表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/59

幕間8『副長の隠し場所』

 

 その日の昼下がり、沖田さんは、珍しく、近藤さんに呼ばれて、母屋の方へと出かけていた。


 主のいない部屋は、がらんとしていて、ひどく、退屈だった。手持ち無沙汰になった私は、久しぶりに、本格的な「縄張り巡り」をすることにした。私の、猫としての重要な仕事の一つだ。


 台所の裏、井戸の周り、道場の隅。いつもと変わらない、平和な光景。

 最後に残ったのは、屯所の北東の角。私が、普段、最も近寄らない場所だった。

 なぜなら、そこは、鬼の副長・土方歳三の、部屋の近くだからだ。


 彼の部屋の周りだけは、空気が違う。ぴんと張り詰めた、冬の朝のような、厳しい匂いがする。彼の、あの、全てを見透かすような、鋭い眼光を思い出すと、私の足は、自然とすくんでしまうのだ。

 今日も、遠くから、様子を窺うだけで引き返そう。そう思った、その時だった。


 くん、と、私の鼻が、ある、特別な香りを捉えた。

 それは、花の香りではない。魚の匂いでもない。もっと、こう、脳髄を、とろかすような、甘く、芳醇な、香り。卵と、砂糖と、蜜が、丁寧に、焼き上げられたような、極上の匂い。

(……なんだ、この匂いは……!)

 私の、猫としての本能が恐怖心に打ち勝った。

 私は、そろり、そろりと、匂いの元へと、四本の足を、慎重に運んでいく。


 匂いの元は、土方さんの部屋の、すぐ脇の縁の下からだった。

 私は、縁の下の、薄暗い闇の中へと、頭を突っ込むようにしてその正体を探った。すると、壁際の、埃をかぶった隅に、一枚だけ、不自然に浮き上がっている床板があるのを見つけた。

 匂いは、ここからだ。

 私は、前足の爪を、そっと、その隙間に引っ掛け、くい、と、力を込めてみた。

 思ったよりも、板は、あっさりと、音もなくずれた。

 そして、その下から、現れたのは、小さな桐の箱だった。

 箱を開けるまでもない。蓋の隙間から、先ほどの、極上の匂いが、濃厚に立ち上ってくる。

 奈々の魂が、その菓子の名を、教えてくれた。南蛮渡来の、高級菓子。カステラ、というものだ、と。

 私は、その、あまりにも魅惑的な存在に、完全に心を奪われていた。どうにかして、ひとかけらでも、この舌で、味わうことはできないものか。そう真剣に、考えていた、その瞬間だった。


 ぎしり、と。

 すぐ背後で、廊下の床が、重々しく軋む音がした。

 振り返るまでもない。この、足音。この気配。

 土方さんだ!

 私の全身の毛が、ぶわっ、と、逆立った。見られた! 鬼の副長の、秘密の隠し場所を暴いてしまった!

 私は、心臓が、喉から飛び出しそうになるのを感じながら、脱兎のごとく、その場から逃げ出し、近くの、植え込みの陰へと身を潜めた。


 息を殺して、様子を窺う。

 土方さんは、私がいた場所に立つと、まず、辺りを、鋭い目で、きょろりと見渡した。誰もいないことを確認すると、彼は、実に、手慣れた様子で、例の床板をずらし、中の桐の箱を取り出した。

 そして、その、黄金色の菓子を、ひとかけらつまみ上げる。

 彼は、もう一度だけ、周囲を、ちらりと確認した後、その一切れを、まるで、この世で最も、大切な宝物でも味わうかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、口の中へと、運んでいった。


 その瞬間、彼の、あの、常に、眉間に刻まれている、深い皺が、ほんの少しだけ、和らいだのを、私は、確かに見た。

 厳しい鬼の顔が、一瞬だけ、ただの甘いもの好きの、男の顔になっていた。


 彼は、満足げに、一度だけ、小さく頷くと、箱を元の場所に戻し、床板を、寸分違わず、元通りにした。そして、何事もなかったかのように、いつもの、厳しい副長の顔に戻って、背筋を伸ばし、去っていった。


 後に残されたのは、私と、そして、鬼の副長の、甘い秘密の記憶だけ。

 なんだか、とんでもないものを見てしまった。

 でも、同時に、あの、常に、張り詰めている男の、意外な一面を知ってしまい、私の心は、なんだか、くすぐったいような、温かい気持ちで満たされるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ