勢で、蝶との間合いを詰めていく。


 蝶はまるで、私をからかうかのように、ふわり、ふわりと舞いながら、広間の方へと飛んでいく。

 待てそっちへ行くな。

 私の、理性が警告を発する。けれど、蝶を追いかけるのに、夢中な私の身体は、その警告を完全に無視していた。


 そして、運命の瞬間。

 蝶は、あの固く閉ざされた広間の障子に、ふわりと止まった。


 今だ! 


 私は、地面を力強く蹴った。全身のバネを使って、これまでで最高の跳躍を見せる。

 私の、鋭い爪が、蝶を捉えようとした、その刹那。

 蝶は、ひらりと身を翻し、空へと舞い上がった。


 私の、爪は空を切った。そして、私の身体は勢い余って、そのまま障子へと突っ込んだ。

 びりびりびりっ!

 乾いた、盛大な音を立てて、障子紙が破れる。そして、私はその穴から、勢いよく部屋の中へと転がり込んだ。


 一瞬の、静寂。


 私が、顔を上げると、そこには、屯所の全ての幹部たちが、ずらりと顔を揃え、全員呆気に取られた顔で、私を見下ろしていた。

 しまった、と、奈々の魂が絶叫する。

 ここは、今、この屯所で、最も入ってはいけない場所だった。


「……き、貴様……」


 最初に、我に返ったのは土方さんだった。

 その、鬼の形相は、怒りでわなわなと震えている。額には、青筋が浮かび上がっていた。その手は、腰の、刀の柄にかかっている。

 まずい。私、斬られる。

 私が、本能的な恐怖に身を固くした、その時だった。


「……ぷっ」


 どこからか、吹き出すような音がした。

 音のした方を見ると、沖田さんが必死に口元を、手で押さえている。けれど、その肩は、くっくっく、と、小刻みに震えていた。

 その、沖得さんの笑いを皮切りに。

 隣にいた、永倉さんが、ぶはっ、と、豪快に噴き出した。

 原田さんも、腹を抱えて笑い転げている。

 やがて、その笑いは部屋中に伝染し、それまで、氷のように張り詰めていた軍議の空気は、完全に崩壊した。


 私は、何が何だか分からないまま、とりあえず、その場で座り込むと、めちゃくちゃになった自分の毛並みを、ぺろぺろと、念入りに舐め始めた。

 何か、問題でも? と、言わんばかりの、その堂々とした態度。


 それを見た土方さんの鬼の形相が、怒りを通り越して、もうなんだかよく分からない、諦めのような表情に変わっていく。

 彼は、天を仰ぐと、この世の、終わりのような、深いため息をついた。

「…………続けろ」

 その、絞り出すような、一言に、また、部屋中が、どっと、笑いの渦に、包まれた。

 鉄の規律も、鬼の副長も、一匹の、猫の前では、どうやら、無力らしかった。

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