第二話『近藤勇の涙』
その日、屯所には、一人の使いの男が訪れていた。
武州・多摩から、来たのだという。私は、その男が、近藤さんに、一通の分厚い書状を、深々と頭を下げて、手渡しているのを、縁側の隅から眺めていた。
近藤さんは、その書状を受け取ると、いつも、豪快なその顔を、少しだけ引き締めて、無言で自室へと戻っていった。
私は、ただ、なんとなく気になって。その大きな背中の後を、音も立てずについていった。
近藤さんの部屋は、質実剛健という言葉が、しっくりとくる、飾り気のない男の部屋だった。
彼は、文机の前に、どっかりと胡坐をかくと、丁寧に書状の封を切った。そして、一枚、また、一枚と、その、黒々とした力強い文字に、ゆっくりと目を通し始めた。
最初は、その顔に穏やかな笑みが浮かんでいた。故郷の家族の健やかなる知らせに、安堵しているのだろう。その安心した、大きな塊のような気配に、私も、つられて、彼の部屋の隅で丸くなる。
けれど。
書状を、読み進めるうちに、部屋の空気が変わった。
彼の、あの山のように、大きく頼もしかった背中が、ぴくり、ぴくりと、小刻みに震え始めたのだ。
やがて、その喉の奥から、く、と、何かを必死に、押し殺すような音が漏れた。
それは、私が、今まで、一度も聞いたことのない、この家の「長」の弱々しい音だった。
ああ、この人も、一人の、人間なのだ。
鬼の副長と共に、この荒くれ者の集団を束ね。会津藩という、大きな組織と渡り合い。幕府のために、と、その身を捧げている、この強い男も。
故郷に残してきた、妻を、そして、まだ、幼い娘を想う、ただの父親なのだ。
その、寂しさに、今、一人耐えているのだ。
私の、猫としての本能が、彼の、その、悲しみの気配を感じ取った。
仲間が弱っている。群れの長が悲しんでいる。
私は、そっと、立ち上がると、彼の、大きな身体に歩み寄った。そして、その袴の膝に、自分の身体を、一度、二度、強くすり寄せた。
ごろごろ、と、喉を鳴らしながら。
大丈夫だよ、と。あなたは、一人じゃない、と。
近藤さんの震えが、ぴたり、と、止まった。
彼は、驚いたように、私を見下ろした。その、大きな瞳は、涙で濡れていた。
彼は、一瞬だけ、ひどく、狼狽えたような、子供のような顔をした。この弱い姿を、見られたことに、戸惑っているようだった。
けれど、私の、その、何の、下心もない、ただ、そこにある温もりに気づくと、固く結ばれていた、唇が、ふと緩んだ。
「……お前には、敵わねえなあ」
その声は、涙でしゃがれていた。
彼は、その、剣ダコだらけの、ごつごつとした大きな手で、私の頭をそっと撫でた。その手つきは、ひどく不器用で、どこまでも優しかった。
鬼の副長の秘密の趣味。
そして局長の秘密の涙。
この、壬生の狼たちの、本当の素顔を知っているのは、世界でただ一匹。
この私だけなのだった。
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