第三十八話
沖田さんのいなくなった部屋は、がらんどうだった。
あれほど、この部屋を支配していた、薬と病の匂いは、綺麗に拭き清められていた。彼の寝ていた、万年床も、どこかへ片付けられてしまった。
そこには、もう、彼の生きていた痕跡は、何一つ残ってはいない。
ただ、春の温かい日差しが、主を失った空っぽの畳の上を、無慈悲に照らしているだけだった。
私は、毎日、その部屋へ通った。
そして、彼が、いつも寝ていたその場所で丸くなるのだ。
目を閉じれば、まだ思い出せるような気がした。彼の、優しい匂いを。私を撫でる、大きな手の感触を。とくん、とくん、という、か細い心臓の音を。
けれど、もちろん、そこにはもう何もない。
ただ、私の記憶の幻影があるだけだった。
お梅さんは、そんな私のことを、決して咎めたりはしなかった。
彼女は、私のために、毎日、新しい水と、そして、焼いた魚の一番美味しいところを、用意してくれた。
「トラちゃん。ご飯だよ」
その声は、いつも、ひどく優しかった。けれど、その奥に、深い悲しみの色が、滲んでいるのを、私は感じていた。
彼女もまた、私と同じように、沖田さんを失った一人なのだ。
ある日の、午後。
私が、いつものように空っぽの部屋で丸くなっていると、お梅さんが静かに入ってきた。
彼女は、私の隣にそっと座ると、懐から何かを取り出した。
それは、沖田さんの枕元に置かれていた、あの小さな紙の袋だった。金平糖の入っていた。
中身は、もうない。けれど、袋からは、まだ微かに、甘い砂糖の匂いがした。
お梅さんは、その空っぽの袋を、まるで大切な宝物のように、両手で包み込んだ。
「……本当に、子供みたいな人、でしたね」
彼女が、誰に言うでもなく、ぽつり、と、呟いた。
「……いつも、この、お菓子を、美味しそうに、食べて。……そして、あなたのことを、本当に、本当に、大事になさっていた」
その、大きな瞳から、はらり、と、涙が、一筋こぼれ落ちた。
「……あなただけが、あの人の、最後の、家族だったから」
その、温かい涙の匂いに誘われるように。
私は、立ち上がると、彼女の膝の上へと歩み寄った。そして、その濡れた頬に、自分の頬を、一度だけそっとすり寄せた。
ありがとう、と。
あなたも、あの人の最後の家族でしたよ、と。
言葉にならない想いを、伝えるように。
お梅さんは、そんな私を、壊れ物を抱きしめるように、その腕の中に、優しく抱きしめた。
季節は、巡る。
千駄ヶ谷の小さな庭は、すっかり、爛漫の光に満ち溢れていた。
私は、縁側でひなたぼっこをしていた。隣には、お梅さんが、静かに座っている。
もう、ここでの暮らしにも、すっかり慣れた。
ここは、穏やかで、優しく、平和な場所だ。
けれど。
ふとした瞬間に、思い出してしまう。
あの、不器用で荒々しくて、そして、誰よりも優しかった男たちのことを。
近藤さんの、豪快な、笑い声を。
土方さんの、不器用な、優しさを。
そして、誰よりも、何よりも、私を愛してくれた、ただ一人の青年の、あの太陽のような笑顔を。
私は、そっと、空を見上げた。
どこまでも、青く澄み渡った、春の空。
あの人も、今頃この空のどこかで、笑っているのだろうか。
もう、苦しみからは、解放されて。仲間たちと、一緒に。
そう思うと、私の胸の奥が、きゅん、と、甘く痛んだ。
この、ささやかな痛みだけが、私が、かつて、「沖田総司の猫」であったことの、唯一の、証なのだった。




