第三話『原田左之助の槍』
その日の屯所の庭は、どこか、いつもと違う匂いがした。
汗と、土の匂いに混じって、鉄の匂いはするけれど、それは、刀を手入れする時の、油の匂いとは、少し違った。もっと、こう、青々とした金属そのものの匂い。
私が、その匂いの元へと、歩いていくと、庭の真ん中で、原田左之助さんが、一本の長い棒の手入れをしていた。
刀とは、違う。彼の身長よりも、ずっと、長い。その先端には、陽光を反射して鋭く、きらりと光る菱形の刃がついていた。
(……なんだか、こわい)
私は、少しだけ、距離を置いて、その、見慣れない「獲物」を観察した。
原田さんは、布でその長い柄を、実に楽しそうに、磨いている。時折、ふん、ふんと、鼻歌まで聞こえてくるようだ。
私が、見つめていると、不意に、風がさあっと、吹いた。
すると、あの、鋭い刃の、すぐ根元についていた、真っ赤な、ふさふさとした、紐の束が、生き物のように、ひらひらと舞ったのだ。
私の、目が、その、赤い房に釘付けになった。
ぴょこり、と、私の尻尾の先が、意思とは無関係に揺れる。
なんだ、あれは。なんて、楽しそうな獲物なんだ。
私の、猫としての狩猟本能が、怖いという理性を完全に凌駕した。
私は、そろり、そろりと、低い姿勢で、原田さんに、にじり寄っていく。そして、彼が気づいていないのをいいことに、その赤い房に向かって、えいっ、と、猫パンチを繰り出した。
私の、小さな手が、ふさ、と、その柔らかな感触に触れる。
「ん? なんだ、トラか」
原田さんが、私に気づいた。その、大きな、ぎょろりとした目が、私を見下ろしている。
しまった、怒られる。私は、さっと身を引いた。
けれど、彼の口から、発せられたのは、怒声ではなかった。
「ぶはははははは!」
腹の底から、響き渡るような、大きな笑い声だった。
「なんだ、お前! 俺の、槍が、気に入ったのか! そうかそうか!」
彼は、そう言うと、手入れをするのを、やめて、その長い槍を持ち上げた。そして、その先端を、地面すれすれまで下げると、私の目の前で、赤い房を、ぷらぷらと揺らし始めたのだ。
「ほれ、ほれ! 取れるもんなら、取ってみろ!」
私の、目の色が変わった。
これは、遊びの誘いだ。
私は、「にゃっ!」と、短く鳴くと、その楽しすぎる、獲物に向かって、猛然と飛びかかった。
ひらり、と房が舞う。私は、それを追いかける。
原田さんは、楽しそうに笑いながら、槍を巧みに操る。彼の、その動きは、まるで巨大な猫じゃらしで、私をあやしているかのようだった。
庭の真ん中で、大の男が、一匹の猫と槍を使って、本気で遊んでいる。
その、あまりにも、平和で、どこか、間の抜けた光景。
通りかかった、隊士たちが、何事かと、足を止め、そして、くすくすと、笑っている。
私は、そんなことなどお構いなしに、夢中で、赤い房を追いかけ続けた。
この、大きな陽気な男のことが、私は大好きだった。
彼の周りには、いつも、太陽のような、温かい、笑い声が、満ちているのだから。




