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第四話

 

 壬生屯所での生活が始まって、数日が過ぎた。


 もう、あの凍えるような寒さと、内臓を焼くような飢えに苦しむことはない。私は大抵、沖田さんの部屋の隅に置かれた座布団か、あるいは彼の布団の足元で目を覚ます。障子を通して差し込む柔らかな朝日、遠くから聞こえてくる隊士たちの朝稽古の声、そして台所から漂う味噌汁の香り。それらが、私の新しい「日常」になった。


「おはよう、トラ」

 目を覚ました私に気づくと、沖田さんはまだ眠たげな顔で微笑み、私の頭を優しく撫でてくれる。その手が、声が、とてつもなく心地よい。人間の魂を持つ私は、こんなにも無防備に甘えてしまう自分に戸惑うのに、猫の身体は正直だ。喉をごろごろと鳴らし、彼の手に頭をすり寄せてしまう。この時間が、永遠に続けばいいのに、と本気で願ってしまうのだ。


 日中、私はたいてい沖田さんの後をついて回った。彼はまるで大きな子供のように、私のことを他の隊士たちに自慢して回る。

「見てくださいよ、トラは賢いでしょう」

 そんな彼に、屯所にいる他の隊士たちも、様々な反応を示した。


 ある日の昼下がり、縁側で日向ぼっこをしていると、ふいに視線を感じた。そちらに目を向けると、道場の隅の影で、一人の男が静かにこちらを見ていた。


 新選組三番隊組長、斎藤一さんだ 。


 口数が極端に少なく、何を考えているか読めない人 。その鋭い視線は、まるで私の魂の奥底まで見透かしているようで、思わず身を固くしてしまう 。しかし彼は何も言わず、すっと立ち上がるとどこかへ行ってしまった。なんだか少し怖い人だ。そう思っていたら、その日の夕方。私がうたた寝をしていた場所に、斎藤さんが置いたのか、小さな魚の干物が一つ、ころんと転がっていた。斎藤さんの気まぐれな優しさは、私の予測をいつも超えてくる 。



「おお、トラ! いいところにいたな!」

 そんな静かな時間もあれば、嵐のような時間が訪れることもある。

 大声で私を呼ぶのは、二番隊組長の永倉新八さんだ 。その隣には、いつも十番隊組長の原田左之助さんがいる 。

「トラ、俺と沖田、どっちが強いか教えてみろ!」

 永倉さんはそう言って、大きな手で私の体をわしゃわしゃと撫で回す。一方の原田さんは、自分の食べていた握り飯をちぎって、「ほら、食うか?」と私の目の前に差し出した 。

「原田さん、猫はそんなに食べられませんよ」

 呆れたように笑う沖田さん。この二人がいる場所は、いつも太陽のように明るく、賑やかだった。



 そして、屯所には、陽だまりそのもののような人もいた。

 総長の、山南敬助さんだ 。

 読書をしている彼の膝の上は、屯所で一番気持ちのいい昼寝場所だった 。彼は静かに書物を読みながら、時折、私の背中を優しく、ゆっくりと撫でてくれる。その穏やかな時間に、私の心は安らぐ。しかし、同時に、奈々の魂は悲鳴を上げていた。

(山南さん……あなたは、そんな風に笑っていては、だめなのに……)

 彼の未来を知っているからこそ、その穏やかさが、私の胸をナイフのように切り裂くのだ 。




 その日の夜。

 月明かりが差し込む部屋で、沖田さんは黙々と愛刀の手入れをしていた。油を塗り、布で拭う。その真剣な横顔は、昼間の無邪気さとはまるで別人のようだ。私は、ただ息を詰めて、その光景に見入っていた。


 手入れが終わり、刀を鞘に納めると、部屋の空気がふっと和らぐ。沖田さんは懐から小さな紙袋を取り出した。中から現れたのは、星屑のようにきらきらと輝く、金平糖だった 。彼は一粒を口に放り込むと、もう一粒を手のひらに乗せ、私の目の前に差し出した。

「ほら、トラにもやるよ」

 甘い砂糖の香り。もちろん私は食べられないけれど、その気持ちが嬉しくて、私は彼の指先をくんくんと嗅いだ。


 彼が、ふふ、と笑った、その直後だった。


「……こほっ」


 小さく、乾いた咳。

 沖田さんは、はっとしたように口元を抑え、何でもないというように私に微笑みかけた。

 けれど、猫の鋭い耳は、その僅かな音を聞き逃しはしなかった 。

 昼間の賑やかさも、膝の上の温もりも、金平糖の甘さも、すべてが遠のいていくような、冷たい感覚。


(……始まったの?)


 私の魂が、そう呟いた。

 この穏やかな日常の下で、彼の運命は、もう静かに動き始めているのだ。

 私はたまらなくなって、彼の膝に駆け上がり、その胸にぐりぐりと頭を押し付けた。言葉を話せない私が、彼にしてあげられること。それは、ただ、こうして寄り添うことだけだった。

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