第二十五話
その年の冬は、容赦がなかった。
一度降り始めた雪は、根雪となって屯所の庭を真っ白に覆い尽くし、世界から一切の色を奪い去ってしまった。昼間でも、障子を通して部屋に入ってくる光はどこか頼りなく、冷たい。道場から聞こえてくる隊士たちの掛け声も、分厚い冬の空気に吸い込まれて、まるで遠い世界の響きのように聞こえた。
沖田さんの世界は、彼の部屋の、布団一枚分の広さまで縮んでしまったようだった。
彼はもう、縁側で日向ぼっこをすることさえ稀になった。ただ、一日中、部屋の隅に敷かれた分厚い布団にくるまり、壁の一点を、ぼんやりと見つめている。私がその冷え切った布団に潜り込んでも、彼はただ、私の重みを、そこに「在る」ものとして受け入れるだけ。私を撫でるその手は、ひどく、冷たかった。
隊士たちの彼に対する態度も、少しずつ変わっていった。
夏頃までの、英雄を見るような眼差しはない。秋口の、病人を気遣うような、遠慮がちな優しさも、もうない。そこにあるのは、どう接していいか分からない、という戸惑いだけだった。かつて最強の剣士だった男が、今はただ、静かに朽ちていくのを待っている。そのどうしようもない事実が、皆の心を重くし、彼を遠ざけていた。
沖田さんの光が失われていく一方で、屯所には、伊東甲子太郎という、新しい光が満ち溢れていた。
彼は、若い隊士たちを集めては、私には到底理解できない、難しい言葉で、これからの国の在り方を説いて聞かせた。
「これからは、思想の時代です。我ら新選組も、帝をお守りするための、より近代的な組織へと生まれ変わらねばなりません」
その言葉は、甘い蜜のように、山南さんの死で拠り所を失くしていた若い隊士たちの心を、巧みに掴んでいく。
その輪の外で、土方さんが、腕を組み、氷のような目で、その光景を眺めていた。伊東さんが、ふと、土方さんの視線に気づき、にこりと、人好きのする笑みを向ける。二人の間に、目には見えない、冷たい火花が散ったのを、私の猫の五感は、敏感に感じ取っていた。
この家は、内側から、静かに、壊れ始めている。
その亀裂の音は、まだ誰の耳にも届いていない。けれど、それは、確実に、日増しに大きくなっていた。
ある、雪の日の夕暮れ。
屯所が、夕餉の支度でわずかに活気づく、そんな時間だった。
私は、沖田さんの部屋の隅で、丸くなっていた。彼は、珍しく布団から身を起こし、文机に向かっている。けれど、筆を握るでもなく、ただ、じっと、目の前の白い紙を見つめていた。
その時、彼の部屋の前に、一つの影が、すっと、立った。
土方さんだった。
彼は、障子を開けるでもなく、声をかけるでもない。ただ、そこに数瞬佇んでいた。やがて、懐から、小さな黄色い果実を一つ取り出すと、それを、音も立てずに、障子の前にそっと置いた。そして、来た時と同じように、音もなく去っていった。
残されたのは、雪の白さと、障子の白さの間に、ぽつんと置かれた、一つの、鮮やかな、柚子の黄色。
それは、鬼の副長の、あまりにも不器用で、誰にも知られることのない優しさだった。
沖田さんは、その気配に気づいていたのか、いなかったのか。彼は、机に向かったまま動かない。
やがて、その肩が、小さく、震え始めた。
「……こほっ」
乾いた、小さな咳。
それが、合図だった。
「……こほ、ごほっ……げほっ、げほっ!」
一度火がつくと、もう止まらない。彼の身体が、激しく波打つ。彼は、手ぬぐいで口を押さえるが、その薄い布一枚では、内側から突き上げてくる衝動を、受け止めきれるはずもなかった。
手ぬぐいの隙間から、彼の指の間から、ぽた、ぽたと、鮮血が滴り落ちる。
白い文机の上の紙に、それは、まるで、赤い椿の花が咲いたかのように、じわり、と、広がっていった。
彼は、自分が吐き出した、その血の色を、まるで他人事のように、ただ見つめていた。その瞳には、もう、恐怖も、絶望も、浮かんでいない。ただ、全てを諦めきった、底なしの虚無があるだけだった。
私は、たまらず、彼の足元に駆け寄り、その袴に、自分の身体を、必死にすり寄せた。
彼は、ゆっくりと、私を見下ろした。そして、初めて、その瞳に、ほんの少しだけ、感情の色が戻った。それは、悲しみだった。
「……トラ」
彼は、か細い声で、私を呼んだ。
「……見てたのかい。……汚いだろう。ごめんね」
彼は、そう言うと、血で汚れた紙を、くしゃりと、丸めて、握り潰した。
まるで、自分自身の、残り少ない命を、握り潰すかのように。
外では、いつの間にか、雪が、また、激しく降り始めていた。
それは、これから始まる、長い、長い、孤独な冬の、本当の、始まりを告げる、弔いの雪のようだった。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




