第三十六話
沖田さんの世界から、色が消えた。匂いが消えた。
そして、最後に、音が消えようとしていた。
部屋の中は、いつも、いくつかの音だけで満たされていた。
彼の、喉の奥で、ぜい、ぜい、と鳴る苦しげな呼吸の音。
時折、彼が、寝返りを打つ、衣擦れのかさついた音。
お梅さんが、足音を殺して、部屋を行き来する音。
そして、彼の胸の上で、私が、ごろごろと喉を鳴らす音。
それだけが、私たちの、世界の全ての音だった。
けれど、障子一枚を隔てた外の世界は、たくさんの生命の音で満ち溢れていた。
春が深まっていた。
庭の木々の間を、鳥たちが楽しそうに飛び交い、ちゅるちゅるとさえずっている。
どこか遠くから、子供たちの甲高い笑い声が、風に乗って聞こえてくる。
その、あまりにも平和で、生命力に満ちた音は、この、静まり返った部屋には、決して届かない。まるで、見えない壁でもあるかのように。
「沖田様」
お梅さんが、彼の汗で濡れた額を、手ぬぐいで優しく拭いながら語りかける。
「……聞こえますか。今日は、いい、お天気ですよ」
その声は、春の陽だまりのように温かい。
けれど、沖田さんの虚ろな瞳は、何の反応も示さない。彼は、もう彼女の言葉を聞いていないのかもしれない。あるいは、聞いていても、その意味を理解する力を失ってしまったのかもしれない。
私には、お梅さんの声が、はっきりと聞こえている。けれど、私がその身を預けている、この大きな身体は、もう何の反応も返してはくれない。
ただ、時折、彼が、夢と現の狭間を彷徨うように、何かを呟くことがあった。
それは、言葉になっていない、音の記憶。
「……俺の……勝ちだよ……」
「……永倉さんの、笑い声は……うるさい、なあ……」
「……きんとき……ちん……」
彼が、その途切れ途切れの、うわ言で探しているのは、彼が生きていた世界の音だった。仲間たちの声。剣の音。そして、あの夏の夜に聞いた、遠い祭りの音。
もう、二度と聞くことのできない、失われた音の欠片。
やがて、彼の呟きも途絶えた。
部屋の中は、彼の、ぜい、ぜい、という、呼吸の音だけが支配する、本当の静寂に包まれた。
私は、たまらなくなった。
このまま、この人が、静寂の中に溶けて消えてしまいそうな、気がして。
私は、彼の胸の上で、これ以上ないくらいに大きな音で喉を鳴らし始めた。
ごろごろ、ごろごろ、ごろごろ……。
それは、もう、ただの、猫の鳴き声ではなかった。
私の、命の音。私が、ここにいるという、証の音。
この人が、まだ、一人ではないという、最後の叫び。
その振動が、彼の、痩せた胸板に伝わっていく。
その時だった。
彼の、布団の上に、力なく投げ出されていた指先が、ほんの、ほんの、わずかに、ぴくり、と、動いた。
そして、その指先が、私の毛皮を探すように、彷徨い、一度だけ優しく触れた。
彼は、もう、外の世界の音は聞こえないのかもしれない。
けれど、この、胸の上で鳴り響く、小さな命の振動だけは、確かに感じてくれたのだ。
私は、ただひたすらに、喉を鳴らし続けた。
彼の、最後の音が、彼の呼吸が、完全に止まってしまう、その瞬間まで。
この、命の音が、どうか、彼への道しるべとなりますように、と祈りながら。
この、深く、暗い、静寂の中で、彼が、決して、一人きりに、なりませんように、と。




