第三十三話
千駄ヶ谷での、静かな日々が始まった。
私の、一日の大半は、沖田さんの、布団の上で過ぎていく。
朝、障子越しに、柔らかな光が差し込むと、お梅さんという、この家の娘さんが、足音も立てずに、部屋に入ってくる。そして、お粥と、白湯と、苦い匂いのする薬を、枕元に置く。彼女は、沖田さんと、決して目を合わせようとはしない。その身体からは、いつも、私たちに対する、微かな恐怖の匂いがした。労咳という病への、そして、かつて「人斬り」だったという、沖田さんへの恐怖。
沖田さんは、ほとんど、食事に手をつけることはなかった。
ただ、ぼんやりと、庭を眺めている。その庭では、冬の、数少ない日だまりを求めて、鳥たちがさえずっている。自由な、彼らの声を聞きながら、何を思っていたのだろう。
その日も、お盆の上のお粥は、ほとんど減っていなかった。
お梅さんが、無言で、お盆を下げようとした、その時だった。
「……待って」
沖田さんが、か細い声で、彼女を、呼び止めた。
そして、その震える指で、お盆の隅に乗せられていた焼き魚の、ほんのひとかけらをつまみ上げた。それは小指の先ほどの、小さな身だった。
彼は、それを私の口元へと、ゆっくりと運んでくる。
「……トラ」
「……お前だけでも、食べな」
私は、そのひとかけらを、ありがたくいただいた。
お梅さんの動きが、ぴたり、と、止まった。彼女は、信じられないというような目で、沖田さんと、そして、私を見つめていた。
自分は、もう食べる力もないというのに。腕の中の小さな猫に食事を分け与える。
そのあまりにも優しい光景。
彼女の身体から、ふっと、恐怖の匂いが薄れたのを、私の鼻は感じ取った。
その日を境に、お梅さんの、態度が、少しだけ、変わった。
部屋に入ってくるとき、「沖田様、お食事でございます」と、小さな声で言うようになった。
そして、私のために、水の入った小さなお皿を、部屋の隅に置いてくれるようになった。
彼女の中で、沖田さんは、もうただの恐ろしい「人斬り」や「病人」ではなくなったのだ。ただ、一人の、優しい青年として、映り始めたのかもしれない。
けれど、そんな周りの小さな変化とは裏腹に。
沖田さんの、命の灯火は、日に日に、その光を弱くしていった。
起きている時間よりも、眠っている時間の方が長くなる。
そして眠っている間、彼は、うわ言を言うようになった。
「……近藤、さん……」
「……土方、さん……」
「……みんな、どこへ、行ったんだい……」
仲間たちの名を呼ぶ、その声。それは、まるで、迷子になった子供の泣き声のようだった。
奈々の魂が、そのたびに張り裂けそうになる。
もう誰も、ここには来ない。あなたの声は、もう、誰にも届かない。
ある日の、午後。
沖田さんは、穏やかな顔で眠っていた。
お梅さんが、部屋の掃除をしながら、ふとその寝顔を見つめている。そして、彼の胸の上で、同じように眠っている私に気づいた。
彼女は、そっと手を伸ばしてきた。
その指先が、私の毛皮に触れるか触れないか、という、その場所で、一度ためらうように止まった。
そして、何もせず、その手を引っこめた。
その目に浮かんでいたのは、憐れみだった。
もう、長くないであろう、この若く美しい青年への。そして、その最期をただ一人見守ることしかできない、この小さな猫への、どうしようもない憐れみだった。
部屋の中には、冬の日だまりが、静かに差し込んでいた。
けれど、それよりも、ずっと、濃く、深い、死の影が、もうすぐそこまで迫ってきているのを、私は感じていた。




