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第五話

 

 屯所での日々は、まるで万華鏡のように過ぎていった。

 私のテリトリーは、沖田さんの部屋を中心に、日当たりの良い縁側、そして隊士たちが剣を振るう中庭へと、少しずつ広がっていった。猫の身体は驚くほど環境への順応が早い。私はすぐに、この壬生屯所という世界の「地図」を完成させていった。


 例えば、台所の裏手に行けば、炊事係の者が魚の切れ端をくれることがあること。近藤局長の太い脚は、その大きな体躯に似合わず、足音も立てずに歩くことがあるので注意が必要なこと。そして、鬼の副長である土方さんは、決して自分から私に触れようとはしないが、私が彼の視界の隅で丸くなっているのを、黙って許していること。


 人間としての私の理性は、常に警鐘を鳴らしていた。ここは歴史の奔流の渦中だ。彼らは、いつ命を落とすか分からない人たちなのだ、と。しかし、猫としての私の本能は、そんな理性をいとも簡単に裏切る 。


「トラ、こっちだ!」


 沖田さんの楽しげな声に、鞠を模した小さな布切れが宙を舞う。その瞬間、私の頭から、彼の病のことや、新選組の未来といった深刻な悩みは綺麗さっぱり消え失せる。ただ目の前の獲物を追い、飛びつき、転がり回る。その姿を見て、沖田さんだけでなく、周りの隊士たちまでもが声を上げて笑う。その屈託のない笑い声に包まれていると、ここが地獄のような戦場になる未来など、まるで嘘のように思えた。


 そんな穏やかなある日の午後、屯所の空気がぴりりと張り詰めた。

 一人の見知らぬ浪人が、青い顔で屯所を訪れ、近藤さんと土方さんのいる部屋へ通されていったのだ。私は縁側の柱の陰から、その様子を窺っていた。障子の向こうから漏れ聞こえる声は、普段の隊士たちのものとは明らかに違う。低く、追い詰められたような声。そして、それを断ち切る、土方さんの氷のように冷たい声。


 猫の鋭い聴覚は、その声に含まれる殺気のようなものを敏感に感じ取ってしまう 。何を話しているかは分からない。けれど、これは命に関わる、危険な話だということだけは分かった。やがて、浪人はよろよろと部屋から出てくると、逃げるように去っていった。


 その後、隊士たちがひそひそと話しているのが聞こえた。

「長州の者だったらしい」

「また天誅か……」


(天誅……)


 その物騒な言葉に、奈々の魂が震える。そうだ、ここはそういう時代なのだ。人の命が、驚くほど軽く扱われる。今、目の前で笑っているこの人たちも、明日には血の匂いをさせて帰ってくるかもしれない。あるいは、二度と帰らないかもしれない。


 その夜、私は言いようのない不安に駆られていた。昼間の出来事が、この屯所に漂う死の匂いを、改めて私に突きつけてきたのだ。

 そんな私の様子に気づいたのか、沖田さんは「どうしたんだい、トラ」と優しく声をかけると、私をひょいと抱き上げた。そして、月明かりに照らされた庭へと降り立った。


 庭の隅には、椿の木が植えられていた。まだ固い蕾が多いが、気の早いものがいくつか、ぽつりぽつりと赤い花を咲かせている。

「綺麗だろう、トラ。春はいいなあ」

 沖田さんはそう言うと、指先で、咲いたばかりの赤い花にそっと触れた。


 その光景に、私は息をのんだ。

 赤い椿の花。血を吐く病の象徴。そして、首ごとぽとりと落ちる、その散り際。

 美しい。あまりにも美しい光景なのに、それは同時に、彼の運命そのものを暗示しているようだった 。


 沖田さんは、そんな私の内心など知る由もなく、私を抱きしめ、静かな鼻歌を口ずさみ始める。その温もりに包まれながら、私は決意を新たにしていた。

 歴史は変えられないかもしれない。この人の命を救うことも、できないかもしれない 。

 でも、この腕の中で、彼の孤独が少しでも和らぐのなら。この人が最期の瞬間まで、穏やかに笑っていられるのなら。


 私は、この人の猫でいよう。

 ただひたすらに、寄り添い続けよう。


 やがて訪れる、事件の夏。その足音が、もうすぐそこまで聞こえてきていることも知らずに、私はただ、彼の胸の中で静かに喉を鳴らし続けた。

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