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第二十七話

 


 その夜、選ばれた者たちだけが、音もなく屯所から消えていった。

 斎藤さんの、影のような足音。永倉さんの、この日に限って、忍び殺された足音。彼らが、どこへ、何をしに行くのか。奈々の魂は、その全てを知っていた。けれど、猫である私にできることは何もない。ただ、沖田さんの布団の中で、彼の穏やかな寝息ねいきが、少しでも長く続くようにと祈るだけだった。


 沖田さんは、あの夜以来、不思議なほど穏やかだった。

 まるで、魂のどこかが、ぷつりと切れてしまったかのように、もう何にも心を揺らさなくなったのだ。

 私が、彼の枕元で、喉をごろごろと鳴らせば、力なく笑ってくれる。けれど、その瞳は、私を通り越して、ずっと遠くの、何もない空間を見つめている。彼は、もう、この世の、半分、向こう側へ行ってしまったかのようだった。


「……トラ」

 彼は、私を抱き上げると、部屋の隅に新しく置かれた、小さな火鉢の前に座った。土方さんが、どこからか、持ってこさせたものらしかった。

 ぱちり、と、炭の爆ぜる、小さな音。赤い熾火おきびの光が、彼の、あまりにも白い顔をぼんやりと照らし出す。

 この、火鉢を中心とした、腕の中の小さな世界。それが、今の、彼の全てだった。


 外の世界で、今、何が起きていようとも、彼は、もう知る由もない。


 その、静寂を、最初に破ったのは、私の耳だった。

 遠くで、誰かの、鋭い、叫び声が聞こえた。気のせいかと、耳を澄ます。違う。一つではない。複数の、怒声と、そして、鋼が激しくぶつかり合う音。

 私は、思わず、びくりと、身を固くした。


「……どうしたんだい、トラ」

 沖田さんが、私の背中を、優しく撫でる。彼には、この音は、聞こえていないのだろうか。いや、そうではない。聞こえていても、もう、彼の心には、響かないのだ。それは、彼とは、関係のない、世界の音だから。


 やがて、その音は、遠ざかっていった。

 そして、どれほどの時間が、過ぎただろうか。


 屯所の門が、ぎぃ、と、重い音を立てて、開かれた。

 帰ってきたのだ。

 私は、沖田さんの腕の中から、そっと抜け出し、障子の隙間から、外を窺う。


 斎藤さんの衣服は、闇の中でも分かるほど、どす黒く、濡れている。永倉さんは、腕に、新しい傷を負っているようだった。そして、その誰もが、口を固く閉ざし、顔からは、一切の感情が抜け落ちていた。

 ただ、その全身から、むせ返るような、濃い、濃い、鉄の匂いを、立ち上らせて。

 血の匂いだ。


 奈々の魂が、震える。

(……藤堂さん)

 ああ、あの、太陽のように明るかった、一番隊の仲間。彼もまた、この、血の匂いの中に、含まれてしまっているのだろうか。


 翌朝、屯所には、奇妙な空気が流れていた。

 隊士たちは、皆、何かを知っている。けれど、誰も、そのことには触れようとしない。ただ、ひそひそと、「裏切り者」「天誅」という言葉だけが、冷たい廊下を行き交っていた。


 その日、沖田さんは、久しぶりに、食事をきちんと食べた。

 彼の体調が、少しだけ上向いたのかもしれない。

「トラ、見てごらん。今日は、ご飯が美味しいや」

 彼は、そう言って、本当に、久しぶりに、心の底から笑ったように見えた。


 その、あまりにも、無邪気な笑顔が、私の心をナイフのように切り裂いた。

 あなただけが、知らない。

 あなただけが、何も、知らされないままなのだ。

 あなたが、守ろうとした、この「家」が、仲間同士で血を洗い、静かに腐り始めていることを。


 昼過ぎ、一人の若い隊士が、沖田さんの部屋に薬湯を運んできた。

 沖田さんは、上機嫌でその隊士に声をかける。

「昨日の夜は、なんだか、少し、騒がしくなかったかい。何か、あったのかい?」

 その、何気ない一言に、若い隊士の顔が、さっと、青ざめた。

「い、いえ! 何も! 何も、ありませんでした!」

 彼は、そう言うと、逃げるように、部屋から、出ていってしまった。


 後に残されたのは、気まずいほどの、静寂。

 沖田さんの顔から、すうっと、笑顔が消えていく。

 彼は、何も、言わない。ただ、じっと、若い隊士が去っていった、障子の向こうを見つめていた。

 そして、ぽつり、と、呟いた。


「……そうかい。何も、なかったのかい」


 その声は、誰を、責めるでもない。ただ、ひどく悲しげだった。

 彼は、もう、気づいているのだ。

 自分が、この「家」の中で、守られるべき、か弱い、客人になってしまったことに。

 戦いの輪から、完全に、外されてしまったことに。


 彼は、私を、その膝の上に乗せると、小さなため息をついた。

「……俺には、もう、何も、教えては、くれないんだね、トラ」


 その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。

 火鉢の火が、ぱちり、と、最後の音を立てて、静かに消えた。

 部屋の中は、まるで、彼の心の中のように、ひどく寒々としていた。

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