第三十九話
あれから、どれほどの、春が、過ぎただろうか。
お梅さんの腕の中で、私は、穏やかな最期を迎えた。そして、私の魂は、猫の肉体から、解き放たれて自由になった。
私は、ただ、見守るだけの存在になった。
時代の、大きな、大きな、うねりを。そして、そこに生きる、人々の、小さな、小さな、営みを。
ちょんまげを結う男たちの姿は、もうどこにもない。
刀の代わりに、洋傘を差した男たちが、土の道ではなく、石畳の上を、革靴の音を響かせて歩いていく。
空には、黒い煙を吐く、鉄の汽車が走り、遠くからは、船の汽笛の音が、聞こえてくる。
もう、ここには、私が知っている、江戸の町の面影は、ほとんど残ってはいない。
新しい、時代の名前は「明治」。
その日、私は、春の光に誘われて、公園の、桜の木の下にいた。
満開の、桜の花が風に舞い、はらはらと、雪のように降り注いでいる。
その、根元に、一匹の茶色い虎猫が、気持ちよさそうに、丸くなって昼寝をしていた。
私によく似た、どこにでもいる普通の猫だ。
そこへ、一人の、少女がやってきた。
赤いリボンを、髪に結んだ、五つか、六つくらいの、小さな女の子。
彼女は、猫を、驚かせないように、そっと、その場にしゃがみ込んだ。そして、小さな桜色の唇に、ふわりと笑みを浮かべた。
その笑顔を、見た瞬間。
私の、もう存在しないはずの魂が、大きく震えた。
知っている。
私は、その笑顔を、知っている。
悪戯っぽく、少しだけ、つり上がった、目尻。屈託のない、春の陽光のような、その微笑み。
忘れるはずがない。私が、生涯をかけて、焦がれた、ただ一人の、笑顔。
少女は、猫に向かって、優しく語りかける。
「こんにちは。あなた、お名前は、なんていうの?」
猫は、眠たそうに、一度だけ、にゃあ、と鳴いた。
少女は、それが嬉しい、とでもいうように、くすくすと笑った。
そして、こう、言ったのだ。
「そう。あなたは、『トラ』っていうのね。よろしくね、トラ」
ああ、神様。
ありがとうございます。
季節は巡り、命もまた巡るのだ。
私が愛した、誰よりも優しく、誰よりも儚かった、剣士の魂は。
きっと、この穏やかで、優しい光の中に、今も確かに生き続けている。
少女の、小さな手が猫の柔らかい毛皮を、そっと撫でた。
猫は、気持ちよさそうに、ごろごろと喉を鳴らし始める。
どこまでも、平和で、どこまでも、幸福な、光景を見届けた私の魂は。
満足そうに、一度だけ頷くと、春の柔らかな、光の中へと、静かに溶けて消えていった。
これにて、沖田総司の猫であった、「私」の長い物語は、本当の、おしまい。
-了-
ひとまず本編は完結となります。
自分らしくないものを作成してみました。
如何でしたでしょうか。
ここまでご覧頂きありがとうございました。
もう少し「おまけ」のようなものを投稿してちゃんとした完結とします。




