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第一話『土方歳三と一句』


 その夜、私は、一匹の、大きな鼠の気配で目を覚ました。

 沖田さんの、穏やかな寝息が聞こえる布団の中から、そろりと抜け出し、闇の中へと、身を投じる。猫としての、狩りの本能が、私を、突き動かしていた。

 屯所は、しんと静まり返り、全ての隊士たちが、深い眠りについているようだった。私の、しなやかな足は、音も立てずに、冷たい廊下を進んでいく。


 鼠の気配は、母屋の、一番、奥の部屋の方から漂ってくる。

 私が、普段、最も近寄らない場所。

 鬼の副長・土方歳三の部屋の前だ。

 彼の部屋の周りだけは、空気が違う。常に、ぴんと張り詰めた、鋭い、刃物のような匂いがする。私は、その匂いが苦手だった。


 けれど、今夜は、少し様子が違った。

 部屋の障子から、ぼんやりと、灯りが漏れている。そして、その匂いに混じって、墨の静かな香りがした。

 私は、狩りのことなど、すっかり忘れて、その、不思議な光景に吸い寄せられていた。

 障子の、ほんの僅かな、破れ目から、中をそっと覗き見る。


 そこにいたのは、私の知っている、「鬼の副長」ではなかった。

 彼は、机に向かい、背中を丸め、腕を組み、うんうんと唸っている。その前には、書き損じだろうか、くしゃくしゃに丸められた紙が、いくつも転がっていた。

 彼は、やがて、観念したように、筆を手に取ると、目の前の、小さな短冊に、何かを書き付け始める。

 そして、その出来栄えが、気に入らないのか、また、大きなため息をついて、その紙を、くしゃりと、丸めてしまった。

(……何をしているんだろう)

 奈々の魂が、不思議に思う。

 隊の、全ての采配を、その手腕一つで、差配する、この男が。まるで解けない問題に頭を悩ませる、子供のように見えた。

 奈々の、現代での知識が、その答えを、教えてくれた。ああ、そうか。彼は、俳句を詠んでいるのだ。豊玉、という、彼の、もう一つの名前。


 彼は、また新しい短冊に向かう。


 そして、今度は、何かを思いついたのか、さらさらと筆を走らせた。

 書き終えると、その短冊を、じっと見つめている。その横顔は、隊士たちに、号令をかける時の、厳しい顔ではない。自分の内なる世界と向き合う、一人の、芸術家の顔をしていた。

 やがて、彼は、満足したのか、していないのか。一度だけ小さく頷くと、その短冊を大事そうに、懐にしまった。


 そして、ふっと、蝋燭の火を吹き消す。

 部屋が、闇に包まれた。


 私は、彼の、秘密の儀式を、全て見てしまったことに、少しだけ胸を高鳴らせながら、その場を音もなく立ち去った。


 あの、常に眉間に皺を寄せ、氷のような目をしている、男。

 彼の心の中にも、こうして月を愛で言葉を紡ごうとする、風流な一面があるのだ。

 その、意外な事実に、私は、彼に対する見方を、少しだけ、改めなければならないな、と思うのだった。

 あの、厳しい匂いの中に、ほんの少しだけ、優しい、墨の香りが、混じっていることを、私はもう、知ってしまったのだから。

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