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第三話

 

 意識が浮上する。


 最後に感じていたのは、沖田総司の腕の温かさと、規則正しい心音だった。だが、今私を包んでいるのは、それとはまた違う、穏やかで優しい温もりだった。


 恐る恐る目を開けると、そこは薄暗い室内だった。私は、ふかふかとした一枚の座布団の上に寝かされている。鼻をくすぐるのは、冷たい土の匂いではなく、い草の青々しい香りと、古い木材が陽に焼けたような懐かしい匂い。遠くから、複数の男たちの声と、乾いた木刀が打ち合う小気味良い音が聞こえてくる。


(……生きている)


 その事実を実感した途端、再び強烈な飢餓感が蘇った。起き上がろうとすると、目の前に小さな木の皿が二つ置かれていることに気づく。一つには綺麗な水がなみなみと張られ、もう一つには、こんがりと焼かれた魚の身が丁寧にほぐして乗せられていた。


 夢中で水に顔を突っ込む。乾ききった喉を命の水が潤していく感覚に、思わず夢中になった。次に、ほぐされた魚の身を、一心不乱に口へとかき込む。塩加減が絶妙で、身はふっくらと柔らかい。猫として生きて初めての、まともな食事だった。涙が出そうだったが、猫の身体ではうまく泣くこともできない。


 私が無我夢中で食べていると、すぐそばからくすくすと笑う声が聞こえた。

 はっと顔を上げると、少し離れた場所で、あの青年――沖田総司が、膝を抱えて座り込み、実に楽しそうに私を眺めていた。私が目を覚ますのを、ずっと静かに待っていてくれたらしい。


「目が覚めたかい? よかった。ずいぶんお腹が空いていたみたいだね」

 彼の声は、やはり春の陽光のように穏やかで、私のささくれ立った心を優しく撫でるようだった。


 食事が終わり、少しだけ体力が回復した私に、沖田さんはにこにこと笑いかけながら言った。

「さて、君にも名前をつけないとね。うーん……」

 彼は私の毛並みをじっと見つめる。その視線は真剣そのものだ。

「君は、綺麗な茶色の毛をしている。虎みたいだ。そうだ、今日から君の名前は『トラ』だ。どうだい、気に入ったかい?」


(トラ……)


 元・相川奈々、二十八歳女性。新しい名前は、トラ。あまりにも男らしく、単純明快な名前に、私は内心、微妙な顔をするしか無かった。だが、彼がつけてくれた初めての贈り物だ。文句などあるはずもない。私が「にゃあ」と返事をすると、彼は満足そうに頷いた。


 その時だった。

 背後の襖が、すぱん、と勢いよく開け放たれた。


「総司、いるか。稽古の時間だぞ、何を油を……」

 入ってきたのは、着古した着流しの上に、黒紋付の羽織をぞんzaいに羽織った、鋭い眼光の男だった。切れ長の目、固く結ばれた薄い唇。その姿から放たれる、近寄りがたいほどの厳しい気迫に、私は思わずびくりと体を震わせる。


(ひ、土方歳三……!)


 鬼の副長、その人だ。本物だ。写真で見たよりもずっと精悍で、その存在感は、部屋全体の空気を一瞬で張り詰めさせた。

 土方さんは、座布団の上の私に気づくと、眉間の皺をさらに深くした。

「総司、なんだそれは。またくだらんものを拾ってきたのか」

「土方さん、ひどい言い方はないでしょう」

 沖田さんはむっとしたように唇を尖らせる。「この子はトラです。ただの猫じゃありません。きっと、この隊に福を呼んでくれますよ」

「福猫だと? 馬鹿馬鹿しい。すぐに捨ててこい。ここは野良猫を飼うような場所じゃない」


 土方さんの冷たい言葉に、私の小さな心臓はきゅうっと縮こまる。しかし、その二人のやり取りを遮るように、今度は豪快な笑い声が響いた。


「まあまあ、トシ。そう固いことを言うな」

 襖の向こうから現れたのは、土方さんよりもさらに大きな体躯の、人の良さそうな顔をした男だった。新選組局長、近藤勇。その人だった。

「おお、これはいい。ずいぶんと可愛らしい客人じゃないか。寂しい屯所に、少しは和みが生まれるかもしれん」

 近藤さんはそう言って笑うと、私の前に屈み込み、大きな手で優しく頭を撫でてくれた。その手は、まるで父親のように温かく、頼もしかった。


「……近藤さんがそうおっしゃるなら」

 土方さんは、渋々といった様子でため息をつき、それ以上は何も言わなかった。こうして、私は三人の幹部に見守られる形で、壬生浪士組の一員(一匹?)として、正式に迎えられたのだった。


 沖田さんは「ほら、もう大丈夫だよ」と私を抱き上げ、縁側へと連れて行く。

 目の前には、広い中庭が広がっていた。そこで、何人もの隊士たちが竹刀を手に、汗を流しながら稽古に励んでいる。掛け声が、土埃が、陽光が、むせ返るような生命力となって私に迫ってくる。


 ここが、壬生屯所。

 私が焦がれ、夢にまで見た場所。

 沖田さんの膝の上という特等席で、私は歴史が生まれる瞬間を目の当たりにしていた。目の前で剣を振るう男たち。彼らの多くが、数年後にはこの世にいないことを、私だけが知っている。


 温かい膝の温もりと、すぐそばにある沖田さんの体温。生まれて初めて感じるほどの安らぎ。しかし、その安らぎとは裏腹に、私の胸の奥深くでは、どうしようもない悲しみが、静かに芽吹き始めていた。

 これは、夢であって、悪夢なのだ。


 私はただ、その光景を黙って見つめることしかできなかった。

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