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第二十四話

 

 秋が深まるにつれ、沖田さんの周りから、色が、音が、少しずつ消えていった。


 彼はもう、自ら稽古を眺めに行くことすらしなくなった。ただ、日当たりの良い縁側に、分厚い布団にくるまって座っている。その膝の上が、私の定位置になった。道場から聞こえてくる竹刀の音や、隊士たちの掛け声は、もう彼の世界とは関係のない、遠い場所の音のようだった。


「……こほっ」


 時折、彼の背中が小さく揺れる。その乾いた音を聞くたび、私の身体の芯が、きゅう、と冷たくなった。


 ある日の昼下がり、斎藤さんが、縁側の前を通りかかった。彼は、私と、私の重みで少しだけ凹んでいる沖田さんの膝に、すっと視線を走らせると、ほんの一瞬だけ、足を止めた。そして、誰にも気づかれぬほど小さく、こくりと頷くと、また、影のように静かに去っていった。言葉はない。けれど、その沈黙には、剣を失った者への、剣士なりの、不器用な情が滲んでいるように、私には感じられた。


 沖田さんが光を失っていく一方で、屯所には、伊東甲子太郎という新しい光が満ち始めていた。彼は、若い隊士たちを集めては、これからの国の在り方を、立て板に水のごとく語って聞かせた。

「もはや、剣の時代は終わりを告げようとしています。これからは、思想と、外交の時代。我らも、ただ人を斬るだけの集団であってはならない」

 その言葉は、甘い蜜のように、若い隊士たちの心を惹きつけていく。


 その輪の外で、土方さんが、腕を組み、氷のような目をして、その光景を眺めていた。伊東さんが、ふと、土方さんの視線に気づき、にこりと、営業用の笑みを向ける。二人の間に、目には見えない、冷たい火花が散ったのを、私の猫の五感は敏感に感じ取っていた。この家は、内側から、静かに、壊れ始めている。


 夜が、長くなった。

 そして、その分だけ、沖田さんが、眠れずに過ごす時間も、長くなった。


 その夜も、彼は、布団の中で、何度も寝返りを打ち、浅いため息を繰り返していた。やがて、彼は、耐えきれないというように、ゆっくりと身を起こす。そして、月明かりに照らされた自分の両手を、まるで、得体の知れないものでも見るかのように、じっと、見つめていた。


 その、刹那だった。

「ごほっ、げほっ…!けほっ…!」

 彼の身体が、激しく、二つに折れ曲がる。それは、これまでのような、弱々しい咳ではない。彼の、内臓の奥深くから、何かを無理やり、引き剥がそうとするかのような、苦痛に満ちた発作だった。


 彼は、よろよろと立ち上がると、部屋の隅に置かれた手水盥へと、駆け寄った。そして、そこに、顔を突っ込むようにして、しばらく、背中を震わせ続けた。

 奈々の魂が、絶望に叫ぶ。分かっていた。いつか、この日が来ることが。


 やがて、長い発作が収まる。彼は、ぜいぜいと、肩で息をしながら、顔を上げた。そして、何事もなかったかのように、盥の水を、ばしゃり、と、手でかき混ぜて、その中身を、濁らせた。

 けれど、私の目は見てしまった。

 水が濁る、ほんの一瞬前に、その水面に、鮮やかな紅い染みが広がったのを。


 彼が、それを、隠したのを。


 沖田さんは、まるで亡霊のような足取りで、布団へと戻ってきた。その身体は、寒さからではない、内側からの恐怖で、がたがたと震えていた。


 彼は、私を見つけると、まるで、最後の命綱にでも、すがりつくかのように、私を、強く抱きしめた。私の毛皮に顔をうずめ、子供のように、その身をすり寄せてくる。

 彼の絶望が、冷たい震えとなって、私の身体に直接伝わってくる。


 私は、ただ、彼の腕の中で、必死に喉を鳴らし続けた。

 私の、この小さな身体の温もりが、彼の凍てついた魂に、少しでも届けと祈りながら。


 外を見ると、いつの間にか、空から、白いものが、はらはらと、舞い落ちてきていた。

 その年、最初の雪だった。


 冬の足音が、もう、すぐそこまで聞こえてきていた。

 それは、彼の命の、終わりを告げる、静かで、そして、あまりにも、無慈悲な足音だった。

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