第三十二話
江戸での、慌ただしい日々は、長くは続かなかった。
土方さんたちが、甲州へと出陣して数日後。私と沖田さんは、再び、小さな籠に乗せられどこかへと運ばれた。
籠の中は、暗く、狭く、そして、ひどく揺れた。
沖田さんは、その揺れに、何度も、激しく咳き込む。私は、彼の、冷たく、汗ばんだ手の中で、ただじっと丸くなっていた。隙間から漏れ入ってくる、江戸の町の喧騒も、私には、もうどうでもよかった。ただ、この腕の主が息をしている。その、か細い事実だけが、私の全てだった。
やがて、籠は、ぴたりと、止まった。
外は驚くほど静かだった。あれほど、耳についていた、町の喧騒が嘘のように聞こえない。代わりに、私の耳に届くのは、ちち、と鳴く、小鳥のさえずりと、さわさわと、木の葉が風に揺れる音だけ。
連れてこられたのは、千駄ヶ谷という場所にある、小さな一軒家だった。
そこが、沖田さんの、そして、私の「最後の棲家」となった。
その家は、どこまでも静かだった。
埃っぽかった、江戸の屋敷とは違う。清潔に、掃き清められた畳。染み一つない真っ白な障子。そして、部屋の窓からは、手入れの行き届いた、小さな美しい庭が見えた。
けれど、私には、この家が、ひどく居心地が悪く感じられた。
ここには、匂いがなかったのだ。
仲間たちの、汗の匂いも、土の匂いも、鉄の匂いも、血の匂いさえも。沖田さんが、生きてきた世界の匂いが、何一つしなかった。ただ、無機質な薬の匂いと、そして、全てが、終わりに向かっていく、静かな諦めの匂いだけが満ちていた。
沖田さんは、その日を境に、ただの、「病人」になった。
彼の腰には、もう刀はない。ただ、分厚く清潔な布団が、彼をこの世から隔てるように、優しく、そして、無慈悲に包み込んでいるだけだった。
彼の世話をするのは、時折、訪れる、お医者様と、そして、この家のお梅さんという若い娘さんだけだった。彼女は、多くを語らず、ただ黙々と、沖田さんの身の回りの世話をした。
その日、沖田さんは、縁側で庭を眺めていた。
冬の、弱い日差しが、彼の、あまりにも痩せてしまった、その横顔を照らしている。
庭の松の木に、一羽の雀がとまった。
京にいた頃の、彼ならば、きっと悪戯っぽく笑って、その雀を捕まえようとでもしただろう。
けれど、今の彼は、ただ、じっと、その雀を見つめているだけだった。
雀は、しばらく、何かを探すように、枝の上を、ぴょんぴょんと、跳ね回っていたが、やがて満足したのか、空へと飛び立っていった。自由に。どこへでも、行ける、空へと。
沖田さんは、その、小さな、黒い点が、空に消えていくまで、ずっと、ずっと、目で追っていた。
奈々の魂が、痛みに軋む。
この人は、もう飛べないのだ。この、静かで小さな家が、彼の最後の籠なのだ。
私は、たまらなくなって、彼の膝の上へと飛び乗った。そして、その、骨張った胸に自分の額をぐりぐり置いた。
「……静かだねえ。ここは」
その声は、風に、かき消されてしまいそうなほど、か細かった。
「……静かすぎるくらいだ」
その言葉が、彼の、本当の心の叫びだった。
仲間たちの、怒声も、笑い声も、もう、ここには届かない。
彼は、もう、剣士・沖田総司ではない。ただ、死を待つためだけに、ここに生かされている。
その、残酷な事実だけが、冬の、冷たい空気のように、この最後の棲家を、満たしていた。




