第二十八話
私の身体は、正直だ。
凍てつくような冬の朝でも、障子の向こうに、ほんの僅かでも、陽の光が差しているのを見つければ、私の四本の足は、勝手に、そちらへと向かってしまう。
人間たちの世界が、どれほど重く冷たい空気に満ちていようとも、私の身体は、ただ暖かい場所を求めている。それが、猫という生き物のどうしようもない性だった。
今日の陽だまりは、縁側の一番隅っこにあった。
私は、そこに、綺麗に香箱座りを作ると目を細め、背中に当たる、頼りない太陽の温もりを全身で味わう。気持ちがいい。喉の奥が、自然とごろごろと鳴り始める。
(ああ、平和だなぁ……)
魂の片隅で、相川奈々が、そう呟く。
違う。
平和なんかじゃない。
この家は、もう、壊れ始めている。その証拠に、私の鼻は、この屯所に、新しく染み付いた匂いを敏感に感じ取っていた。
それは、土の匂いでも、い草の匂いでも、隊士たちの汗の匂いでもない。
もっと、古く、そして、錆びついた、鉄の匂い。
油小路で流された血の匂いは、雪に埋もれ、人の鼻には、もう、届かないのかもしれない。けれど、猫である私の鼻には、まだ、こびりついているのだ。それは、もう、決して洗い流されることのない、死の匂いだった。
その匂いを振り払うように、私は、縁側を後にした。
沖田さんの部屋に戻ろう。あの人のそばが、結局、一番安心できる。
廊下を歩く。私の視線は、常に、低い位置にある。見えるのは、隊士たちの、足元ばかりだ。
柱の陰で、立ち話をしている、二人の隊士。その袴の裾は、ぴんと張り詰め、いつでも刀を抜けるように、重心が、前にかかっている。
台所の前を通りかかると、床板の隙間に、干した魚の、小さなかけらが落ちていた。思わず、喉が、きゅ、と鳴る。食べたい。でも、今は、沖田さんの元へ。人間の理性が、猫の本能を、かろうじて押さえつけた。
斎藤さんと、永倉さんが、廊下ですれ違った。
二人とも、何も言わない。ただ、斎藤さんの、固く握られた拳と、永倉さんの、床板を、ぎしりと軋ませる、重い足音だけが、二人の間にある、決して、埋まることのない、溝の深さを物語っていた。
私は、その間を、小さな身体を、するりと、すり抜けていく。
沖田さんの部屋は、しん、としていた。
薬の匂いと、そして、病人の身体から発せられる、独特の、甘く、澱んだ匂いが、満ちている。いつからか、この部屋は、沖田さん自身の匂いよりも、病の匂いの方が、濃くなってしまっていた。
彼は、布団の上で、天井の一点を、ただ、じっと、見つめていた。
私が、とん、と、布団の上に飛び乗っても、彼は、何の反応も示さない。
私は、彼の、胸の上まで歩いていき、そこに、丸くなった。そして、前足を、ふみ、ふみ、と、動かし始める。
(もっと、生きて。お願いだから)
奈々の魂が、泣き叫ぶ。背中をさすってあげたい。温かい汁物を作ってあげたい。大丈夫だよと、抱きしめてあげたい。
けれど、猫の身体にできることは、ただ、こうして、彼の胸の上で、意味もなく、前足を、動かすことだけ。
ごろごろごろ……。
喉が、勝手に、鳴り続ける。
それは、彼を、安心させるための音ではない。ただ、自分の、心地よさのためだけの、動物の、本能的な音。
この、どうしようもない、無力感。伝えたい想いと、猫の身体との、乖離。それが、私にとっての、地獄だった。
その、時だった。
彼の、冷たい手が、私の背中に、そっと、置かれた。
そして、その目が、ゆっくりと、私を、見た。
「……お前だけだなあ、トラ」
彼の唇から、乾いた葉が擦れるような、か細い声が、漏れた。
「……お前だけは、昔と、何も、変わらないや」
その言葉に、私は、息をのんだ。
違う。私も、変わってしまった。あなたの、その悲しみに、胸が張り裂けそうなくらい、苦しいのだ。
けれど、その苦しみを、伝える術がない。この、猫の毛皮が、私の絶望を、全て、隠してしまう。
そして、その「変わらない」ように見える、私の姿が、彼に、ほんの少しの、安らぎを、与えている。
なんと、皮肉な、ことだろう。
私の、この、無力さこそが、彼の、唯一の、救いになっているだなんて。
私は、彼の、冷たい手に、自分の額を、ぐり、と、押し付けた。
それは、相川奈々の、彼への、絶望的なほどの、愛情だったのか。
それとも、ただの猫の、飼い主への、気まぐれな、甘えだったのか。
もう、その境界線は、私自身にも、分からなくなっていた。




