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第二十九話

 年が明けても、冬は、その居座りをやめようとはしなかった。


 時折、雪が止み、雲の切れ間から、水っぽい、弱々しい太陽が顔を出す日もあった。けれど、それは、春の訪れを期待させるような、希望の光ではない。ただ、凍てついた世界の、その残酷なまでの白さを、より一層、際立たせるだけの、無慈悲な光だった。


 私の世界は、沖田さんの膝の上と、彼が寝ている布団の上が、その全てになった。

 彼の胸に耳を当てると、とくん、とくん、という、か細い心音の奥で、彼の肺が、ひゅう、ひゅう、と、小さな悲鳴を上げているのが、聞こえた。その、乾いた、空気が漏れるような音を聞くたびに、奈々の魂は、どうしようもない恐怖に襲われる。

(ああ、この人の命は、内側から、静かに、壊れていっている……)

 けれど、猫である私の身体は、その規則正しい心音と、病が発する微かな熱を、心地よいと感じてしまう。私は、彼の胸の上で、目を細め、眠りに落ちてしまうのだ。この、どうしようもない、裏切り。


 その日、沖田さんは、珍しく、何かを作ろうとしていた。

 小さな木切れを、小刀で、削っている。きっと、私のために、何か、おもちゃでも、作ろうとしてくれているのだろう。

 けれど、その指は、彼の意思とは無関係に、かたかたと、小刻みに震え、うまく、木を削ることができない。やがて、彼は、諦めたように、小刀と木切れを、ことり、と、畳の上に置いた。

 その、小さな、絶望の音。


 そんな、時が止まったような、私たちの小さな世界を、外の世界が、侵食し始めた。

 匂いが、変わったのだ。

 それまでの、味噌汁の匂いや、い草の匂い、隊士たちの汗の匂いに代わって、屯所を満たし始めたのは、鉄と、油の、ひどく、無機質な匂い。刀を研ぐ、砥石の匂い。そして、私が今まで嗅いだことのない、洋から来たという、新しい鉄砲を手入れするための、鼻につく、薬品の匂い。この匂いがする場所を、私の身体は、本能的に、避けた。


 音も、変わった。

 昼も、夜も、屯所のどこかから、かちゃ、かちゃ、という、金属を磨く、神経質な音が、聞こえ続ける。隊士たちの足音は、せわしなく、廊下は、常に、誰かが行き来している。穏やかな時間は、もう、どこにもなかった。この家全体が、巨大な、一つの、生き物になって、決戦を前に、その身体を、強張らせているようだった。


 その日は、突然、やってきた。

 朝から、屯所の空気は、張り詰めていた。隊士たちは、いつもの浅葱色の羽織ではなく、動きやすい、黒い筒袖の隊服に身を包んでいる。誰もが、口を固く結び、その目には、決死の覚悟が、宿っていた。


 近藤さんと土方さんの、檄を飛ばす声が、部屋の中にまで、響いてくる。

「我らの、誠を見せるのは、今だ!」

「死ぬなよ! 生きて、帰ってこい!」

 おう!という、地鳴りのような雄叫び。そして、たくさんの、たくさんの、足音が、屯所の土を踏みしめ、遠ざかっていく。

 一人、また一人と、仲間たちが、戦場へと、向かっていく。


 沖田さんは、その音の全てを、布団の中から、ただ、聞いていた。

 誰も、彼を、呼びには来ない。誰も、彼の部屋の、障子を開けはしない。

 彼は、もう、戦力ではないのだ。ただ、守られるべき、過去の、遺物なのだ。

 やがて、最後の足音が、聞こえなくなった。

 後に残されたのは、まるで、この世の終わりみたいに、がらんとした、絶対的な、静寂だけだった。


 沖田さんは、何も言わない。

 ただ、私を、ぎゅっと、抱きしめ、布団を、頭の先まで、深く、被った。

 まるで、この世界から、耳を、塞ぐように。


 どれくらいの時間が、経っただろう。

 私の、猫の耳が、その、静寂を突き破る、異質な音を、捉えた。

 南の方角から、腹の底に、びりびりと響くような、低く、重い、音。


 どぉぉぉぉぉぉん……!


 それは、雷の音ではない。寺の鐘の音でもない。

 奈々の魂が、その音の正体を、理解する。

(……大砲)

 鳥羽・伏見の戦いが、始まったのだ。


 その音に、沖田さんの身体が、びくん、と、大きく、跳ねた。

 彼は、布団から顔を出すと、その、虚ろだった瞳を、信じられない、というように、大きく、見開いた。そして、這うようにして、障子際まで行くと、外の、灰色の空を、睨みつけた。南の、空を。


 どぉぉぉぉぉぉん……!


 再び、世界が、揺れる。

 彼の喉の奥から、ひ、と、声にならない、音が漏れた。

 その顔に浮かんでいたのは、病への絶望でも、死への恐怖でもない。

 自分が、いるべき場所に、いられない。仲間たちが、今、まさに、死闘を繰り広げている、その場所に、駆けつけることができない。

 剣士として、ただ、戦場で死ぬことだけを、望んでいた男の、その、最後の、夢さえも、打ち砕かれた、絶対的な、無念と、憤怒の表情だった。


 彼は、何も言わずに、ただ、震える拳で、強く、強く、畳を、叩いた。

 私は、彼の膝の上で、その、声にならない、魂の絶叫を、全身で感じながら、ただ、震えることしか、できなかった。

 戦の始まりを告げる、その無慈悲な砲声は、彼の、剣士としての人生の、終わりを告げる、弔いの鐘のようだった。

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