第三十話
私の知っている音と、違う音が世界を揺らしていた。
それは、遠くで鳴る雷ではない。もっと、低く、骨の芯まで、じんと響いてくる、嫌な音。その音が、南の空から聞こえてくるたび、私を抱く沖田さんの腕が、ぴくりと強張る。彼の心臓が早鐘を打つ。その、恐怖とも、興奮ともつかない、尋常ではない律動が、私の身体に直接伝わってきた。
その音が止んだ日、屯所の匂いが変わった。
いつもと同じ、冬の冷たく澄んだ空気の中に、ぷんと、生臭い、濃密な匂いが混じり始めたのだ。それは、私が知っている、斬り合いの後の、鉄の匂いとは、少し違った。肉が、焼け焦げたような、香ばしくも、おぞましい匂い。
その匂いを纏った隊士たちが、荷物のように、次々と、屯所に運び込まれてくる。
私の本能が、叫んでいた。逃げろ、と。ここは、危険だ、と。
屯所の中は、狂った蜂の巣のようだった。
私の視界に映るのは、無数に、行き交う、足、足、足。そのどれもが、焦りと、恐怖に、駆り立てられている。私は、その足に踏み潰されまいと、必死に、柱の陰に身を潜めた。
どこかで、誰かが怒鳴っている。何かを燃やしている匂いもする。
もう、ここが、私の知っている、穏やかな「家」ではないことだけは分かった。
その、混乱の極みの中で、沖田さんの匂いを見つけた。
彼は、土方さんに肩を支えられ、よろよろと、歩いている。
置いていかれる!
その、動物的な恐怖が、私を動かした。私は、柱の陰から飛び出し、彼の足元に夢中ですがりつく。
「……トラ」
見下ろした彼の顔は、真っ白だった。けれど、その瞳は、確かに私を捉えていた。
彼は、ほとんど無意識のようだった。ふらりと、その場に屈み込むと、私を、ひょいと掬い上げる。そして、その懐の中へと押し込んだ。
そこは、彼の病の匂いと、冷たい汗の匂いがしたが、外の世界の、狂ったような喧騒からは、完全に隔絶されていた。ここだけが、私の安全な場所だった。
どれくらい、そうしていただろう。
不意に、地面が、ぐらり、と、大きく、揺れた。
いや、違う。これは、地面ではない。私のいる、この場所全体が、不規則に、ゆさ、ゆさ、と揺れているのだ。ざぶん、という、巨大な水の音と、ぎい、と、木が軋む、耳障りな音が、沖田さんの身体を通して、私に伝わってくる。
(……船だ)
奈々の魂が、そう理解した。私たちは、京を、捨てて逃げるのだ。
私は、恐る恐る、懐の隙間から外を覗いた。
そこは、私の知らない世界だった。
どこまでも続く、黒い、水の、うねり。空には、月も、星もない。ただ、潮の、ひどく、しょっぱい匂いと、強い風が、私の鼻をひりつかせた。
私の周りには、たくさんの男たちが、物言わぬ、塊になって転がっていた。
少し離れた場所に、ひときわ大きな塊がある。それは、時折、小さく、震えていた。近藤さんだ。その塊からは、どうしようもない絶望の匂いがした。
船の先の方には、一本の、杭のように、真っ直ぐに、突っ立っている、影があった。土方さんだ。その影からは、氷のような怒りの匂いがした。
沖田さんは、ただ、黙って、黒い水面を見つめていた。
その胸が、ひゅう、と、嫌な音を立てる。そして、激しい咳と共に、彼の身体が、大きく、折れ曲がった。
私を抱く腕に、ぎゅっと、力がこもる。
私は、たまらなくなって、彼の、その冷え切った懐の奥へと頭を押し付けた。
怖い。
揺れる、この場所も。
しょっぱい、風の匂いも。
そして、何より、この腕の中で、日に日に、その温もりを、失っていく、この人の命が。
私の、小さな世界が、今、まさに、音を立てて崩れようとしていた。




