幕間7『祇園囃子の夜』
昼間の熱気を、そのまま閉じ込めたような、夏の夜だった。
風はぴたりと止み、じっとりとした湿気が、私の毛皮にまとわりつく。私は、少しでも涼を求めて、ひんやりとした縁側の床板に、これ以上ないというくらい、だらりと体を伸ばしていた。耳に届くのは、草むらで鳴く虫の声と、時折、遠くで聞こえる、誰かの笑い声だけ。壬生の夜は、いつも穏やかだった。
その、静寂を破るように。
どこからか、不思議な音が聞こえ始めた。
最初は、ほんの、微かな響きだった。けれど、私の耳は、それを確かに捉えていた。
とん、とん、とん、という、軽やかな低い音。
ぴーひゃらら、という、空気を切り裂くような、高く少しだけ物悲しい音。
そして、その間を縫うように、こん、ちきちん、という、金属が触れ合うような甲高い音。
それらの音は、決して、混じり合うことなく、それでいて、一つの、大きな、うねりとなって、夜の闇を渡り、この屯所まで、寄せては返す、波のように届いてくる。
なんだろう、この音は。
私の耳が、ぴん、と、音のする方角を向く。身体が、自然と、緊張する。それは、私が知っている、どんな音とも違っていた。
「……始まったみたいだねえ」
不意に、背後から優しい声がした。
振り返ると、そこに、沖田さんが立っていた。昼間の、厳しい稽古着ではない。湯上がりの、風通しの良さそうな浴衣を身にまとっている。その姿は、ひどく無防備で、年相応、若者に見えた。
彼は、私の隣に静かに腰を下ろす。そして、私と同じように、じっと、音のする方角へ耳を澄ませた。
「祇園さんのお祭りだよ、トラ」
彼は、私に、語りかける。
「今頃、町の真ん中は、すごい人だろうなあ」
その声には、何の、力も入っていない。ただ、どこか、遠い世界に、思いを馳せているような穏やかな響きがあった。
奈々の魂が、その言葉の意味を、理解する。祇園祭。日本三大祭の一つ。今、この屯所の外では、提灯が煌めき、人々が着飾って、その喧騒を楽しんでいるのだ。
けれど、私たちは、その輪の中に、入ることはできない。壬生の狼、と、人々から、畏怖される存在だから。
こん、ちきちん。
ひときわ、甲高い音が、夜風に乗って、はっきりと、ここまで届いた。
「ほら、今の音だよ、トラ」
沖田さんが、楽しそうに、私の耳元で囁く。
「あれが、コンチキチン、だよ。面白い音だろ」
言葉の意味は、分からない。けれど、その、楽しそうな声色に、私の身体の緊張も、自然と解けていった。私は、彼の足元に、身体をすり寄せ、その不思議な音の饗宴に、ただ身を委ねていた。
「……一度で、いいからさ」
沖田さんが、ぽつり、と、呟いた。
「何もかも、忘れて。あの中を、ただの、町人として、歩いてみたかったなあ」
その横顔は、少しだけ、寂しそうに、見えた。
私たちは、京の都を守っている。けれど、その、京の都は、私たちを、決して受け入れてはくれない。
私たちは、その後も、言葉を交わすことなく、ただ、黙って座っていた。
寄せては返す、遠い、祇園囃子の音色。
草むらで鳴く、虫の声。
隣にいる、この人の、穏やかな呼吸の音。
それらが、夏の夜の、ぬるい空気の中で、不思議なほど、心地よく混じり合っていく。
この、どこまでも平和で、どこまでも寂しい、京の夏の夜の記憶。
それは、まるで美しい一枚の絵のように、私の魂に、深く焼き付いている。




