第三十四話
千駄ヶ谷の、小さな庭に春が来た。
冬の間、固く、黒い、骸のようだった、梅の木の枝に、ほころぶように白い花が咲いたのだ。その甘く清廉な香りが、開け放たれた障子を通って、部屋の中にまで届いてくる。
けれど、その香りは、沖田さんの元には、もう届いていないようだった。
彼の世界は、日に日に、狭く、そして、静かになっていく。私の喉を鳴らす音と、彼自身の浅い呼吸の音。それだけが、この部屋の全ての音だった。
その日の昼下がり、珍しく客人が訪れた。
隊士の一人だった。けれど、私が知っている幹部の誰でもない。おそらく、江戸に残った平隊士の一人なのだろう。彼は、ひどく緊張した面持ちで、沖田さんの枕元に正座した。
その気配に、沖田さんは、ゆっくりと瞼を開けた。
そして、本当に、久しぶりに、はっきりとした、光をその瞳に宿した。
「……知らせか」
彼は、喘ぐように、そう言った。
「……甲州での、戦は。……近藤さんは、ご無事か」
その声には、懇願するような響きがあった。
若い隊士は、顔を、畳に、擦り付けるようにして、深く頭を下げた。そして、顔を上げた時、その顔には、無理やり作ったような、明るい笑顔が貼り付いていた。
その笑顔から、嘘の匂いがする、と、私の本能が、告げていた。
「はっ! 大勝利にございます!」
隊士の声は、ひどく、上擦っていた。
「近藤局長、土方副長の指揮のもと、我ら、新選組、いえ、甲陽鎮撫隊は、敵軍を、見事、打ち破りました! 今頃は、江戸城にて、将軍様より、直々の、お褒めの言葉を賜っている頃かと!」
ああ、と、奈々の魂が、声にならない悲鳴を上げた。
嘘だ。全部、嘘だ。
奈々の、人間の知識が、本当の歴史を知っている。甲州での、惨敗。そして、その後の、近藤勇の捕縛。彼の、悲劇的な最期。
この、若い隊士は、土方さんの命令で来たのだろう。沖田に、夢を見せたまま逝かせてやれ、という、鬼の、最後の優しさなのだろう。
なんて、残酷な、慈悲だろう。
けれど、沖田さんは、その嘘を、一点の曇りもなく信じた。
その、痩せこけた、頬が、ぱあっと紅潮する。その目に、みるみるうちに力が蘇っていく。
「……そうか」
「……そうか、皆、無事か。……勝ったのか」
彼は、子供のように、何度も、何度も、そう、繰り返した。
「……よかった……」
そう言って、彼は、心の底から、幸せそうに笑った。
その笑顔は、私が、この家に来てから、初めて見る一点の曇りもない、本当に美しい笑顔だった。
だからこそ、あまりにも悲しかった。
若い隊士は、役目を終えると、逃げるように部屋から出ていった。
その日の、沖田さんは、驚くほど元気だった。お粥にも、きちんと手をつけていた。そして、私を撫でながら、何度も嬉しそうに語りかけるのだ。
「近藤さんが、帰ってきたら、今度こそ、お祝いだな、トラ」
「土方さんにも、褒めてもらえるかなあ」
私は、ただ、彼の言葉に、ごろごろと、喉を鳴らして、応えることしかできなかった。
その夜、沖田さんは、本当に、穏やかな顔で眠りについた。
悪夢に、うなされることもなく、苦しい咳に、胸を震わせることもない。ただ、すう、すう、と、静かな、寝息を立てていた。
私は、彼の胸の上で丸くなる。その、穏やかな心音を聞きながら、私もまた眠りに落ちていった。
私が、次に、目を覚ましたのは、庭で、何かが落ちる小さな音でだった。
ぽとり。
私は、障子の向こうを見る。
庭の隅に植えられた、椿の木。その枝に一輪だけ咲いていた、血のように赤い花が、その重みに耐えきれなくなったかのように、首ごと、地面に落ちていた。
月明かりに照らされた、その、あまりにも鮮やかな、赤。
それは、まるで、一人の英雄の死を告げているかのようだった。
部屋の中は、静かだった。
沖田さんは、何も知らずに、まだ、勝利の夢の中で、幸せそうに眠っている。
私は、その寝顔と、庭に落ちた赤い椿の花を、ただ、黙って交互に見つめることしかできなかった。




