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幕間6『一番隊組長の猫』

 

 じじじじじ。


 耳の奥まで染み込んでくるような、蝉の大合唱。夏の太陽は、ぎらぎらと輝き、熱く焼けた屯所の庭土は、陽炎を揺らめかせていた。私は、少しでも涼しい場所を求めて、縁側の、最も日陰になった部分に、だらりと体を伸ばす。毛皮一枚、脱ぎ捨ててしまいたいほどの暑さだった。


 その日の昼下がり、屯所の道場は、普段とは違う、ぴりぴりと張り詰めた熱気に満ちていた。

 一番隊の隊士たちが、ずらりと、整列している。その中央に、沖田さんが、すっと、静かに立った。いつもの、子供のような笑顔は、どこにもない。そこにあるのは、獲物を前にした、獣のような、鋭い眼光。その気配だけで、周囲の空気が、びりびりと震えるのが、私にも分かった。

「始め!」

 その、高く、涼やかな声が、夏の暑さを切り裂いた。

 次の瞬間、私の目に映ったのは、信じがたい光景だった。


 十数人の男たちが、まるで、一本の、巨大な、多足の生き物になったかのように、寸分違わぬ動きで、剣を振るい始めたのだ。

 ひゅっ、と、空気を切り裂く音。それが、一つになって、ごう、という、風の唸りのようになる。

 ざっ、と、土を踏みしめる足音。その振動が、縁側の床板を通して、私の腹に、直接響いてくる。

 太陽の光を反射して、きらり、きらりと、刃が、眩しく煌めく。

(……すごい)

 奈々の魂が、畏怖に、震えた。

 これは、ただの、剣の稽古ではない。一人の指揮官の元、完璧に統制された、集団戦闘術。個々の強さだけでなく、それを、一つの、巨大な力へと昇華させる、沖田さんの、恐るべき、統率力。池田屋で、浪士たちが、為す術もなく、斬り伏せられていった理由が、今、目の前にある。


「そこ! 腕が下がっている!」

「足の運びが、半歩、遅い!」

 彼の、的確な、指示が飛ぶ。その声は、非情なほどに、冷徹だ。けれど、その奥に、自分の隊の強さを、誇りに思う、熱い、熱い、想いが、炎のように燃えているのを、私は感じていた。


 どれほどの時間が、過ぎただろうか。

「―――そこまで!」

 その一言で、ぴたり、と、多足の獣は、その動きを、止めた。

 後に残されたのは、隊士たちの、荒い息遣いと、滝のように流れる汗、そして、やり遂げたという、満足感に満ちた、空気だけだった。


 隊士たちが、口々に、沖田さんへの賞賛を述べながら、道場を後にしていく。

 沖田さんは、その一人一人に、静かに頷きかけると、汗を拭いもせず、私の元へと、まっすぐに、歩いてきた。

 その瞳は、まだ、戦士の光を宿したまま、らんらんと、輝いている。

 彼は、私の前に、どっかりと、腰を下ろすと、その、汗で光る腕で、私を、ひょいと、空高く、抱き上げた。

 視界が、ぐんと、高くなる。屯所の屋根も、その向こうの、青い空も、全てが、私のものになったような、錯覚。


「どうだ、トラ」

 彼の、弾むような声が、すぐ耳元で、響いた。

「俺の隊は、天下一だろう!」

 その声は、彼の、揺るぎない自信と、仲間への、深い、深い、愛情に満ちていた。


 私は、彼の、熱い胸板に、自分の頬を、すり寄せた。

 彼の、健康な、汗の匂い。とくん、とくん、と、力強く、規則正しく、脈打つ、心臓の音。

 この、腕の中が、この世界の、中心であり、全てだった。

 私は、ただ、誇らしい気持ちで、精一杯、大きな声で、こう、鳴いてやったのだ。

「にゃーーーーーーん!」と。

 お前こそ、天下一の、飼い主だよ、と。

 もちろん、その声は、彼には、届かなかったけれど。

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