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幕間9『井戸端の西瓜』

 

 もう、何もかもが、溶けてしまいそうな、夏の日だった。


 空気は、熱せられた重たい綿のように、私の身体にまとわりつく。じりじりと焼けた地面を歩く気力もなく、私は、縁の下の、ひんやりとした土の上で、一日中、ぐったりと伸びていた。

 世界からは、全ての音が消え、ただ、じいいいいい、という、蝉の声だけが、鼓膜を、揺らし続けていた。


 その、死んだような午後の静寂を破ったのは、屯所の門の方から聞こえてきた、わっ、という、地鳴りのような歓声だった。

 何事だろう。私の、猫としての、好奇心が、気怠さに、打ち勝った。私は、重い身体を引きずるようにして、音のする方へと向かう。

 庭には、隊士たちが、人だかりを作っていた。その、輪の中心にいるのは、局長の近藤勇さん。そして、その足元には、見たこともないほど大きな、緑と黒の縞模様の丸い塊が、どっしりと鎮座していた。


 西瓜すいかだ!


 隊士たちの目は、まるで、宝物を見るかのように、その、緑色の塊に、釘付けになっていた。


「よし! まずは、井戸で、よーく、冷やすんだ!」

 近藤さんの、その、鶴の一声で数人の若い隊士たちが、歓声を上げながらその巨大な西瓜を、よいしょ、よいしょ、と、井戸端まで運んでいく。

 私も、その後を、興味津々でついていった。

 井戸水の中に、西瓜が、ざぶん、と、豪快な音を立てて沈められる。その、涼しげな音を聞いただけでも、うだるような暑さが、少しだけ和らぐような気がした。


 しばらくして、すっかりと冷やされた西瓜が、筵の上に運び出された。

「よし、俺が斬る!」

 と、名乗りを上げたのは、永倉さんだった。

「馬鹿いえ、こういうのは、一番、腕の立つ奴が、やるもんだ! 俺がやる!」

 と、原田さんが、胸を張る。

 二人の、いつもの、子供のような、言い争い。それを、周りの隊士たちが、「やれやれ!」と、無責任に、囃し立てる。


 その、賑やかな輪を、近藤さんが、大きな笑い声で、制した。

「まあまあ、お前たち。ここは、局長である、俺に、任せてもらおうか」

 彼は、そう言うと、すらり、と、腰の虎徹を抜き放った。

 その刀身が、真夏の太陽を反射して、きらり、と眩しく光る。

 隊士たちの、喧騒が、ぴたり、と止んだ。誰もが、固唾を飲んで、その一太刀を見守っている。

 近藤さんは、にやり、と笑うと、その刃を振り下ろした。


 すぱーーーーーん!


 驚くほど、小気味良い音と共に、西瓜は見事に、真っ二つに割れた。

 その、燃えるような、赤い断面が見えた瞬間、わあああああ、という、今日一番の大歓声が空に響き渡った。


 後は、もう夢のような時間だった。

 隊士たちは、それぞれ、切り分けられた、赤い果実に、一心不乱にかぶりつく。

「うめえ!」

「冷てえ!」

「甘いなあ!」

 あちこちで、そんな、幸せな声が上がる。口の周りを、汁でべとべとにしながら、誰もが、童心に返って笑い合っていた。


 沖田さんも、その輪の中心で、実に、美味そうに、西瓜を頬張っていた。その笑顔は、夏の太陽のように明るかった。

 彼は、私に気づくと手招きをした。

 そして、自分の食べている、その一番中心の、甘い部分を、ひとかけら指でちぎると、私の口元へと、そっと差し出してくれた。

「ほら、トラ。お前も、食ってみな」

 私は、おそるおそる、その、赤い果汁を、ぺろり、と、舐めた。

 次の瞬間、私の全身を、衝撃が駆け抜けた。

 なんだ、この、甘さは。花の蜜よりも、ずっと、ずっと甘く、そして、ひんやりとしていて気持ちがいい。

 私は、夢中でその、小さな、赤い塊をしゃくしゃくと、食べた。


 夏の、匂い。

 井戸水の、冷たさ。

 仲間たちの、屈託のない笑い声。

 そして、この舌の上で、とろけるような西瓜の甘さ。

 この日の、記憶は、私の、たくさんの思い出の中でも、とびっきりに幸福な、宝物として、今もきらきらと輝いている。

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