第三十七話『春の雪』
夜が明ける。
東の空が白み始め、障子がぼんやりと明るくなっていく。
私の耳には、鳥たちが一日の始まりを告げる、賑やかなさえずりが聞こえていた。
けれど、私の、すぐ耳の下から聞こえていた、あのか細く苦しげな呼吸の音は、もう聞こえなくなっていた。
彼の胸の、規則正しかった上下運動も、いつの間にか止まっている。
ただ、しん、とした、静寂だけがそこにあった。
(……おきた、さん?)
私は、彼の胸の上で、ゆっくりと顔を上げた。
彼の目は、薄く開かれていた。その澄んだ大きな瞳は、もう天井の木目を見てはいなかった。もっと、ずっと遠くの、私には見ることのできない、何かを見つめているようだった。
そこには、もう何の苦しみも、悲しみもなかった。ただ、全てから解き放たれ、どこか懐かしい場所へ、還っていくかのような、穏やかな安らぎだけが浮かんでいた。
彼の唇が、ほんのわずかに動いた。
何か、言おうとしたのかもしれない。誰かの名を、呼ぼうとしたのかもしれない。
けれど、それは、音にはならず、ただ、ふ、と、最後の息が、静かに漏れただけだった。
それきり、彼は、もう動かなくなった。
私のすぐ下にあった、温もりが少しずつ冷えていく。
私が、ずっと寄り添ってきた、あの優しい温かさが、まるで嘘だったかのように消えていく。
おかしい。
どうして、動かないの。
どうして、撫でてくれないの。
どうして、名前を、呼んでくれないの。
私は、彼の動かなくなった、その胸の上で、にゃあ、と鳴いてみた。
返事はない。
彼の顎に、自分の額をすりつけてみた。
いつもなら、「くすぐったいよ、トラ」と、笑ってくれるはずなのに。
その肌は、まるで石のように冷たい。
その時、私は、初めて理解した。
この人は、もういないのだ。
私の、大好きなこの人は、もう、どこかに行ってしまったのだ。
私の、世界が終わったのだ。
私は、彼の、冷たくなっていくその身体の上で、何度も、何度も、鳴き続けた。
戻ってきて、と。
行かないで、と。
けれど、私の声は、ただ静まり返った部屋に、虚しく響くだけだった。
障子が、す、と開いた。お梅さんだった。
彼女は、部屋の中の、その、異様な静けさに、すぐに、全てを察したようだった。
その場に、へなへなと座り込むと、声を殺して泣き始めた。
私は、それでも、彼の身体から離れようとはしなかった。
この温もりが完全に消えてしまうまで、そばにいたい。
お梅さんは、涙に濡れた顔を上げると、そんな私を見た。
そして、ゆっくりと、こちらへ這い寄ってくると、その、震える手で、私を、そっと抱き上げた。
「……トラちゃん」
彼女の声は、涙で濡れていた。
「……もう、いいんだよ。もう、苦しくないんだからね」
彼女は、私を、その胸に、強く、強く、抱きしめた。
沖田さんと同じくらい、温かかった。
窓の外では、庭の梅の木が、満開の花を咲かせている。
はらり、と、その、白い花びらが風に舞って、部屋の中に舞い込んできた。
それは、まるで季節外れの、春の雪のようだった。
彼の、長かった孤独な冬は、ようやく終わった。
そして、後に残されたのは、美しい春の日差しと、どうしようもない喪失感だけだった。
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