幕間8『副長の隠し場所』
その日の昼下がり、沖田さんは、珍しく、近藤さんに呼ばれて、母屋の方へと出かけていた。
主のいない部屋は、がらんとしていて、ひどく、退屈だった。手持ち無沙汰になった私は、久しぶりに、本格的な「縄張り巡り」をすることにした。私の、猫としての重要な仕事の一つだ。
台所の裏、井戸の周り、道場の隅。いつもと変わらない、平和な光景。
最後に残ったのは、屯所の北東の角。私が、普段、最も近寄らない場所だった。
なぜなら、そこは、鬼の副長・土方歳三の、部屋の近くだからだ。
彼の部屋の周りだけは、空気が違う。ぴんと張り詰めた、冬の朝のような、厳しい匂いがする。彼の、あの、全てを見透かすような、鋭い眼光を思い出すと、私の足は、自然とすくんでしまうのだ。
今日も、遠くから、様子を窺うだけで引き返そう。そう思った、その時だった。
くん、と、私の鼻が、ある、特別な香りを捉えた。
それは、花の香りではない。魚の匂いでもない。もっと、こう、脳髄を、とろかすような、甘く、芳醇な、香り。卵と、砂糖と、蜜が、丁寧に、焼き上げられたような、極上の匂い。
(……なんだ、この匂いは……!)
私の、猫としての本能が恐怖心に打ち勝った。
私は、そろり、そろりと、匂いの元へと、四本の足を、慎重に運んでいく。
匂いの元は、土方さんの部屋の、すぐ脇の縁の下からだった。
私は、縁の下の、薄暗い闇の中へと、頭を突っ込むようにしてその正体を探った。すると、壁際の、埃をかぶった隅に、一枚だけ、不自然に浮き上がっている床板があるのを見つけた。
匂いは、ここからだ。
私は、前足の爪を、そっと、その隙間に引っ掛け、くい、と、力を込めてみた。
思ったよりも、板は、あっさりと、音もなくずれた。
そして、その下から、現れたのは、小さな桐の箱だった。
箱を開けるまでもない。蓋の隙間から、先ほどの、極上の匂いが、濃厚に立ち上ってくる。
奈々の魂が、その菓子の名を、教えてくれた。南蛮渡来の、高級菓子。カステラ、というものだ、と。
私は、その、あまりにも魅惑的な存在に、完全に心を奪われていた。どうにかして、ひとかけらでも、この舌で、味わうことはできないものか。そう真剣に、考えていた、その瞬間だった。
ぎしり、と。
すぐ背後で、廊下の床が、重々しく軋む音がした。
振り返るまでもない。この、足音。この気配。
土方さんだ!
私の全身の毛が、ぶわっ、と、逆立った。見られた! 鬼の副長の、秘密の隠し場所を暴いてしまった!
私は、心臓が、喉から飛び出しそうになるのを感じながら、脱兎のごとく、その場から逃げ出し、近くの、植え込みの陰へと身を潜めた。
息を殺して、様子を窺う。
土方さんは、私がいた場所に立つと、まず、辺りを、鋭い目で、きょろりと見渡した。誰もいないことを確認すると、彼は、実に、手慣れた様子で、例の床板をずらし、中の桐の箱を取り出した。
そして、その、黄金色の菓子を、ひとかけらつまみ上げる。
彼は、もう一度だけ、周囲を、ちらりと確認した後、その一切れを、まるで、この世で最も、大切な宝物でも味わうかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、口の中へと、運んでいった。
その瞬間、彼の、あの、常に、眉間に刻まれている、深い皺が、ほんの少しだけ、和らいだのを、私は、確かに見た。
厳しい鬼の顔が、一瞬だけ、ただの甘いもの好きの、男の顔になっていた。
彼は、満足げに、一度だけ、小さく頷くと、箱を元の場所に戻し、床板を、寸分違わず、元通りにした。そして、何事もなかったかのように、いつもの、厳しい副長の顔に戻って、背筋を伸ばし、去っていった。
後に残されたのは、私と、そして、鬼の副長の、甘い秘密の記憶だけ。
なんだか、とんでもないものを見てしまった。
でも、同時に、あの、常に、張り詰めている男の、意外な一面を知ってしまい、私の心は、なんだか、くすぐったいような、温かい気持ちで満たされるのだった。




