第三十五話
嘘は、劇薬だった。
そして、その薬は、驚くほどの効果をもたらした。
あの、若い隊士が、偽りの吉報を伝えた、次の日の朝。沖田さんは、自ら、布団から身を起こしたのだ。
「お梅さん、おはよう。……今日の、飯は、なんだい」
その、あまりにも、はっきりとした声に、お盆を持ってきた、お梅さんが、息をのんだのが分かった。
彼の瞳には、力が宿っていた。頬には、微かに血の気が差している。まるで、長い冬眠から、無理やり、目覚めた獣のように。
その日からの、数日間。この、静かな最後の棲家で、奇跡のような時間が流れた。
沖田さんは、よく喋るようになった。
私を、膝の上に乗せ、縁側で日だまりを浴びながら、昔の話を、たくさんしてくれた。
「近藤さんはな、トラ。本当に、熊みたいな人なんだ。でも、涙もろくてさ。俺が、ちょっと、怪我をしただけでも、自分のことみたいに、心配してくれた」
知ってる。
「土方さんは、いっつも、怖い顔をしてるだろ。でも、本当は、誰よりも、甘いものが、好きなんだぜ。俺、知ってるんだ。あいつの、隠し場所」
知ってる。
永倉さんは、原田さんは、斎藤さんは−−−。
知ってる。
その声は、弾んでいた。彼の、心は、もう、この、千駄ヶ谷にはない。江戸城で、勝利に沸く、仲間たちの元へと、飛んでいってしまっているのだ。
奈々の魂は、その、無邪気な思い出話を聞くたびに、ずきずきと痛んだ。
その、優しい人も。
その、不器用な人も。
もう、あなたの手の届かない場所へ、行ってしまったのだと、どうして伝えられようか。
私は、ただ、彼の、楽しそうな声に、相槌を打つように、ごろごろと、喉を鳴らし続けることしかできなかった。
お梅さんも、戸惑っているようだった。けれど、沖田さんの、その、あまりにも嬉しそうな顔を見て、彼女もまた、つられるように優しく微笑んでいた。
この家に、初めて、本当の穏やかな時間が流れている。
それが、全て、砂上の楼閣のような嘘の上に成り立っているとも知らずに。
奇跡は、長くは続かなかった。
その日も、沖田さんは、縁側で、私を撫でながら、試衛館時代の、思い出話をしていた。
「あの頃は、金はなかったけど、毎日が、本当に、楽しくてさ。俺と、山南さんと、藤堂とで……」
山南敬助。藤堂平助。
その名を口にした瞬間だった。
彼の、言葉が、ぴたりと止まった。そして、その顔から、すうっと、血の気が引いていく。
忘れていた、記憶の、蓋が、開いてしまったのだろう。仲間だったはずの、彼らが、どうなったのか。その、思い出したくない、現実。
「……こほっ」
一度漏れた乾いた咳が、引き金だった。
「ごほっ、ごほっ! げほっ、げほっ、げほっ……!」
彼の身体が、激しく、二つに折れ曲がる。それは、もう、咳というよりも、嘔吐に近い、苦悶の発作だった。痩せた背中が、哀れなほどに波打ち続ける。
「沖田様!」
お梅さんの、悲鳴のような声が響く。
沖田さんは、彼女が、駆け寄るのも構わず、縁側から転げ落ちるようにして、庭の土の上へとうずくまった。
そして、胃の腑の奥底から、全てを絞り出すように、地面に何かを吐き出した。
それは、もう、血、というよりも、彼の、命の塊そのものだった。
嘘の劇薬は、彼の精神を一時的に高揚させた。
けれど、その代償として、彼の肉体に残されていた、最後の生命力を、根こそぎ奪い去ってしまったのだ。
その後、彼は、二度と、自らの足で縁側に立つことはなかった。
言葉を発することも、ほとんどなくなった。
ただ、一日中、布団の中で、天井の木目を見つめている。その瞳からは、光が完全に消え失せていた。
偽りの、希望も、思い出も、仲間たちの、幻影も、もう、そこにはない。
ただ静かに、己の死だけを見つめている。
残光は、消えた。
私は、彼の、ひどく静かになった胸の上に戻った。
とくん、とくん、と、聞こえる、心音。それは、以前よりも、ずっと、ゆっくりになっていた。
もう、本当に終わりが近い。
私は、ただ、その、か細い、命の音に耳を澄ませながら、暗闇の中で静かに喉を鳴らし続けた。
この音が、少しでも長く続きますように、と、祈りながら。




