第二十六話
雪は、この世の全ての音を吸い込んでしまう。
屯所を支配していたのは、しん、と静まり返った、息の詰まるような沈黙だけだった。その静寂の中で、二つの氷の塊が、互いに反発し合い、見えない火花を散らしているのを、私だけが感じていた。
一つは、鬼の副長・土方歳三が放つ、凍てつくような怒気。
もう一つは、新参謀・伊東甲子太郎が振りまく、理知的で、それゆえに冷たい新しい風。
伊東派の隊士たちが集まる部屋からは、時折、熱のこもった議論の声が漏れ聞こえてくる。彼らは、もう、竹刀ではなく、書物と筆を武器に戦おうとしているようだった。その部屋の前を通りかかる、古参の隊士たちの背中は、どこか、戸惑っているように見えた。
沖田さんは、そんな屯所の変化を、部屋の布団の中から、ただ、静かに眺めていた。
彼は、もう、どちらの輪にも、入ろうとはしなかった。ただ、時折、障子の隙間から、楽しそうに議論を交わす伊東派の隊士たちと、道場の隅で黙々と刀を振るう土方さんたちを、交互に、何の感情も映さない瞳で、見ているだけだった。まるで、この世の者ではない、幽霊のように。
その、張り詰めた糸が、ぷつり、と切れたのは、ある寒い日の朝のことだった。
伊東甲子太郎が、近藤さんと土方さんの前で、正式に、隊からの離脱を申し出たのだ。
「我らは、帝の御陵を守る『御陵衛士』として、新選組とは別の形で、誠を貫きたく存じます」
その言葉は、どこまでも丁寧で、理路整然としていた。しかし、その裏にある「お前たちのような、ただの剣客集団とは、もはや道を共にできない」という、傲慢な響きを私の耳は見逃さなかった。
土方さんの顔が怒りで歪む。けれど、近藤さんが、それを、そっと手で制した。
こうして、伊東派の隊士たちは、堂々とこの壬生屯所を去っていった。その中には、藤堂平助さんの姿もあった。試衛館時代からの、沖田さんの、数少ない本当の友人だった男。
藤堂さんは、屯所を去る前夜、誰にも見つからないように、そっと沖田さんの部屋を訪れた。
障子の向こうで、二人がどんな言葉を交わしたのか、私には分からない。ただ、長い沈黙の後、「……達者でな、平助」という、沖田さんの、ひどくか細い声が聞こえただけだった。
友が、また一人、彼の元から去っていく。彼は、もう、それを引き留めることすらしなかった。
伊東一派が去った後の屯所は、人数が減ったはずなのに、なぜか、以前よりもずっと息苦しく感じられた。
それは、嵐の前の不気味な静けさだった。
その夜、私は、見た。
近藤さんの部屋で、土方さんと、そして、なぜか、斎藤さんが、三人だけで、顔を突き合わせているのを。障子に映るその影は、まるで、獲物を狩る前の、獣たちのようだった。
漏れ聞こえてくる声は、ひどく小さい。
「……油小路」
「……酒の席」
「……一人、残らず」
奈々の魂が、その単語の意味を理解し、絶望に凍りつく。ああ、知っている。私は、この後に、何が起こるかを。
その夜、沖田さんは、また激しく咳き込んだ。
けれど、もう、血を吐くことはなかった。彼の身体には、もう吐き出すほどの、血も残ってはいないのかもしれない。
咳が収まると、彼は、ぜいぜいと浅い息を繰り返しながら、私の頭を、おぼつかない手つきで撫でた。
「……トラ」
その声は、ひどく穏やかだった。
「……寒くなってきたね。……火鉢でも、出してもらおうか」
その、あまりにも日常的な言葉が、逆に私の胸を締め付ける。
この人は、もう、何も知らないのだ。知らされていないのだ。
かつて、仲間だった者たちが、今夜、互いに、血で血を洗う、惨劇を、繰り広げようとしていることなど。
私は、彼の、骨張った冷たい手に、自分の身体を、強くすり寄せた。
私の、この、小さな温もりだけが、彼の、唯一の真実であればいいと願いながら。
外では、凍てつくような冬の風が、ひゅう、と、泣くような音を立てて吹き荒れていた。
それは、これから流されるであろう、夥しい血の匂いを運んでくる、死神の吐息のようだった。
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