表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/59

第二十八話

 


 私の身体は、正直だ。


 凍てつくような冬の朝でも、障子の向こうに、ほんの僅かでも、陽の光が差しているのを見つければ、私の四本の足は、勝手に、そちらへと向かってしまう。

 人間たちの世界が、どれほど重く冷たい空気に満ちていようとも、私の身体は、ただ暖かい場所を求めている。それが、猫という生き物のどうしようもないさがだった。


 今日の陽だまりは、縁側の一番隅っこにあった。

 私は、そこに、綺麗に香箱座りを作ると目を細め、背中に当たる、頼りない太陽の温もりを全身で味わう。気持ちがいい。喉の奥が、自然とごろごろと鳴り始める。

(ああ、平和だなぁ……)

 魂の片隅で、相川奈々が、そう呟く。


 違う。


 平和なんかじゃない。


 この家は、もう、壊れ始めている。その証拠に、私の鼻は、この屯所に、新しく染み付いた匂いを敏感に感じ取っていた。


 それは、土の匂いでも、い草の匂いでも、隊士たちの汗の匂いでもない。

 もっと、古く、そして、錆びついた、鉄の匂い。

 油小路で流された血の匂いは、雪に埋もれ、人の鼻には、もう、届かないのかもしれない。けれど、猫である私の鼻には、まだ、こびりついているのだ。それは、もう、決して洗い流されることのない、死の匂いだった。


 その匂いを振り払うように、私は、縁側を後にした。

 沖田さんの部屋に戻ろう。あの人のそばが、結局、一番安心できる。


 廊下を歩く。私の視線は、常に、低い位置にある。見えるのは、隊士たちの、足元ばかりだ。

 柱の陰で、立ち話をしている、二人の隊士。その袴の裾は、ぴんと張り詰め、いつでも刀を抜けるように、重心が、前にかかっている。

 台所の前を通りかかると、床板の隙間に、干した魚の、小さなかけらが落ちていた。思わず、喉が、きゅ、と鳴る。食べたい。でも、今は、沖田さんの元へ。人間の理性が、猫の本能を、かろうじて押さえつけた。


 斎藤さんと、永倉さんが、廊下ですれ違った。

 二人とも、何も言わない。ただ、斎藤さんの、固く握られた拳と、永倉さんの、床板を、ぎしりと軋ませる、重い足音だけが、二人の間にある、決して、埋まることのない、溝の深さを物語っていた。

 私は、その間を、小さな身体を、するりと、すり抜けていく。


 沖田さんの部屋は、しん、としていた。

 薬の匂いと、そして、病人の身体から発せられる、独特の、甘く、澱んだ匂いが、満ちている。いつからか、この部屋は、沖田さん自身の匂いよりも、病の匂いの方が、濃くなってしまっていた。

 彼は、布団の上で、天井の一点を、ただ、じっと、見つめていた。


 私が、とん、と、布団の上に飛び乗っても、彼は、何の反応も示さない。

 私は、彼の、胸の上まで歩いていき、そこに、丸くなった。そして、前足を、ふみ、ふみ、と、動かし始める。

(もっと、生きて。お願いだから)

 奈々の魂が、泣き叫ぶ。背中をさすってあげたい。温かい汁物を作ってあげたい。大丈夫だよと、抱きしめてあげたい。

 けれど、猫の身体にできることは、ただ、こうして、彼の胸の上で、意味もなく、前足を、動かすことだけ。


 ごろごろごろ……。

 喉が、勝手に、鳴り続ける。

 それは、彼を、安心させるための音ではない。ただ、自分の、心地よさのためだけの、動物の、本能的な音。

 この、どうしようもない、無力感。伝えたい想いと、猫の身体との、乖離。それが、私にとっての、地獄だった。


 その、時だった。

 彼の、冷たい手が、私の背中に、そっと、置かれた。

 そして、その目が、ゆっくりと、私を、見た。


「……お前だけだなあ、トラ」


 彼の唇から、乾いた葉が擦れるような、か細い声が、漏れた。


「……お前だけは、昔と、何も、変わらないや」


 その言葉に、私は、息をのんだ。

 違う。私も、変わってしまった。あなたの、その悲しみに、胸が張り裂けそうなくらい、苦しいのだ。

 けれど、その苦しみを、伝える術がない。この、猫の毛皮が、私の絶望を、全て、隠してしまう。


 そして、その「変わらない」ように見える、私の姿が、彼に、ほんの少しの、安らぎを、与えている。

 なんと、皮肉な、ことだろう。

 私の、この、無力さこそが、彼の、唯一の、救いになっているだなんて。


 私は、彼の、冷たい手に、自分の額を、ぐり、と、押し付けた。

 それは、相川奈々の、彼への、絶望的なほどの、愛情だったのか。

 それとも、ただの猫の、飼い主への、気まぐれな、甘えだったのか。

 もう、その境界線は、私自身にも、分からなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ